加速定規

 定規を振り回して、高校地理教師の神崎明日香美(かんざきあすかみ)は、熱心に説明を続けた。
「明日香美は、アメリカに行ったとき、行きと帰りで飛行時間が違うことに気づいちゃったんだ。なんでかっていうと、偏西風のジェット気流なんだよね。ジェット気流が追い風になって、東京からアメリカへのフライトのほうが当然早く着く。そういうしくみなんだわさ」
 神崎明日香美はさらに激しく定規を振り回した。定規がすっぽ抜けると、恐るべきスピードで、生徒の茂師凝仁美(もしこりひとみ)のほうへ突き進んだ。神崎明日香美は、茂師凝仁美の西に位置していた。偏西風は西から吹くということを地理教師の神崎明日香美は熟知している。偏西風を発生させるのにもってこいのポジションである。
 今だ!
 神崎明日香美は、手のひらで偏西風のジェット気流を発生させ、定規よりも速いスピードでジェット気流を定規にぶつけた。加速する定規。
 茂師凝仁美は事もなげにそれをかわした。加速した定規は、後ろの席に座っていた七下豹子(ななくだりひょうこ)の眉間に突き刺さった。七下豹子にとって、それは蚊に刺されたくらいの出来事でしかなかった。
 七下豹子が無表情に定規を眉間から抜き取ると、二滴の血が机上に広げられた2万5千分の1地形図の上に落ちた。七下豹子は小さく「おっ!」と声を出し、抜き取った定規でとつじょ二滴の血の間の距離を測りだした。その距離は3センチメートル。
「750メートル!」
 七下豹子はさけんだ。間違いではない。2万5千分の1地形図であるゆえ、3センチを2万5千倍して、7万5千センチ。それをメートルに直すと、750メートルになるのであった。
 神崎明日香美は、先日の地形図の授業を遺憾なくマスターした七下豹子を見て、にっこりとほほえむばかりであった。

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