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【連載】この人生を生きるのに大切なこと

「私も連載を持ちたい!」という欲求のまま勝手に始めた月1連載。
HSP気質で、片頭痛、うつ、喘息を持病に持つ私が、生きるのに大切だと思うこと1つをテーマに、経験や考えを書いていきます。
毎月第1水曜日更新予定。


第1回  人生の時間の使い方


子供の頃、夏休みの宿題でも、図画工作の作品作りでも、なんでもやる前にイメージを具体化し、計画を立て、それに向けて完成させるタイプだった。
でも、ただ一つ、イメージも湧かなければ計画も立てられなかったことがある。
それが「人生計画」だった。

中学2年生の時だっただろうか、昼休みに友達と図書室で「人生計画」を立ててみることになった。私は大学に行きたいと思っていたので「22歳、大学卒業」まではサラサラと書けた。
ただ、その先のイメージが全く浮かばなかったのだ。
今思えば、私には「勉強したいこと」はあっても「なりたい職業」はなかった。まず「この仕事で食っていく」という「職業意識」がなかった。
そんなことには気付かぬまま、とりあえず身近な大人である父と母に学校を卒業した後のことを聞いてみた。
二人とも昭和20年代後半の生まれで、就職する時は若者が「金の卵」と言われ引く手数多な時代の少し後。働きながら学校に通い、卒業後は学んだこととは違う仕事に就き、20代後半で結婚。母は結婚後就きたかった仕事の求人が出ていたため応募、採用され今まで働いていると。父は定年退職後ずっとやってみたいと思っている仕事をやろうと思っていると教えてくれた。
中学生の時にこんな人生にしようと計画できていたかと尋ねると、二人とも「そんなこと考えもしなかったし、考えてもその通りにはならない」という答えだった。なるほど、今イメージができていなくてもそのうちできてくるし、これから考えていけばいいんだ!と中学生の私は思った。

人生の時間の使い方について考えを深めることなく、私は高校生になり、片頭痛とうつ病を発症した。
今まで当たり前にできていた毎日の通学が難しくなり、授業に必須の予習も思ったようにできなくなった。この頃はまだ片頭痛やうつ病の診断が付いておらず、ただただ今までとは違う自分の状態に困惑し、そんな自分を分析し対策することで遅刻・欠席を繰り返しながらも、どうにか登校を続けた。その中で、心と体の関係に興味を持ち、それが勉強できる大学に現役で合格した。

大学に進学し、実家を離れて一人暮らしをしたいと思っていた。実際、一人でやってみるという経験は私の人生には必要な時間だったと今でも思う。
1年生の7月、私は自分がいつでも死ねることに気付いた。そして「一番お荷物のこの自分を抱えて生きていく」と決めた。
1年生の時は頑張れていた体調も2年生になると徐々に悪化していった。
2年生の6月、精神医学の講義でうつ病の診断基準を勉強した際に自分の症状がそれに当てはまることを知り、初めて精神科に行った。抗うつ薬を処方され、服薬しながら通学を続けたが、頑張っても必要な時間の半分しか出席できず、この年は単位をほとんど落とした。その影響で留年した。

5年生のある日、ふと気付いた。
あれ、私、23歳だ。
あの中学2年生の図書室でイメージできなかった年齢の先に、今の私が立っていた。
あの頃は普通に生きていれば自然と22歳以降のイメージができるようになって、イメージができれば自然とそうなれるんだと思っていた。美術部で作成したポスターも、先輩に憧れて書き始めた小説も、イメージして構成して具体化していけば、そのほとんどを完成させることができた。
23歳の今まで何も努力しなかったわけではない。むしろ体を壊すほど頑張った。でも現実はどうだ?目の前には何の未来のイメージもない。ただひたすらにこの体と、この自分と付き合っていくのに手こずった日々、それがこれからも繰り返される。それしかなかった。
卒業したら就職して結婚して…みたいな「当たり前」の。少女漫画でよく見てきた「普通」の。そんな人生は、私には用意されていない。
こんな未来は想像していなかった。
なんか、ショックだった。

ある日の精神科通院日に、私は先生にこう言った。
「休日にやりたいことがたくさんあったのにあんまりできなくて無駄な時間を過ごしてしまった気がする」
すると先生は「世の社会人は休みの日はだらだらして過ごしたり、そんなもんですよ」「みんなそうやって息抜きしながらやってるんじゃないでしょうか」とおっしゃった。
私の頭の中に漫画とかドラマとかでよくある休みの日に旦那さんがリビングでだらだらして、奥さんに小言を言われるシーンが思い浮かんだ。
なるほど。あれは休息をとっていたのか。
それから意識的にスケジュールに「今日は何もしない予定の日」を入れて休息をとることにした。
ある「何もしない予定の日」に当時付き合っていた彼氏にどこかに出かけようと誘われた。私がうつを患っているのはもちろん知っている。なので今日はそういう日だからと断った。すると彼は意味が分からないと言った。患っているのを知っていてもそんな反応なんだと悲しい気持ちになった。
「どんなに言葉を尽くしても理解してもらえない」
そんな気持ちが私の心の根底にはずっとある。

大学は卒業したが、就職はしなかった。当時はマッサージ師になりたいと思っていて国家資格を取るために学校に行く必要があり、その学費を貯めようと思っていた。それまでの時間を有意義に使いたいと思い、見習いで施術をしながら協会の資格を取って働けるという求人があり働き始めた。だが数ヶ月で親指が腱鞘炎になり施術できなくなった。意外に体力が要る仕事だと分かり、体力がない私には難しいと断念した。
ちなみにこの時の経験は夫の体をケアすることに活かされている。

夢が断たれ、とりあえず正社員で働くことを目標に就職活動をしながらバイトをすることにした。
市役所の日々雇用の事務の仕事では、公務員は私には合わないということが分かった。仕事とプライベートを分けて働きたいのが私の働き方だが、公務員はそういう働き方ではないと感じた。
コンビニのお弁当やスイーツを製造する工場での仕事では、温度管理が人間ではなく食品に合わせて設定されており、その日に入るラインによっては汗だくになったり寒くてガタガタ震えながら働かなくてはいけなかったりと、自律神経がおかしくなりそうだった。
そんな中ようやく正社員で就職できた。しかし、勤務時間が8時半~17時の週5勤務、朝夕渋滞に巻き込まれながらの出勤に、苦手な冬に入社し、繁忙期ということもあり、半年でうつ病を再発し退職した。
今では1日4時間半、週4勤務を選択しているが、この時の私はこの勤務時間が「普通だから」と自分には大きすぎる負荷だと気付いていなかった。

約1年後に夫と結婚。
20代後半での結婚。普通は難しいと思っていた私が、お付き合いしてプロポーズされて…という普通の恋愛をして結婚できた。そんな当たり前の、でも大切な経験をさせてくれた夫にとても感謝した。
そんな夫と過ごし、気分の波はあるものの徐々に回復、1年後にはうつのリハビリを兼ねて前職である書店で働き始めた。扶養の範囲内で1日4時間程度。元々本は好きだし、接客は学生の時に経験があったので問題なく働けた。趣味で市民劇団にも参加し、2、3年後にはうつの薬も減り通院を卒業した。

私は29歳になっていた。
またしても23歳になった時と同じショックを感じた。
あと1年で30歳になる。思ってた30歳と全然違う。
でも今回は23歳の時とは少し違っていた。
あと1年で思ってた30歳になろうというのは無理な話。じゃあこの1年で何に取り組むのか?と考えたのだ。
結婚して半年後に身内に不幸があり、まだ結婚式をしていなかった。
そうだ、30歳になるまでに結婚式をやろうと決めた。
そして362日後、本当に結婚式を挙げた。
これが人生で初めて、自分の人生の時間を自分で決めて実行した出来事だった。

その後、毎年誕生日にこの1年の目標を立てることにした。次の目標は子供を授かること。人生の時間の使い方を考え、長年所属した市民劇団を退団し、仕事も担当を外れ、時短勤務に変更してもらった。
だが目標を立ててやれば必ず達成されるわけではない。
様々なことが重なり、私は過呼吸になり休職、約8年勤めた会社を退職した。

まさかうつではなくパニックで強制終了されるとは思っていなかった。また大学2年生の時に経験した真っ暗な世界に戻ってしまった。
もう二度と繰り返さないよう、私は「自分を知る」ということを始めた。
そして職業訓練に通えることになり、キャリアコンサルタントを受けることができた。
これまで私は結婚前の職歴を恥ずかしいと思ってきた。なぜならどこも数ヶ月しか保たなかったからだ。だが、キャリアコンサルタントを受けて認識が変わった。様々な仕事を経験しながら、自分に合った働き方を知ることができた。そういう経験だったと思えたからだ。

人が生きていくにはお金が要る。
何も生み出していなくても、ただ生存するだけでお金は出ていくのだ。
何か一人でお金を生み出せたらいいのだが、残念ながら私にはそんなスキルも経験もない。お金を生み出す方法は今のところ労働しかない。
だが私はいわゆる「普通の」1日8時間・週5日勤務はできない。
1日せいぜい4、5時間だ。
連続して稼働することはできない。2日が限界だ。
疲れやすいから長めに睡眠時間が要る。
渋滞に巻き込まれながらの通勤は時間とガソリンの無駄としか思えない。
体力の回復、エネルギーチャージに「何もしない予定の日」が必要だ。
時間は平等に与えられてはいない。
この体を維持するために回復、休息、メンテナンスに多くの時間と労力を必要とするからだ。

だからこそ、残された時間で何をするのかが大事だ。
この人生、あと何年生きるのかは私には分からないが、何もかもはできない。この人生でやれることは思ったよりちっぽけなことなのだ。
私は中学生くらいのころから「この人生で何かを為すのだ」と思ってきた。それはある時期には仕事であったし、ある時期には子供だと思った。
もしかしたら何も為さないかもしれないし、為すかもしれない。ただもし為すとしてもそれは中学生の時の私が思っていたよりはるかにちっぽけなことなのかもしれない。それは23歳の私が、はたまた29歳の私が「思っていたのと違う」と思ったように。
何もかもはできないこの人生で、何もかもは持っていけないこの人生で、これから何に取り組むか?思ったよりもちっぽけな、為すかもしれないことに向かってどう生きていくのか?
この体は維持するのに多くの時間を使う。だから今日やれることは本当にわずかだ。でもそのわずかなことを積み重ねて、人生の時間をほんのわずかなショートステップで行くんだと腹をくくってしまえば、その使い方は焦らず余裕のある豊かなものになるのではないか。

もう昔のように「普通」とか「当たり前」とかに自分をはめようとしなくていい。
自分に合ったやり方で自分の人生を生きていく。
自分の人生の時間の使い方は私が決める。

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