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学“習”歴社会


時節柄、冬からこのあたりの時期にかけて、たくさんの学生と会い、会話することが増えています。

社会人になって今年で16年目ですが、1年目の頃から(年によって凸凹はありますが)毎年学生さんと会わせてもらって、主に就活のサポートをさせて頂いております。

特に関西で働きだしてから(2018年〜)は、出身大学の野球部の後輩たちに対して、大変偉そうながら「講義」的なことをさせて頂いたりしています。

で、その後輩たちが、違う大学に通う友人に僕の話をしたりした結果、このリモートワーク環境下、関東の大学生と会話したりもしています(笑)

というなか、特に今年実感しているのが、今回のタイトルです。

学習歴社会。

どこで誰から聞いたか、見たかは忘れてしまいましたが、まさに、言い得て妙だと思います。「学歴社会」ならぬ「学“習”歴社会」。

当然、学習歴の中には学歴も含まれます。その意味で、やっぱり学歴も重要な要素の“一つ”ではあると個人的には思います。それこそ今年も、旧帝大や早慶、みたいな大学の学生にたくさん触れました。

一方で。

僕もそうですが、いわゆる「体育会系」にもたくさん会いました。昨年秋と今年の年初にあった、僕も参加させてもらった合同説明会的なものに、部活のユニフォームを着て参加する、みたいな学生にも出会いました(笑)

「体育会系」も、就活においてはまだまだ魅力があると個人的には思います。が、やっぱりこれも要素の“一つ”であると思います。

その他にも、「ボランティア活動をしていた」「留学していた」「アルバイトめっちゃやった」「学生起業を経験した」・・・などなど、それこそ“what”では実に様々な活動や経験をしている学生とたくさん出会いました。

その一つひとつの活動や経験の蓄積が、「学習歴」になっているか。つまり、「学び」になっているか。ここが、ますます問われる時代になってきたなぁという印象です。

なぜかというと、就活、特に新卒採用において、この学習歴はそのまま「再現性」やその学生の「ポテンシャル」につながっていくからです。

で。

これは、我々社会人にとっても問われる話だなぁ、と。

日々、色々な仕事や活動をやらせてもらってはいると思いますが、それがきちんと自分の「学習歴」となっているか。
フローではなくストックとして、自分の中に蓄積されていっているか。

日々色々なことを頑張っている(と思われる)学生さんと接し、逆に自分は?と突きつけられている感覚があります。

孔子曰く、「我以外皆師なり」。

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