村上春樹 どこであれそれが見つかりそうな場所で 感想

初めて投稿します(*・ω・)ノ

今更なんですが、村上春樹さんを最近ようやく読み始めました。
昔、国語の先生が村上春樹はよー分からん、みたいなことを言ってて、読んだこともないのにそういうものなのかと妙に納得して、なんとなく避けてきてしまいました。 
でも、読んでみたらすごく良かった。
精神世界をかなり重視してる感じが、個人的な興味と重なる部分があったからかもしれないです。
(ちなみに私の村上作品初デビューは「かえるくん、東京を救う」でした。これも人々の意識の集合体?がどう世界に影響するかみたいな話で面白かった)

「東京奇譚集」に載ってる、「どこであれそれが見つかりそうな場所で」っていう話もそーゆー「人の意識」ってものにフォーカスしてそうな話で好きだったので感想をつらつらかければいいなって思います。

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改めてみれば「考えること」って不思議ですよね。
考える行為は人間の特権そのもので、人間はこれによって発展してます。
でも、考えることがなければ、あんな苦しいことを感じないで済んだのになあ、みたいなこともありますよね、きっと。
この場合の苦しさっていうのは、痛覚とかじゃなくて倫理とかルールとかをちゃんと考えられる人間だからこそ感じてしまう重圧みたいなのを指してます。
ルールを破っちゃった苦々しさは、ルールというものを考えることがなければ生じません。
劣等感とかも、誰かを比較して考えることがなければ生じません。
考えることは、なかなかの重さを持ってます。
そーゆー重さを手放したかったのが、この物語に出てくる人たちなんじゃないかなって思います。
まず探偵役の人がなんか変わってます。
調査のお金を受け取ろうとしないし、そもそも全然探そうとしないし、最終的にはなんか考えることも放棄して、ソファでぼーっと「効用のない時間」を摩耗させた挙句に「悪くない」、なんて言っちゃってます。
…いや、ちゃんと探せよ!
って思いますが、そう言われたくないからこそ、この人は依頼主からお金を受け取らないんでしょうね。
ともすれば、この人は行方不明の人を見つけ出すこと自体に興味がないんだと思います。
「考える」行為に、気がつかないうちに疲れ果てちゃって、歪みが生じちゃって、意識的か否かに関わらず、とうとう考えることを放棄しちゃった人が、どんなことをきっかけに意識を放棄したのかってことに興味があるんだと思います。
安定した状況にある人が、不意に姿を消してしまった。
一見すると不思議なことだけど、探偵役はその理由を考えることに疲れた果ての意識の放棄だと捉えている。
で、探偵役もなんやかんやあって考えることに疲れちゃってるから、どーゆー条件で意識の放棄が起きるのかに関心があるのではないでしょうか。
それが「ある種の消え方」をした人にしか興味がない理由で、探偵役が本当に探しているものなんじゃないでしょうか。
それに、タバコを健康のよすがにする老人も、学校に多分行ってない女の子もいっちゃえばルールから離れたとこにいる人です。
合理性と矛盾する人間の意識っていうのでしょうか、その摩擦に焦点をあてた話なのだと、個人的には捉えています。←そしてこれが好きポイントなのです⭐︎
なんか怖そうな奥さんと、病んじゃったお母さんと、メリルリンチの、一見すると「美しい三角形」を抱える胡桃沢さんは、きっと疲れちゃってたんではないでしょうか。
表面上はまあそこそこ安定してるけど、お母さんから奥さんへと移行するその線上で、ふっと意識を手放したくなる瞬間が訪れちゃったんだと思います。
で、考えることに疲れちゃった人間に必要なのは、「効用のない時間の摩耗」。
時間に追われる現代生活じゃ叩かれそうなこの行為によって胡桃沢さんは大事な部分を回復させることができたんだと思います。
二十日分の記憶の消滅と引き換えに。
一方で、探偵は今回も意識を手放すその具体的なきっかけを掴むことはできませんでした。
これからも、探偵は胡桃沢さんのような人を通して、どこであれそれが見つかりそうな場所で、自分の求めるものを探し続けるんだと思います。

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っていうのが、私なりの解釈でっす!!!
もしかしたら、色々違うかもですけど、そこは許してください⭐︎
自由に読めるのが本のいいとこですから。
でも、深夜テンションで描くの楽しかった。
また、書きたいと思います。
それでは。









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