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澱の川 (1) (全3話)

 ドドド、ドウッ。
 突然のエンジン音に息を呑んだ。遊覧船が足元の橋に吸い込まれ、川面に水紋が拡がっていく。僕はどうやら物思いに耽っていたようだ。小型の船は足元をくぐり抜け、背後に再び姿を現した。
 甲板には若い夫婦と女の子ひとりが乗っていた。女の子は五、六歳くらいだろうか。じっとこちらを見る無垢な瞳に、僕の目は奪われた。
 船は間もなく、少し先の停留所に到着した。乗客が下りるのを横目で見ながら、僕も橋を下りた。
 川の両側には古い木造建屋が並び、傍らに小型船やプレジャーボートが停泊する。漁師所有の小型船は、この幅五メートルの川を拠点として海での漁をおこなうのだ。昔は大いに賑わったが、今はどうなのだろう。
 僕はこの界隈で生まれた。しかし十歳の時に父が借金をつくり、夜逃げ同然に町を出た。
 それから、家族で地方を転々としながら東京に辿りつく。両親は身を粉にして働いたが、それも長くは続かなかった。高校二年の夏に相次いで両親が亡くなり、僕はアルバイトで生活費を稼ぎながら大学を卒業した。
                 *
 ゆったりとした足取りで、幼なじみと遊んだ神社に向かう。角を曲がると視線の先に海が見えた。どうやら道を一本間違えたらしい。
 曲がり角に子どもの顔がちょこんと見えた。さっき船にいた女の子か。引き返して道を戻ると、今度はすぐに神社へ通じる道を見つけた。女の子の姿はもうなかった。
 神社には沢山の思い出が詰まっている。銅板を巻いた鳥居、寄進者名が刻まれた玉垣。境内で自転車の練習をしたり、相撲やメンコ遊びもした。僕の大切な社交場だった。
「こんにちは。観光ですか」
 社務所を出てきた女性に声をかけられた。何と返すか迷っていると、女性が先に言葉を継いだ。
「あら、貴方、どこかで見たことがあるわ」
 長身で神職の袴、見れば顔に小皺が目立って白髪もちらほら見える。僕と同じ五十歳前後だろうか。
「もしや、この町に住んでらしたとか?」
「僕のことをご存知ですか」
「やっぱり! お名前は、ええと、なんと仰ったかな」
 彼女は小学校時代、隣のクラスだった倉田サト子と名乗った。僕の記憶には残っていないが、彼女はよく覚えていたようだ。なんだか不思議な感じがした。倉田さんは数年前に父親が亡くなったことで、神社を継いだと話した。
「懐かしいわ。今はどちらに? ご家族はお元気?」
 二人して本殿の石段に腰を降ろし、小学校の思い出話をした。「校舎は小学校の合併で取り壊されたのよ」と彼女は残念がった。
「しばらくここに滞在するんでしょう? 良かったら同級生と会ってみない? みんな喜ぶと思うわ」
「えっ、でも」
 彼女は僕の反応を見て困惑した。
「もちろん同窓会とか、大袈裟なものじゃないわ。昔ね、貴方が急に居なくなったでしょう。みんな心配してたのよ」
 そうまで言われると断りにくい。いいだろう。日帰りの予定だが急ぐ理由もない。
                 *
 橙色の灯りがともる川沿いは、昼とはまったく違う装いになった。薄紫色に染まる山々、影絵のような家並みの輪郭。空は青みを残したまま夕焼けが色を添え、神々しいほどだ。
 旧友と再会する店は、川沿いの焼き鳥屋だった。
 昔は漁師の通うスナックが一軒あっただけの場所だ。あの頃、母や学校の担任から「飲み屋に子供が近づいてはいけません」とキツく言われていた。
 家は海にも近く、車も入れない細い路の一角にあった。さほど貧乏でもなく母も専業主婦だったため、夜の川沿いへ行くことはなかった。
 僕は至って普通の子だったが、一度だけ親を心配させたことがあった。
 ランドセルを担いだまま同級生の家に行き、珍しいゲームに夢中になってしまった。家の人に「帰らなくていいの」と聞かれたが、「親は遅いから」と嘘をついた。夜八時を過ぎた頃にようやく帰宅すると、母親は酷く怒っていた。
「何時だと思ってるのっ、心配かけるのは悪い子よっ」
 母に歯向かう気力もなく、うな垂れて「ごめんなさい」と謝った。父はその日、帰りが遅かった。
 夜十一時を回った頃、ようやく帰った父は酒臭かった。何処かで飲んできたらしく、母と言い合いになり、苛立ちの矛先を僕へ向けた。
「とっとと出ていけっ、帰ってくるなァっ」
 すでに布団に入っていた僕を怒鳴りつけて勝手口から放り投げた。
 小路に転がった僕は起き上がり、戸を激しく叩きつけた。頭に血が上っていた僕は、両親のことを「くそじじい、くそばばあ」と罵った。その騒ぎは近所に響き渡っていたらしい。
「浩一、あん時はたしか神社に居たよなァ」
 幼なじみの山崎太朗が、面白そうに蒸し返した。
「もう止めてくれよ」
 昔の失敗談はどうにも情けなく、こそばゆいものだ。頼んでも太朗は続けた。
「本殿の床下に潜り込んでさ、朝までぐうぐう寝てたんだよなァ」
「えっ、そうだったの? 知らなかったわ」
 倉田さんは目を丸くして枝豆を口に放りこむ。声が笑っている。
 店には倉田さん、太朗、仲良くしていた同級生三人が集まった。みんな稼業を継いだり、地元に残って信用金庫に就職したそうだ。顔つきが昔のままで笑えてしまう。
「地元でちゃんと頑張ってるんだな。僕はまだ根無し草みたいなもんだよ」
 そうだ。ここの連中は地に足がついている。僕とは大違いだ。
「なに言ってるの。大学を自分の力で卒業して、上場企業で活躍してた人がさぁ」
 倉田さんの言葉に仲間は頷いた。
「今まで必死にやってきたんやろ。こんな立派な奴はなかなかおらんぞ」
 太朗も大袈裟すぎるほど褒めそやした。照れくさくて僕は頭を何度も掻く。立派でも何でもない。僕は中途半端でつまらない男だ。ふと、弱い自分を誰かに暴露したい気になった。
 僕は外資系企業の営業職だったため、全国を飛びまわり、常に仕事に追われてきた。子供が小さい頃は家族と、その後は単身赴任した。今は子供たちも独立して、妻とは離婚が成立している。そして――全部言いたかったが堪えた。話すのは肝心なことだけでいい。
「実は去年、退職したんだ。五十歳間近の社員に早期退職制度の募集があってね。ここらが潮時かなって」
「えっ、そうなのか……」
 退職したと聞き、みんな戸惑った。さすがに羨ましがる奴は居ない。
 僕は少なからずホッとした。退職は社の方針で成り行きだった事もあり、一人で気持ちの整理がつけられずにいた。少し後悔もしていた。若い頃なら相手を選ばず、苦労話も離婚話もしただろう。しかし今では臆病風が吹いてしまい、相手に合わせてカスタマイズしてしまう癖がついた。それだけズルくなったのだ。 
「これからどうするの? マンションは東京だっけ」
 倉田さんが眉を寄せた。本気で心配してくれている。
「考えてないよ。今まで仕事ばかりで、他には何も出来ないからね。やりたい事すら考えつかない」
「ふーん……」
 みんな黙り込む。どう声を掛けようか気を遣っているようだ。
 向こうのカウンター席から笑い声が響いてきた。太朗が話題を変えた。
「もうすぐお盆だな。浩一、それまで居るんやろ?」
「墓参り? そうか。こっちの墓参りは七月の新盆だったな」
「ご先祖の墓はこっちにあるんだろ」
「ああ……実はわからないんだ。親戚とは縁が切れてるから」
 黙って聞いていた倉田さんが、思いついたように言う。
「ねぇ、妹さんのお墓はどうなってるの? こっちにあるよね?」
 僕は戸惑った。僕はひとりっ子だ。彼女は突然何を言い出すのか。困惑する僕を見て、彼女は質問を変えることにしたようだ。
「ええと。たしか妹さんがいらしたわよね。私にも同い年の妹がいるから、よく覚えてるのよ」
「妹? 僕に妹がいた?」
 その場にいた仲間も話が理解できないようだった。いや、むしろ当人が覚えていない事に驚いたようだ。
 倉田さんの話によると、妹が亡くなったのは僕らが小学校に上がった頃だという。彼女も詳しくは覚えていないが、寺で葬儀もしたらしい。話は一貫していて勘違いとは思えなかった。
 僕は焦った。本当におかしな話だけれど、妹の記憶がないのだ。記憶喪失にでもなったのでないかと不安になった。

〈続く〉

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