見出し画像

THE 短編①

 「ガラスのコップにしますか?」と聞かれて「ガラスのコップにします」と応えた時、俺はそういう、言葉を鸚鵡返しすることに小さく喜びを感じていることに気付いた。新宿の駅ビルの中にあるコーヒー屋さんだった。昼の十一時二十三分。窓際のカウンター席について、青空の下で日差しを通り抜けながら歩いていく人たちを見て、告別式で清ちゃんとしたキスのことを考えていた。清ちゃんと清美ちゃんは恋人同士で、清美ちゃんが死んだその告別式も今日みたいに綺麗に晴れている朝で、清美ちゃんが焼き上がって骨だけになるのを待っている時、隣のソファーに座っていた清ちゃんが「ねえ忠治くん」と言って、俺はぼーっと窓の外を見ていたから「なに」と言って清ちゃんの方を向くと「お願いあるんだけど」と、手を握って自動販売機の裏に連れて行かれた。清ちゃんは「百円貸して」ぐらいの感じで「キスしていい?」と言った。今まさに恋人が焼かれてるのってどんな気持ちなのかわからない。「キスしていいよ」と応えた時もそれは鸚鵡返しのつもりだったのかもしれない。メシ食ってるみたいなキスだった。自動販売機の裏からソファーに戻るほんの少しの道すがら、長いことずっと友達だったのにキスをしたことによって何かもう元に戻れないところに来てしまったような気がしたけど、ソファーに到着した頃には「そんなことよりも、清美ちゃんが死んだことの方だろ」と思うようになっていた。
 二人の名前の、ほんの少しのズレのことをよく思っていた。清と清美。せいときよみ。
 荻窪の喫茶店でライターを落とした。そのBicの小さい赤いライターを、隣に座っていた髪が長くてアイボリー色のぶかぶかの、セーターを着た女の人が拾ってくれた。俺は「ありがとうございます」と言うと、その人は急に「友達とチュウってできますか?」と聞いてきた。
「うわー、えー、どう……ですかね、できないこともないのかな……」
「男の子の友達でもできますか?」
「うーん……あんまり……その……男か女かっていうのは関係ない気もしてます」
「そうですか……」
それでなんだか色々と、天気のこととか政治のこととか芸能ニュースなんかについてぽろぽろと話して、それが清美ちゃんだった。清ちゃんに急にキスされて悩んでたんだろうな、っていうのは今になってわかったことだから。
 土木作業を十二年もやってたから、毎日朝の六時に起きちゃう。凄い馬鹿だ。そして「今日は何すればいいんだよ」と悩む。今日もその日だ。
 ガラスのコップに入ったコーヒーは表面が琥珀色に輝いていて、それを見ながら「なんで清ちゃんはあの時キスしたかったんだろう」と、五年間手を付けずにいた、友達の苦悩に思いを走らせた。というか勝手に走っていた。誰でも良いから肉体的に寂しさを埋めてほしかった? 触れ合いたかった? 俺のことが好きだった? とかそのぐらいの乱雑なことしか思い付かない。その程度だとわかっていたから放置していたのかもしれない。コーヒーをがぶがぶ飲む。おいしい。窓の外の、奥の陸橋の下に、ホームレスのおじいちゃんがいて、そのおじいちゃんが吸っている煙草が見えた。コイーバの箱だ。清ちゃんと清美ちゃんが吸っていたキューバの煙草で、黄色と黒のチェック模様のデザインの箱がかっこいい。コーヒーをまた飲んで、ズボンのポケットに左手を丁寧に仕舞ったまま、店員さんに「ごちそうさまです」とガラスのコップを返して新宿の路上に出た。
 土木作業をやめたのは左手を怪我して完全に使えなくなったからだ。とりあえず三ヶ月ぐらい休むことにしている。金がないからどうせまたすぐに働かなきゃいけない。左手が使えないのにまだお金を稼ぐために働かなきゃいけないことの方が、友人からされた静謐で強いキスの理由がわからない俺より馬鹿だ。
 あの煙草を探そうと思った。今日はあの煙草を探す日にしようと決めた。今。これから一生働くだろう俺なんて。三ヶ月なんていう休みは死ぬまでに与えられる休暇において最長だと思う。その貴重な一日を、というかその期間まるまるを清ちゃんと清美ちゃんのために消費してもいい、というかそんなことができるのならそうした方が良い気がする、と思いながら煙草屋を何軒か回ったけど、どこにも売ってなかった。生産が終了しているらしい。そうなんだ。それで今、中野駅の北口にある時計台の下で清ちゃんに電話をかけている。夜だ。発信音が鳴る。五年という期間がどういうものなのかわからない。五年間連絡取らなかったからもう友達じゃない? 嫌われてる? いや、俺はキスをしたぞ。そう思えた。それは勘違いだけど、それが今自信を持たせてくれているのは確かだ。清美ちゃんともキスしておくべきだったな、と思う。というか今まで出会った全員とキスしておくべきだったんじゃないのか? 発信音が不意に途切れて、清ちゃんの「忠治じゃーん」という第一声が聴こえた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?