高校の部活動で得たものと挫折

社会人になって思い続けている事なのだけど、学生時代の部活で仲間と同じ目標を共有して、それに向かって活動した事ってすごく尊かったと思うし、その時感じたことに全てが凝縮されていたように感じることが増えてきたので、改めて思い返してみる。

合格発表から1年生

地元の公立高校へ進学。文武両道を掲げ、学校生活も部活動も受験勉強も楽しみたいという耳障りの良い雰囲気に惹かれた。まぁ実際は部活動に明け暮れたのだが(汗

前年度の駅伝で近畿大会出場を果たしており、陸上競技レベルの高い兵庫県にありながら、家から近いというのが幸運だった。

合格発表を見た足で、神戸市の陸上大会で知り合った数名と陸上競技部の顧問の先生に挨拶に行くと、”君たちは陸上部に入って何がしたいんだ?”
当時、みんなを引っ張るようなポジションでも無いので、
周りが発した”駅伝です。”の声に同調するように、自分も同じ言葉を発していた。

陸上部に入った長距離の1年生は8人。前年度近畿大会出場というのが効いたのか?自分の中学の3000mの持ちタイムではこの中で3番手くらいだったか。自分は中学の時はなんとか県大会に進めるようなレベルだったので、市内にもそれなりに知り合いはいた。
1学期や夏休みの合宿では初めて経験することも多く、とにかく練習についていくのに必死だった。
夏休みが明けて、ジュニア大会という1、2年生が出る学年別の大会があって、
そこで初めての3000m障害に出場した。結果は県で5位だった。
ちなみに近畿大会への出場枠は3つだった。
中学の時に県大会出場がやっとだった自分が、近畿大会を意識し、県で5位だったことさえ悔しいと思えた事が、その後の部活動への取り組む気持ちを変えたキッカケになった。

その後は休む間もなく、10月の神戸市駅伝大会が近づいてくる。これは11月の兵庫県駅伝大会の予選でもあり、当然3年生から1年生まで練習に熱が入る。チームの状況を気にしたり、区間を気にしたり、メンバー入りを目指したり、学年や立ち位置により気にすることも様々だったのでは無いかと思う。1年生の僕はメンバーの様子を気にする余裕はなく、自分の調子だけを気にしていたし、持ちタイムと調子から、7人のメンバーには入れることと、8キロ区間を担当する事になるのかなとボンヤリ考えていた。

メンバー発表の日が来た。1区から順番の発表。
男子高校駅伝(総距離42.195km)の区間距離は、1区から7区の順に10, 3, 8.1075, 8.0875, 3, 5, 5(km)の担当距離となる。なんと1区に僕の名前が呼ばれる。。
3年生のエースが持病の腰痛発症という状態で、県大会まで回復優先というチームの判断だったようだ。
先輩をさておき、高校に入って半年の1年生が1区という重圧はメチャメチャ大きかったが、2区と3区に3年生の区間配置だったこともあって、自分が最低限の位置で襷を渡せば、あとはみんながなんとかしてくれるという安心感もあった。33分20秒(8位)でつなぎ、後は危なげなく4位で県大会へ。ホッとした。

2年生 キャプテン指名とメンバー

2年生では、6月からキャプテンに指名された事と3年生が4人全員引退したこともあって、メンバーに目配せすることと、個人の競技力を高める事のどちらも考えなくいけなくなったが、この頃には県大会出場は常連で、市では上位を争うになっていたので、中学生や高一の駅伝前とは違った自信は持てていたと思う。が、個人、チームとしても近畿大会へは進めず。自分達が3年生になった来年に賭ける気持ちが強かった。

3年生 個人での挫折とメンタル

最終学年となった。
シーズンインとなる神戸市春季大会。ここで5000m15分20秒で兵庫リレーカーニバルという、オリンピック選考会も含まれている大きな大会への出場権が得られる。スタート前に負傷を負う不運もあって、15分24秒で未達。

さらに6月には大本命の兵庫県インターハイ。3000m障害で自分が目標としていたのは、6位以内で近畿大会出場。結果は9位となり近畿大会出場はならず、個人としての目標はここでおしまい。ここで、気持ちが切れてしまっていたのかもしれない。
キャプテンも2年生に引き継ぎ、受験と駅伝という目標の中で気持ちが中途半端になり、この年の兵庫県駅伝大会でも近畿大会へ駒を進めることは出来なかった。県駅伝の1区10キロでは3年間の10キロでワーストとなる34分台でもあった。

陸上競技で得られたものと不完全燃焼感

高校の陸上部では、
自信と挫折、個人とチーム、また3年生の終盤には競技に対する気持ちについて考える事となった。うまくいったこと、うまくいかなかったことは当然あったが、メンバーのみんなはしっかり考えて、自分なりに真剣にやっていたと思う。得られるものはたくさんあったが、自分自身への不完全燃焼が残ってしまったことは否めない。

また高校卒業と共に陸上競技とは離れてしまった。
箱根駅伝の予選会に出場している大学に入って陸上を続けようと思ったこともあったが、関西の大学に進学。声をかけてもらったトライアスロン同好会の活動も、時間と金銭的に難しいことを感じ、1年を待たずに活動を断念。再度、挫折感を味わった。

その後、運動する頻度も少なくなっていった。   つづく










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