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「現代俳句」2022年7月号

 追いついた~~! ようやく7月号です。とはいえまだ7月ははじまったばかりなんですが、もう忙しさを理由に後回しにしている場合ではない! 思い立ったが吉日! というか読んだ記憶が消える前に書くしかない! というわけで同日に3号分書きます! 勢い大事!
 あ、そういえば。いつもここで近況報告めいたものをしていましたが、連続投稿ですっかり忘れていました。少なくともこの三か月は忙殺と一言に尽きます。先月、季節を先取りしすぎて夏バテしました。そんなこんなでTwitterも読まず、ポチポチとnoteを書いています。世の中が目まぐるしすぎて眩暈がするときは、一旦世の中と距離を取る。というのが、わたしなりの生存術です。

列島春秋

夏ありますかカードで払へますか  島崎寛永/中北海道
このバスは八月までに着きますか  久留島元/滋賀

 偶然にも、目に留まった句が問いかけだったので並べてみました。一方は夏を買おうとしていて、もう一方はバスで八月までに到着したい模様。なぜかどちらの句からも久石譲の「Summer」が聞こえてくるような……(それは幻聴)
 島崎さんの句はカードで夏を買おうとしているところが妙に現実的でくすっと笑えます。とはいえ、句の「夏」って、今の夏とはまったく違う気がするんですよね。こんな猛暑、大金はたいて買おうと思わないですもん。だからきっと、いつかあった夏なんじゃないかな、って。それならわたしも、がんばって買いたいです。帽子を被って走り回れた夏なら、欲しいです。
 久留島さんの句は、どこか目的地があるんでしょう。路線バスなら、当然そうなんですけど。ただ、このバスは、わたしたちが知っているところへ向かっているわけではなさそうです。「八月までに」とあるところに、場所と時間のゆがみのようなものを感じます。一体どこへ向かっているのか。その不思議な感覚がおもしろい句です。

直線曲線

言葉は生きものーー雑談風に  伊藤政美

 「雑談風に」とあるけれど、わりときっちり書かれている文章だな、という印象。普段このnoteが雑談ふうと言わずに雑談noteなもので、「雑談ってそんなかっちりしゃべるんや……」という謎の驚きがありました。文章を書くのが苦手と書かれていたので謙遜だと思います。とても誠実で熱量を感じる記事でした。
 その中で、名古屋市で開催された「現代俳句協会青年部シンポジウム」での感想がありました。

(前略)「頭で、理屈で入っていくから、そんな俳句になるのだ。言葉の操作に重心がかかっていたり、初めに言葉ありきで、結果として感動が伝わってこない。俳句における言葉は、作者の思いや感動の、心の代弁者であるべき。後からついて来るものが俳句の言葉として本物である。」(後略)

『現代俳句』2020年7月号 p.10

 ついさっき6月号を読んだばかりなので敢えてツッコむとすれば、AI俳句は伊藤さんがおっしゃる俳句の在り方にそぐわないということになるかもしれません。AIに感情は(今のところ)ないので、AI自身の感動は(今のところ)伝わってこないはずです。AI俳句、早くも危うし……! という冗談はさておき、この箇所については、「俳句への価値観は人それぞれ」ということを改めて思い出させてもらったと感じています。
 というのも、わたしはめちゃくちゃ頭で作る(というと考えている感満載ですがそうではないです)タイプなので、わたし自身の思いや感動がこれっぽっちもない場合だってあります。「なんかおもろい取り合わせな気がする」とか「こっちよりあっちの季語のほうがかっこええかな」とか平気でやります。だからってそれが俳句じゃないわけじゃないと思うんですよね。作り方で言えばAIと一緒やんけ、と言われてもしゃあない。AIのほうがむしろちゃんと根拠があって言葉を選んでいるんじゃないかと思います。
 ありもしない光景の句に「実感が伴っていてよかった」と言われたときのわたしの気持ち……是が非でもネタ晴らしせんとこう、と思いますね。トイレで浮かんだ言葉とか言えるわけないんで……。そういうことだってあるはずで。じゃあこの句は「本当」じゃないのかしら、という、ね。
 話は逸れましたが、俳句は確かに心の代弁者になってくれると思います。ただ、これはそういう側面があるってことで、俳句ってもっとなんかすげえもんだと思ってます、わたしはね。「なんかすげえってなんだよ」って話ですが、それくらい包容力があるんです。まあこれはわたしにとっては、なので、伊藤さんがおっしゃる俳句の在り方を否定しているわけではないし、自分が作った句が正しいっていう主張でもないです。この感想もまた「俳句に対する人それぞれの価値観」のひとつだと思ってもらえたらありがたいです。
 そうして、そんないろんな価値観の中から「この人の価値観もおもしろいな」って思いながら、俳句を詠んだり作ったりできたらいいな、って思いました。
 たとえ、言葉ありきで俳句を作っても、その言葉に責任をもって誠実でありたいし、そういう気持ちだって俳句を通して伝わるんじゃないかと思っています。

俳句と私 -俳句という遊びー  久留島元

 思いがけず、ちょっと泣いてしまった記事でした。というか、先に伊藤さんの記事を読んで「ぐぬぬ……そこまで言わんでも……」と思っていたもので(思ってたんかーい)、余計に心に響いたというのもあります。
 それから、久留島さんが冒頭で話題にされている2021年7月号の「芸術派の諸君、萎縮するべからず」という項についてですが、当然、わたしも感想を書いていました。でも、今読み返すと、奥歯にものが詰まったような、言いたいことがあるのに言葉を選びまくっている感じが伝わってきます。言いたいこと、いっぱいあっただろうに……(あんただよ)

 恥ずかしながら、1年前も俳句の「包容力」について話していますね、わたし。どんだけ! どんだけ言うねん! 思わずセルフツッコミしてしまいましたが、俳句そのものの包容力にも、俳句の世界で出会う人たちのあたたかさにも、とてもとても救われて生きているので、何度も同じことを言ってしまうんですねぇ……すいません。もう知人友人なんか飽きてるやろな、この話……。
 さて、話を記事に戻します。遊芸派を否定するものでも、排撃するものでもなかった、とありますが、それはそうだと思います。いや、思ってても言わんでしょ!(ばくしょう)思ってるかもな……とは思わんでもないですけど、でもまあはっきり言われたわけじゃないんで(ごにょごにょ)
 俳句の楽しみは実作だけではない、という末尾の文章に深く頷くとともに、同期らしい同期(高校からやってるとか同じ結社の若手だとか)がいないわたしにとっても、とても励みになる文章でした。久留島さんと出会ってなかったら現俳入ってないし、続けてたかわかんないんで。身近にこういう価値観の人がいたから、わたしみたいなふわふわした人もやっていけるんですよ。

 というか、ここからは自分語りなのでサッとスクロールしていただきたいんですが。
 わたしは音楽をやっていた時期があって(白々しい)、好きではじめたことをはじめて辞めた例でした。大学に入ると、当然、ソリストを目指す人が多くて、それが当たり前だったんですけど。わたしは楽しく弾けたらよかったし、うまくなりたいという欲すらなかったんですよ。今思えば、趣味でよかったな……と思うんですが、それでも後悔していない理由は、同期に恵まれたことと、師匠が根気強くわたしに基礎から叩き直してくれたことだったな、と。師匠は常々「あなたが表現したいことをあなた自身で考えて」と言っていて、そのたびにわたしは困っていたんですが。
 今思えば、そのときの訓練(というしかない)が、俳句を作るときに存分に活かされていますね。真剣にやってはじめてわかることっていっぱいある。コンクールもオーディションも出なかったので、今、俳句で賞に応募してることが不思議ですけどね。
 音楽を辞めると言っても、プレイヤーを辞めただけで、音楽はよく聴くし、むしろ無いと生きていけないくらい好きです。多分、そのままプレイヤーを続けていても、課題はいつも同じだったと思います。趣味でも、これはきっと同じなんですよ。「自分が表現したいことを自分で考える」っていう作業は、表現の前提条件というか。
 でね、「表現すること」が「楽しい」って、それってまず最高じゃない? って思うようになりました、っていう話なんですけど。信じられない無駄話ですよね~~~~わかる、わかります。久留島さんの文章を読んで、そんな当たり前のことをしみじみと感じてちょっと泣けたっていう……いやもう、こんだけ書いちゃったから消すのもったいないから残しておきます。
 一年後に読み返して恥じろ、わたし(ばくしょう)

「翌檜篇」(42) 東海地区青年部編

駆けだす  三島凪々海

笑うとこおなじだったねソーダ水
 さわやかでかわいい句。映画でも見たあとでしょうか。ふとしたときに「あ、ツボ一緒だ」って気づけるってしあわせですよね。ソーダ水のはじける感じが、笑い声の明るさと合っています。

冬蠅と眠る高速バス零時
 深夜の高速バスってちょっとドキドキしません? わたしだけかな。窓の桟のところでしょうかね、蠅が……いや、冷静だな、この人。虫嫌いのわたしからしたら、こんなに冷静に蠅と眠れませんが……動きそうにない蠅を見ながら「……寝るか」となったんでしょうか。静かな冬の句。

ランドセル  岡田真由美(招待作品)

春愁ひ君の電車は別に来る
 物思いばかりの春ですね。線が別なのか、同じ線だけど、次の電車なのか。とにかくここで別れることになるんですね、きっと。次に来る、と言わずに「別に来る」と言うあたり、強い気持ちを感じます。

おしやべりなアネモネたちの黙るとき
 アネモネって物静かな印象がありましたが、案外におしゃべりなんでしょうか。たくさん咲いているとかしましく見えるかもしれませんね。そんなアネモネたちがパタッと話をやめるときって、どんなときなんでしょう。不思議な緊迫感が癖になります。

公園  竹中健人

珈琲やベンチをさがしつつ花見
 名所と言われないまでも、それなりに見ごたえのある場所ってありますよね。なんとなくそういう場所なのかな、と思いました。地元の人は知っている、みたいなね。そういうところの花見だから、探せばあるかもしれないけれど、まだちょっと探し切れていない。お酒ではなくコーヒーというところがいいですね。

空き容器二転三転養花天
 ラップみたいな韻の心地よさがおもしろいです。空き容器とありますが、お弁当のごみかもしれません。ペタン、パタンと転がっていくのを見ているんでしょうか。リズムと光景、どちらもおもしろい句でした。

爪を噛む  後藤麻衣子

手相見る前の検温月朧
 どこでも検温、どこでも消毒。占いの前でも同じですよね。時事というか、今の世の中を詠んだものはあまり採らないのですが、この句はわりとすんなり「せやなぁ」と思いました。占いより先に見られてる感というかね。

初夏のエディブルフラワーを咀嚼
 エディブルフラワーってなんぞ、と思って調べたら食用花のことでした。そんなかっこいい名前あったんか……。「初夏の」とありますが、なんの花なんでしょう。わたしは食用と言われても、どうしても花が食べられないので、ゆったりと咀嚼している様子に「ははぁ……すごい」と思いました。おしゃれなサラダとかに乗ってるのかな……フルコースの前菜とか……でも、ただ食べているだけではない感じが「咀嚼」にある気がして気になる句でした。

 というわけで、今回はこの辺で……いや、長! 長すぎる! 5,000字弱ですよ。長いわ! 勢いに任せるとろくなことがないですね。でも、それだけたくさん頭を使ったということにしておきます(ほんまかよ!)
 それでは最後までお付き合いいただきありがとうございました。また次回。

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