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「現代俳句」2022年3月号

 気づけば年度末。猫も走るほど忙しい(ポルノグラフィティ「Hard Days, Holly Night」の歌詞より)年末ならまだしも、年度末でございます。
 まったく、落ち着きませんな。わはは(笑い事ではない)

 と、言うわけで3月号です。今月の翌檜篇は関西ですので、是非ご覧くださいね!(急に宣伝)(わたしの句があるわけではないです笑)

直線曲線  どこまで飛べるか/森須蘭

 毎月掲載されているコラム「直線曲線」、最近読む機会が増えたような気がする。タイトルは「どこまで飛べるか」。冒頭で森須さんが、句作に迷いが出てきたと書かれていてつい読んでしまった。

(前略)その迷いのきっかけは、時々連絡を取り合っている高校時代からの親友に「貴女はどんな俳句を作っているの?」と聞かれて、句を見せたら「難しくてわからない」と言われてしまった時からだった。

現代俳句 2022年3月号 10頁

 私事だが、先日ネットプリント「よんもじ」を発行した。Twitterのタイムラインを読んで知ったフォロワーの方が何人か読んでくださったようで、ハッシュタグで感想を書いていただいたりもした。ただ、わたしは今一歩、俳句を知らない/普段触れていない友人らに「こういうの作ったから読んで欲しい」と見せられないでいる。ありがたいことに文学フリマで頒布した本をわざわざ通販で購入してくれた友人もいたので、言わないだけで関心がないわけではないのかもしれない。森須さんのように「どんな句を作っているの?」と訊かれたことはないが、森須さんの悩みはわからなくもないな、と思った。

 せっかくブームになるなら、読む人が増えたらいいのに。というのはいつもわたしが思うことだ。もちろん、句作で得る知識や構造への理解が俳句を読むときの道しるべになることはあるとは思うが「わからない」という感想を抱くのも、読んだからこそなのではないかと思う。わからなくてもいいから読んでくれ、とはさすがに言えないが、わからないかもしれないけど読んでみようかな、まで関心を引き付けるきっかけがどこかにないものか、と思いはする。
 話が脱線したが、森須さんは最後に「詩心と、その距離感に、目下奮闘中である。」と締めくくっている。なくても生きていける「詩心」。これはあまたの芸術や文芸、エンターテイメントに通じることでもある。なくても生きていけるものを、楽しみ、大事にするだけの余白は誰にでもあるものではないのだろう。なんだかあれこれと考えさせられるコラムだった。

「翌檜篇」(39)関西青年部 編

自薦5句  西躰かずよし

空がつめたい火事となっている
 「空がつめたい/火事となっている」「空が/つめたい火事となっている」という読み方ができると思うが、おそらく後述だろうと思う。「つめたい火事」というのはどういう火事なのだろう、と考えるけれど、不可抗力の、無慈悲な光景をそう表しているのかもしれない。寒々しさを感じる句。

咳止マズ、夜ノ一部トナル
 静かな孤独を感じる句。孤独には違いないけれど、その孤独を受け止めるように夜がある。その夜の一部になる自分から発せられたもの=咳、というところにささやかな救いがある。

自薦5句  津田つねあり

高野山まぶたに浮かぶ銀河かな
 自薦5句すべてに地名が入っていて、こだわりというかテーマだったのかな、と。高野山なら天の川も見えそうなものだけど、もう見えなくなってしまったのかもしれない。ゆっくりと目を閉じると浮かんでくる天の川が、幽玄な高野山との距離を少しだけ近くしてくれる。

木漏れ日の道を歩むや伊勢参
 お参りの日に天気がいいといいことがありそう。でも、きっとご利益なんて気持ちの問題だし、ご利益のある/なしは気持ち以上に日頃の行いなんだろうな、なんてことも思いつつ。「歩く」ではなく「歩む」ところに意志がある。

 なんだかんだギリギリになってしまいましたが、間に合ってよかった。読んだもののなかなか書けなかったもんで……残すっておおよそ自己満足ですけど、自己満足だからって無責任でいいわけでもないですからね。自分の言葉を探して書くのは楽しいですが、やっぱりまだまだ大変です。
 最近、自分の視点というものがどういうものか、どんなバイアスがかかっていてどういう角度から見ているのか、少しだけわかってきた気がします。句作のときにも同じような視点で作っているのかと言えば、それはちょっと違うんですけど。そういう気づきを得られるのも、読んでいくなかでのことなので、これからもぼちぼち読んだり書いたりしていけたらと。
 最後までお付き合いいただきありがとうございました。もうすぐ4月号が届きますね。では、また次回!

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