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「現代俳句」2023年7月号

 6月の半ばから今に至るまで、なかなか体調がすぐれず病院をはしごしている今日この頃。「原因不明」ってやっぱりすっきりしないものですね。動きづらくなってから「運動不足を解消しましょう」という言葉が残酷すぎて、顧みる我もございません。とは言え、こういう悩みも生きていればこそなので、弱音も吐きつつがんばっていきます。
 と言うわけで、今回は句の感想を中心に書いていこうと思います。


列島春秋

手花火や魔法少女になりたくて  雪消ミスミ/青森

 いかにもなアイテムだけど、花火はあっという間に終わってしまう。これでわたしも魔法少女、というウキウキした気持ちもあっという間。「なりたくて」という着地に火薬のにおいがほんのり鼻を掠めます。
 なりたいものになれないときってどうしてこんなにもどかしいんでしょうね。

海霧深き吉里吉里国に入りけり  稲玉宇平/岩手

 列島春秋は、各地のコラムが掲載されているところが好きで、今回も「吉里吉里国」が紹介されていました。井上ひさしの『吉里吉里人』という作品に出てくる国だそうです。イーハトーブといい吉里吉里国といい、ついでに遠野(これは実在の地名)も含めれば、岩手県には不思議な力があるのかも。だから海霧にもそんな力があるのかも……?

露台より芦屋の街と海すこし  岡田由季/兵庫

 露台とは屋根のない風通しのいい場所、西洋建築にある一角だそうです。いかにも芦屋です。神戸の山の手にもこんなふうな景色がありそうですが、この句はなにより芦屋がいいと思います。「海すこし」なのも露台のアンティーク観にさりげなく添えられていて、とてもおしゃれで静かな景だな、と思いました。

踏切の音の先まで田水張る  こにし桃/奈良

 建物がない様子が「踏切の音の先まで」ですぐにわかります。建物があると遮られて音は届きません。音の先がどこかわからないくらい広々とした田んぼを想像します。某番組で毎年お米作りを見ているのもあって、清らかな水が隅々までめぐらされていくのは、とてもさわやかで大好きな景色です。実際に見てみたいです。

毛虫焼く日毎仏を拝む手で  藤井康文/山口

 この句にある、仏を拝んでいる人にとって毛虫が身近な存在なんですね。「手」の意味がとても立っているように感じます。毛虫が憎いわけではなく、きらっているわけでもなく、だからといって生かしてもおけない。そんな生活の一端が切実に切り取られていて、心に残った句でした。

街道 浴衣 脚長蜂ぷわふらぷ  川嶋ぱんだ/愛媛

 「ぷわふらぷ」というオノマトペ、読み間違えたのかと何度か音読し(一音一音確かめ)、やっぱり「ぷわふらぷ」でした。独特のニュアンスに着地するのは、街道を行く浴衣の人の間を脚長蜂が飛んでいく、という毒のある景(手放しにかわいい景にならない感じ)があっておもしろいです。

歳よりも薬増えゆく半夏生  牧野桂一/大分

 リアル。めちゃくちゃリアル。歳って一年にひとつだけど、薬ってひとつだけとは限らないんですよね。不調につきひとつだったら楽なんですけど。リアルタイムでピンポイントに共感する句だったので、迷いなくご紹介。


作品10句

どう生きる  井上俊一

八月を語らなかった父 遺影
 「遺影」という着地が「語らなかった」という過去形を際立たせています。本当に最後の最後まで、語ることはなかったのでしょう。父の思いを受け止めているように思える句です。

花桐  髙橋公子

蝶を飼う少し不幸な人どうし
 なにか足りないような、ほんの少し届かないような。そんな人たちが寄り添って(あるいは凭れかかって)いる。それは悪いことではなく、きっと次に進むための大事なプロセスなんだと思います。「蝶を飼う」が「少し不幸」をやわらかく照らしている気がします。

ありがとう  永井叔子

冬麗娘妻母それからは
 娘・妻・母 というのは、時代によってはあたりまえの女性像だったのかもしれません。どこにでもある肩書きから、「それからは」と続く。そこに男性も女性もなく、誰もが自分に問うことなのかもしれません。なにか決意を新たにされたのか。冬の美しい場面です。

立ち尽くす  馬場佳世

飛んで火にいる我らを包むたなごころ
 破れかぶれになってしまうのかと思いきや「たなごころ」。そういう世の中であって欲しいと切に思う今日この頃。誰かがチャレンジをしたとしても、あたたかく受け入れるもの(人だったり環境だったり)があるといいなぁ、と思います。

朴の花  廣畑昌子

糸くずの肌をはなれぬ夜の残暑
 糸くずがべったりくっつくとなかなか取れません。くっつくではなく「はなれぬ」というところに糸くずの執念(なにそれ)が見えます。しがみつかれているから取れないんでしょうか。夜にじわりと暑苦しさを感じる句。

桐の花  福島靖子

度忘れを笑いとばして菊日和
 話の途中で、あ~~あれあれなんだっけ忘れたわはは、みたいなことって我が家は結構あって。なんなら今朝も母がわたしに言いたかったことを忘れたそうで。どうせたいしたことじゃないんだろうと笑い飛ばす明るさ。「菊日和」が重ねた歳月にぴったり。


翌檜篇 青年部編

部屋   磐田小

お隣のフルートの音しゃぼん玉
 隣からフルートが聞こえてくる、というシチュエーションってあるようでない気がします。ただ、吹奏楽部でよくある楽器のうち、木管楽器は家に持って帰って練習できることが多いので、もしかしたら中学生くらいの子が吹ているのかも。「しゃぼん玉」もあいまってかわいらしい。

飽食   工藤吹

春のあいだに名簿が育ちきる
 名簿にあるのは子どもの名前です。春休みの間にすっかり大きくなった子だちと対面する瞬間はまさにこの句になるのではないかと思います。どんな名簿でも、気づけばしっかり育っているような。不思議ですね。

ハッシュタグ   杢いう子

かぎかっこ海開きかぎかっこ閉じ
 開くのか閉じるのかどっちなんだい! と心の中のなかやまきんに君が叫んでおりますが、「海開き」をかぎかっこで閉じるってどういう状況? と思ったけど今まさに書きましたね。引用、手帳やカレンダーへの書き込み、などなど。海開きのわくわく感をちょっと遠くから感じているような、おもしろい距離感です。

ある部屋の客   疋田纏

パフェ掬う匙のちいささ涅槃西風
 以前からわわたしも思っておりました。パフェのスプーンってちいさくない? ちいさいよね? と。食べるたびに、まあ底の方まで掬うにはこのサイズになるか、と納得するんですが。とは言え、やっぱりちいさい。春の近づく感傷に何故かマッチしているような取り合わせです。


直線曲線

ポストコロナ時代の俳句会  岡田耕治

 俳句の感想を書きましたが、普段から読んでいる「直線曲線」の記事もおもしろかったので、順番が前後しますが感想を。
 岡田さんが主宰の結社「香天」では、オンライン句会も積極的に行い、オンラインでは選評中心になっていったそうです。確かに、対面句会であれば投句後の清記、選句の時間が主になります。選評は高得点句や得点句が主になります。選評中心というのは、参加者の意見がより闊達に交わされることになり、モチベーションにもつながるのでは、と思います。
 興味深かった箇所を引用します。

 参加者一人ひとりが選句した五句を丁寧に選評する、その営みを続けていると、それぞれの選評が洗練されてきます。作者としては、多くの人の選に入るよりも、この人に受け取ってもらえたことをうれしく感じるようになります。場合によっては、その人に届くように作句する、つまり宛先のある俳句が生まれることもあります。

『現代俳句』2023年7月号 10頁

 「宛先のある俳句」という言葉が心に残りました。普段、俳句は「匿名性」や「作家性」を絡めて語られることがありますが、「読者を絞る」「届けたい相手に届く俳句を作る」という視点を持って作る、というのはなかなかないのではないかと思います。が、わたしはわりと「宛先のある俳句」を作りがちなので、いつか届くようにと心を込めて作っています。ここで語られていることとは意味は少し違うかもしれませんが。
 岡田さんは、パンデミック以降様々な環境整備に取り組み、結社の句会を盛り上げていらっしゃるようです。ご自身が所属している大学の研究紀要がデジタル化していく中、インターネットの利便性と縦書きで作品を味わうことのどちらも大事にされているそうです。
 岡田さんは最後をこんなふうに締めくくっています。 

 この方法がベストかどうかは分かりませんが、今後も各人の俳句が最も気持ちのいい形で残るように追求していきたいと思っています。

『現代俳句』2023年7月号 10頁

 わたしは結社に所属していませんが、結社ごとに特色のある取り組みがあるというのは、やっぱり結社のよさ、フットワークの軽さだと思いました。

 はい。というわけで、気づけば3,500字を超えました。長すぎます。
 楽しい句が多かったのでいちいちツッコミつつ読んでしまいました。そろそろ8月号が届きますね。間に合ってよかったです。
 それでは最後までお付き合いいただきありがとうございました。また次回。

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