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「現代俳句」2022年2月号

 「そろそろ1月号読まないと」と思っていたら、2月号でした。信じられません。1月が終わっていました。しかも、ちゃんと1月号読んでました。えらいな、わたし。単純に書いたこと忘れてただけだと思いますけどね。うっかりしてるから……。
 そんなうっかり者のわたくし、2月号を読みました。この間、他部署の先輩に「昨日の電話、ちょっと限界感じたよ」と心配されたので、(これから新年度に向けておのずと忙しくはなりますが)気張りすぎずゆるっと取り組んでいきたい所存。どっかで肩の力が入ってるもんですね。寒かったしなぁ。

直線曲線 解釈の多様性について/栗林浩

 常々「解釈」という言葉やその役割について考えているけれども、これと言って自分の中で明確な答えにはたどり着いていないのが実際のところ。今回栗林さんの記事を読んで、こういう考え方もあるんだな、と大変勉強になりました。と、言うのも。

 俳句は、実景を精確に読者の眼前に再現して見せるのがその役割ではない。読者が、その句から読者自身の詩を形成するきっかけを提供するだけのものである。

 と、栗林さんは締めくくりに書いていて。「あ。なるほど~」と思って。俳句という詩の中にさらに自分自身の詩を形成する、という行動が「解釈」ということになるわけですね。一瞬「?」と思ったんですが、なんとなく「あ~~はいはい、うん。うーん、そうね」みたいな感じでわかった気がしました。「好き/きらい」「正しい/誤り」ではなくて、書いてあるものを読んでそこから自分の中で(俳句に書かれている)詩を感じられるかどうか、という話なんですね。その解釈が合わないからといって、相手が間違っているわけではないし、自分が間違っているわけでもない。めちゃくちゃ雑な言い方をすると作者の意図すら正誤の尺度にはならないということなんですよね。それはそう。
 わたしは常々自分の「読み」というものに自信がなく、それでも「いやでもまあわたしはこう思ってしまったし、こう言うしかないし、恥ずかしがるのも失礼だから僭越ながら書き残しますすいません」という感じで毎月こうして感想を書いているんですが。
 そうね、わたしの読みはわたしのものだもんね。そこに共感するかしないかはべつに正しいも間違ってるもないんだよね、と。それはもちろん逆の立場でも同じなんですよね。そういう意味では「多様性」というのは、多くを甘受するということではなくて、ひとつひとつを「解釈」という表現として成立させていく、ということなんだな、と思いました。うまく言えませんがそんなことを考えました。


翌檜篇(38)


呼吸をする  村上舞香

六畳一間に残暑が横たわる
 なにが残暑なのか、という想像が膨らむ句。たとえば日焼けした人がどっかりと昼寝しているのを見下ろしている。たとえばプール遊びのあとが散らかっている。たとえば、夕陽が差し込んでいる。わたしは昼寝している人がいる空間の句と思いますが、タイトルにやや引っ張られている気も。笑

浮遊して私が夕立だった頃
 夕立だった頃の私とはいったいなにものなのか、という問いが生まれますが、「浮遊して」なので雲の話ではないわけですね。「私」でしかない。今は何者になっているんでしょうね。「私」は。


水の匂ひ  福村南

白ショール職場恋愛はぐらかす
 はぐらかした~~~~~! ふ~~~!(誰)すいません、急にテンションが上がってしまいました。それくらいドラマチックで「ひゅーひゅー!」と思わず言いたくなります。隠すでも嘘を吐くでもなく「はぐらかす」というのがいいですね。白ショールが似合う人……かっこいい……!

洗濯の水の匂ひや春隣
 タイトルの「水の匂ひ」の句ですね。洗濯すると水より洗剤や柔軟剤の匂いがするものですが、その前の段階。洗濯機に水を貯めていくときに、または手で擦って洗うときに水の匂いがする。水の匂いって本当に様々なので、きっと春の水の匂いもあるんだろうな。


波紋  加藤右馬

日脚伸ぶオフィスの窓の十七時
 「最近、日が長くなってきましたね」「ほんまですね~」「あ、五時かぁ」「はいはい、帰りましょう~」「ちょ、え、室長わたしまだ、」「え、僕は帰るよ~?」という会話をリアルにしました。「日脚伸ぶ」という穏やかさは、これからくる年度末までの束の間の大事な大事な平穏なのです。

秋刀魚焼く言はずにおいた過去のこと
 「言わない美学」ってあると思います。それは秘密にすることでも嘘を吐くことでもなく、ただ言わずにいるだけです。「なにを言うか」も大事だけれど「なにを言わないか」も同じだけ大事で。しみじみと考えてしまうのは、「秋刀魚焼く」という絶妙な温度感からかもしれません。どんな過去なんでしょうね。


林檎  青野友香

時間さへ林檎ジュースの濁りへと
 なにかを待っているのかとも思ったんですが、林檎ジュースの濁りは林檎の「時間」からくるものなんだという句として読みました。主役は飽くまで林檎で、いろんな時間が林檎ジュースに凝縮されている。このジュースを飲むところまでがこの句の風景なのかな、と思います。広がりのある句だな、と思いました。

無言にて差し出す林檎角多し
 これは皮むきがうまくできなかったんでしょうかね。わたしも子どもの頃、興味本位で皮むきに挑戦したら多面的立方体のようになってしまって。そのときのことを思い出しました。でも、無言で差し出してきた相手は、差し出された人を思って皮をむいたんじゃないかなぁ。やさしい気持ちになれました。


 翌檜篇が二か月連続で「現代俳句協会青年部」となっていたので、どこにお住まいの方かはわからないんですが、どこかにこの句を作った方がいらっしゃるんだなぁ、と思いながら楽しく読みました。翌檜篇、やっぱり一番身近で好きなコーナーです。今年は他のコーナーも読んでいきたいんですが、まあ無理するとろくなことがないので(すぐ言う)、ゆるっと読めたらいいなと思います。
 ここまでお付き合いいただきありがとうございました。ではまた来月。

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