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自分って『肯定する』しかないと思う。たとえどんなにダメ人間でも。

 こんにちは。ダメ人間です。

 鈴井貴之さんがよく『水曜どうでしょう』で
『ダメ人間!』と呼ばれていました。
 あの響きがなぜか好きで、自分でもよく使ってしまいます。もちろん人には言いません。自分に言うんです。
 なぜ鈴井さんがそう言われていたかと言うと、大事なときに限って、絶対引いちゃいけないカードや、出しちゃいけないサイコロの目を出して、メンバーを恐怖の旅程に導いてきたからです。
 自虐ネタでもあったのでしょうが、あの、互いをダメだのバカだのヒゲだのと罵りながら楽しく?旅をしている4人が好きな人、道内にも国内にもたくさんいたはずです(ただ、大泉さんはこの番組のことはあまり言われたくないらしいんですが。気持ちはわからないでもないです。歳を取ってからもまだ若い頃の映像をテレビで流されてる人って、大泉さんくらいじゃないでしょうか)。


 世間的に見れば、
 私こそ、『ダメ人間』です。

 女、中年以上壮年未満。
(日本という国では生きにくい女という種族。しかも今は一番中途半端な年代だと思う。若い子のような輝きや可愛さもなく、おばあさんのような落ち着いたイメージもない。あえて言うなら母親世代だけど、子供いないので『ただの歳食った女』という目で見られる)。

 夫なし、子なし。
(この時点でこの世の大半の女性と話題が合わない。障害があると自動で結婚や恋愛はしないものとみなされる。実際はしてる人いくらでもいるんだけど、私はできなかった)。

 仕事が障害などのせいでパートしかできず、
 貧困。
(でも、同じような人、世の中にいくらでもいますよね)

 障害の関係で精神不安定。
 最近落ち着いてきましたが、20代と、40代に入ったばかりの頃はかなりひどかった。
 特に40になったあとの一年半くらいが、予想しなかったうつと不安に襲われ、辛かった。
「人生で何も成し遂げていないのに、もう人生の半分が終わってしまった」
 そういう思いに取り憑かれました。
 もし結婚や出産をしていたら、
 あるいは、仕事で成果を上げていれば、
 それほどひどくならなかったのかも。
 しかし、私の人生には家庭という選択肢はなく、仕事もできませんでした。

 なんにもできてない人生。

 あの頃は本当に絶望していました。周りの人にもかなり当たり散らしました。今思うと申し訳なかったと思います。
 この『40歳パニック』は一年ほど続き、その後なぜかスッと治まりました。理由は今でもよくわかりません。
 そういうことってあるんですよ、人生には。

 人間関係、ほぼ無し。
 誕生日やクリスマス、
 人と過ごした経験、一切なし。
 友達はいて、たまに飲みに行ったりランチしたりしてたけど、コロナ禍ですっかりご無沙汰。
 福祉の人以外、めったに人と会話しない。


 趣味で書いてる小説にも読者が集まらず。
(自分のために書いてるからいいけど、たまに悲しくなる。レビューが書かれると泣いて喜ぶ)。
 空想をノートに書くのは、小学生の頃から自然にやっていた『私の本能』みたいなものです。しかし、金にならない。生活の足しにはなってない。
 稼げる能力が欲しかった。しかし、

 文章を書く以外の能力がない。
(しかも、上手くない。まとめる能力がない)。
 今も、書きたいことをまとめようとしているのですが、ご覧の通りうまく行っておりません。

 他にできることがなく、
 やりたいという意欲もない。

 基本的に、物事に興味が持てません。

 将来の見込みなし。
 収入が増える見込みなし。
(障害で就業時間が限られるため)

 希望、全くなし。


 しかし、私はまだ絶望していません。
 むしろ、若い頃より安定しています。
(体調は老化で悪くなってるけどな)

 なぜかはわかりませんが、
 まだ将来に希望がある(と周りに思われてるけど実は全然ない)若い頃のほうが、
 絶望度が高かったように感じています。
 理想も高かったしなあ。

 人生を通して、
 健常の人達と自分を比べがちで、
「みんなちゃんと働いて生きているのに、自分はどうしてこんなにダメなんだろう」
 と常に思いながら生きてきました。

 たぶん、時間の無駄でした。
 もっとましなことやってりゃよかったのに。

 だけど、その頃はその頃で、
 ダメなりに必死だったんですよ。
 大部分ボツにしましたが、
 けっこう長い小説をいくつか書いていたし、
 音楽だってやった。向いてなかったけど。
 一度別な街に移住もしてみた。
 知り合いもいない大阪に一人で。
 結局戻ってきちゃったけど。
 今あんな無謀なことはとてもできない。
 若いからできたんだと思う。

 失敗しかしてないような人生でしたが、
 あがくだけあがいた感はあるので、
 もう、これ以上どうしようもなかったわと、
 最近は昔のバカさ加減を、
 少しは許せるようになってきた。

 私は一生懸命やったよ。
 でも、ダメだったんだ。


 今は年取った分、
「まあ、自分、この程度なんだな」
「世の中もこうなんだな」
 というのがわかってきましたね。
 いい意味で限界が見えてきた。

 今、一般企業の障害者雇用で働いているのですが、職場で短時間パートなのは私だけで、他の人はみんな正社員なんです。
 収入の差、ケタがいくつも違います。
 豊かさが会話から伝わってきます。ボーナス(私はもらったことがない)とか旅行とか「車衝動買いした。100万で」みたいな話を平気でしている。住んでる世界が違う感じがします。もちろんみんな既婚者で、子供の話もよくしてます。
 最初はうらやましかったのですが、
 よく考えたら、彼らは一日8時間どころか、毎日残業してるんです。
 家に帰ってからも顧客からの電話に対応してるんです(手当は出るらしいけど大変ですよね)。
 それだけのことができる体力と精神力があるからこそ、それに見合った高収入なわけです。
 対して、私は一日4、5時間が限度。
(医者の意見書にもそう書いてある)。
 人に対応する仕事はできない。
 結局、能力の差が収入の差なんだなと。
 今の会社に来てよくわかりました。

 とはいえ、低収入すぎて生活は苦しい。
 食費以外に使えるお金は、最近、
 一切ありません。
 寒冷地手当とかも全く無いので、
 暖房費がかさむ冬は、食費すら危うくなる。

 でも、同じような人、
 今はいくらでもいるんですよね。

 ホームレスとか、
 病気で全く働けない人も見てきました。
 私はまだ、恵まれている方です。



 世の中は成功してる人ばかりではないし、
 幸福になれる人ばかりでもない。



 福祉施設と一般社会の中間にいた時期が長く、
 両側の幸福と不幸を見てきました。

 健常の人は、もしかしたら、
 障害者や病人を、
 単に不幸だと思っているかもしれない。

 でも、それは違うんです。

 同じように存在している人間なので、
(ここ、忘れてる人多すぎませんか?)
 人間らしくいろいろ感じながら生きてます。
 幸福も不幸も。

「人生を肯定しよう!」とか、
 恵まれてる人に言われても、
 説得力なくないですか?
「そりゃお前が金持ちだからだろ」
「家族に恵まれてるからだろ」
「正社員で収入多いからだろ」
「イケメン(美女)だからだろ」
「健康だからだろ」

 と、いくらでも難癖をつけられます。
(ひねくれててごめん……)。

 でも、私のような、
 真性の『ダメ人間』が、
 言ってたらどうでしょう?

「こんなダメ人間でも人生肯定できるのか」

 と思わないですか?
 え?ダメ?
 やっぱ成功者じゃないと信用しない?


 でも、絶対の事実なんですよ。
「自分の存在は肯定するしかない」
 というのは。

 だって、誰がなんと言おうと、
 私自身がどれだけ絶望しようと、
 私はここにいる。

 私という存在がここにあるという絶対的事実。

 これは、誰にも覆せない。


 幸せかどうかも、あまり関係ないですね。
 そもそも、お金がなくても家族がいなくても仕事がなくても病気や障害でどうにもならなくても、
 幸せな人はいるし、
 自身の存在を肯定できてる人はいます。

 さらに、説明が難しいのですが、

『不幸な人生だからこそ、存在を肯定したい』

 という気持ちになること、あるんです。


 考えてみてください。
 あなたの友達が病気になったとします。
 仕事ができなくなりました。
 復帰の見込みもしばらくありません。
 そこで、

「俺なんて生きている意味がない」

 とか言われたらどうします?

「そんなことないよ!」

 って言いませんか?
 たとえ重病で治る見込みがなくても、
「そうだなあ、生きてる価値もうないなあ」
 なんて言わないでしょう、普通は。


 不幸な他人の存在は肯定できるのに、
 不幸な自分の存在は否定してしまう。

 なぜでしょう?

 辛いからですよね。
 苦しいからですよね。
 でも、それがあるからこそ、
 本当に大事なものがわかる。
 そういうこと、ありませんか?

 体調が悪くなったおかげで、当たり前だと思っていた健康の素晴らしさがわかる。
 老化で弱ったおかげで、同じように歳をとった人の言動が理解できる。
(歳をとらないとわからないことは、本当にたくさんあるんです。特に体に関しては)。
 私はデイケアや福祉施設にいたおかげで、世の中にいろんな障害や病気を持つ人がいることを知りました。
 みんな健常者と変わらない精神と心を持っているのに、心ない差別があると身を持って知りました。



 とにかく、

 本来、私達は生きている限り、
 生きていていいんです。
(当たり前すぎることですが……)。

 だから、自分の存在を肯定していいんです。

「私は不幸だ。
 だが、私は自分の存在を肯定する」

 それでいいと思うし、
 不幸な人間にはそれしかないと思います。

 たとえ幸せではなくても。
 私はここにいる。
 自分の人生を肯定する。
 そうやって生きていく。

 たとえ希望がなくても。
(そういえば、何年か前に「希望格差社会」って言葉がありましたね。今は希望すら贅沢品になっているのでしょうか)。

 それに、貧困の私ですら、
 小説を書いたり空想をしている時は、
 幸せなんですよ。それなりに。


 私は自分の人生を肯定します!

 たとえ貧困で才能もなくて不幸でも。
 生きられる限り、そうやって生きていく。


 でもきっと、
 また何かあったときには、
 心がぐらつくんだろうなあ。
 弱いから。




 読んでくれてありがとう。



 



 


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