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家族で観たくない家族映画

 「家族で観たい映画」/「ファミリーで楽しめる映画」という触れ込みはよく目にするものの、その逆、つまり「家族で観たくない映画」というコピーは聞いたことがないため、それならば私の出番だということで、この記事を書いています。

 また今回は、その中でも「家族で観たくない“家族映画”」という切り口で、あくまで「家族」にスポットを当てた作品を紹介することにいたします。“家族で観たくない”というのは、「家族で観るのは推奨しない」というだけで、どれも素晴らしい映画には違いありませんから、勝手な物言いをどうかご了承ください。

 早速本題に入りたいところですが、家族の衝突や破滅、死を描いた暗いトーンの映画(少なくとも明るくはない映画)が続きますので、そういった作品が苦手な方はめいめいご注意いただけますと幸いです。それでは、紹介に入ります。


※以下、作品の詳細を含みます。ご了承ください。

『インテリア』(1978年)

○製作国:アメリカ
○監督:ウディ・アレン
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[あらすじ]
 ニューヨーク州はロングアイランドに暮らすとある一家。インテリアデザイナー(デコレーター)の母と、実業家の父、それぞれ独立した三人の娘。誰もが羨むような家庭の裏では、一体何が起きているのか。両親の別居騒動を皮切りに、完璧に見えた家族の関係はもつれ、次第に崩壊へと向かっていく……。


 本作は、ウディ・アレンと聞いて私たちが想像するような(例えば『アニー・ホール』に代表されるような)、コミカルでポップな作品群とは全くテイストを異にする、彼のフィルモグラフィの中では異色と呼べる作品です。むしろこの重厚さは、イングマール・ベルイマンの代表作『叫びとささやき』や、ジョン・カサヴェテスが倦怠夫婦を描いた『フェイシズ』、『こわれゆく女』のそれと並ぶといっても過言ではありません。

 またこの映画の優れた点は、夫婦間の不和だけでなく、三姉妹のあいだにある才能の格差のようなもの、そこから生まれる嫉妬や羨望を、三者三様、それぞれの視点からとりあげたところでしょう。母親から“完璧”であることの呪いをかけられた三姉妹が抱える苦悩を、監督であるアレンは痛々しいリアリティを持って観客につきつけます。

 外側から見える栄光と内的な充足は必ずしも一致せず、傍からはどれだけ恵まれた家庭に見えようと、家族というのはその内部に、容易には解きほぐせない感情のしこりやわだかまりを常に抱えているものです。それがうまく解消・発散されずに、家族のあいだを覆い尽くす影となれば、その先に待ち受けるのは、初めに描いた理想とは細遠い、破滅の道しかないのかもしれません。

「ママはこの世で生きるには完璧すぎたのよ。あまりにも美しく整えられた部屋、見事に統一された室内インテリア。人間の感情が入り込むスキもなかった。何一つ。家族はそう感じた。」
『インテリア』(1978年)


『普通の人々』(1980年)

○製作国:アメリカ
○監督:ロバート・レッドフォード
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[あらすじ]
 長男の死をきっかけに、“普通”の家族の日常が崩れてゆく。兄を偏愛する見栄っ張りの母、家族と向き合うことを恐れる弁護士の父、兄を失ったショックとその罪悪感から自殺未遂をする次男。どうしようもなく修復不可能な傷を残しながら、家族はまた一歩、未来へと足を踏みだす覚悟を決める……。


 『普通の人々』は、第53回アカデミー賞受賞作であると同時に、名優ロバート・レッドフォードの監督デビュー作でもあります。俳優が監督業に転身する場合は傾向として、その本人が出演も兼ねることが多い(そうすればネームバリューによってある程度の興行的成功が見込めるから)のですが、彼に至ってはカメオ出演もなく、初めから監督としての仕事に専心しています。

 その後も『リバー・ランズ・スルー・イット』,『クイズ・ショウ』といった骨太で硬派な作品を撮り続けるレッドフォードですが、やはり注目すべきは、処女作にしてオスカー受賞を果たした本作品でしょう。予算の限られる中で撮られた本作は、「普通の家族」という一見地味なテーマでありながら、いや、地味なテーマであるからこそ、彼の真価が発揮され、今でも人々の心を掴んで離さない、普遍的な名作となり得たのです。


 普通の、どこにでもいるような家族に起きる、普通じゃない出来事。そんな彼ら家族が迎える結末は、どこか必然の帰結のようでもあり、観る者の胸を静かに締めつけます。それでも、人は過去には戻れないから、彼らは愛を確かめ合い、最後には、欠陥を抱えた自分自身を、家族を、そのまま受け入れる強さへと辿り着くのです。

「誰の責任でもない。結果がこうなっただけだ。」
『普通の人々』(1980年)



『セブンス・コンチネント』(1989年)

○製作国:オーストリア
○監督:ミヒャエル・ハネケ
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[あらすじ]
 オーストリアのとある家族が一家心中に至るまでの3年間の軌跡を描く。


 ミヒャエル・ハネケ監督というのは少し特殊な経歴の人で、映画監督としてその名が知られるようになるまでは、ドイツ公共放送局の編集・脚本家として、テレビ映画を手がけるようなディレクターとして活躍していた人物です。そんな彼が、テレビ畑から転向して、47歳にして初めて撮った長編映画がこの『セブンス・コンチネント』になります。


  自殺や心中と聞くと、人々はその死を受け入れるために、適当な理由をつけて自分の次元で勝手に解釈しようとするものですが、人が死ぬ理由なんて、他人には到底分かりっこありません。もしかしたら、大した理由なんてないのかもしれない。監督はそんな形を取らないボヤッとした不満が家族を蝕む様子を、日常の反復、リフレインという形で、その冷徹なカメラに捉えます。


  また監督は本作品のインタビューでこう語ります。映画は私にとって文学よりもずっと音楽的である、と。つまり、物語の筋書きを「知っている」観客に、映画が提示できるナニかがあるとすれば、それはすなわち“リズム”である、と。本作のように、淡々とした乾いた描写ながら、それでも画面から目が離せないというのは、映画に“リズム”があって、我々はそのリズムに惹き付けられているということです。


  『ファニー・ゲーム』から監督のことを知った映画ファンは、「ハネケは意地の悪い作家である」と放言しがちですが、後年に撮られた『ピアニスト』や『愛、アムール』を観て分かる通り、彼はただの露悪的な映像作家ではありません。もちろん、そういった側面がないわけではありませんが、私は彼の作品に触れるたびに、その挑発的でサディスティックな描写と同居する、人間存在への深い深い愛を感じてならないのです。



『トウキョウソナタ』(2008年)

○製作国:日本
○監督:黒沢清
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[あらすじ]
 東京に住む、ごくごく普通の核家族。しかし、サラリーマンである父のリストラを境に、家族を繋ぎとめていた連帯が、糸のようにほつれていく……。

 映画評論家で知られる淀川長治氏は、アメリカ映画は「生活」、フランス映画は「恋」、イタリアは「三面記事」、スウェーデンは「神」を描き続けてきたといいます。それでは、日本映画が撮り続けてきた主題はなんでしょうか。その一つの答えは、「家族」であると考えます。

 映画史に燦然と輝く小津安二郎の名作『東京物語』も、2008年にアカデミー賞国際長編映画賞を受賞した『おくりびと』も、はたまた、今年外国語映画賞を受賞した『ドライブ・マイ・カー』も、大枠でみればどれも「家族」を描いた映画です(それも家族の惜別を)。2018年に、是枝裕和監督の『万引き家族』がカンヌのパルム・ドールを受賞したことも記憶に新しいと思います。そして、本作『トウキョウソナタ』の主題もまた「家族」です。


 この映画の際立って素晴らしいのは、家父長的なイデオロギーの解体〜家族の再生を、外的な要因、それも突発的な事件による異化作用によって見せたところにあるでしょう。家族を崩壊の危機に至らしめるのも、再生へと導くのも、偶発的な外部のファクターの存在であるというのは、どこか儚くもあり、人生の真理のようでもあります。


 随所に小津作品へのリスペクトが感じられつつも、それが真似っこやイミテーションに終わらず、黒沢清監督独特の情感を伴って、またドビュッシーのベルガマスク組曲「月の光」をもって昇華された本作は、“日本的”なホームドラマの一つの到達点と言ってまったく差し支えないほどの傑作です。



『別離』(2011年)

○製作国:イラン
○監督:アスガー・ファルハディ
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[あらすじ]
 離婚協議中、一時実家に帰った妻シミンに代わって、夫ナデルは家政婦のラジエーを雇用する。しかし、あるトラブルから、ナデルはラジエーを突き飛ばし、その子どもを流産させてしまう。嘘に嘘を重ねた結果、事件はさらに泥沼化していき……。


 最新作『英雄の証明』が絶賛上映中のアスガー・ファルハディ監督。世界のどこへ行っても脚光を浴びる彼の名を、広く映画界に知らしめたのがこの『別離』という作品です。アカデミー賞国際長編映画賞、ゴールデングローブ賞外国語映画賞、アジア映画大賞、ベルリン国際映画祭金熊賞と、数々の名誉ある賞を総なめにした本作の、その緻密に練られた脚本は、およそ天才的と言わざるを得ません。


 宗教、貧困問題、ジェンダー、夫婦関係、介護という普遍的なテーマを扱ったヒューマンドラマでありながら、サスペンスの要素も多分に含んで観客を退屈させないつくりは見事なもので、物語が一巡した最後の着地まで完璧な作品です。


 見栄や保身のために嘘を重ねる大人と、そんな不毛なやりとりの応酬に振り回される子どもたち。彼らの非力な眼差しがひたすらに苦しい。また、窃視のようなカメラワークによって、我々もまた、事件の当事者たることを余儀なくされます。ことの顛末を最後まで見届けたものは、映画としての純然な完成度の高さに打ちのめされるほかありません。



『家族を想うとき』(2019年)

○製作国:イギリス/フランス/ベルギー
○監督:ケン・ローチ
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[あらすじ]
 舞台は現代のイギリス。マイホームの夢を叶えるため、フランチャイズのドライバーとして働き始める父。パートタイムの介護福祉士として、こちらも時間外労働に追われる母。家族の生活のためであった仕事は、次第に家族の幸せを蝕んでいく……。 


 『わたしは、ダニエル・ブレイク』で二度目のパルム・ドールを受賞した社会派映画の名匠ケン・ローチ監督が映し出す、労働階級の現実。監督は現代の小作農とも呼べるような彼ら家族の悲哀を、どこまでもリアルに、そのディテールを突き詰めて活写します。

 宅配ドライバーとして働く父は契約上あくまで「個人事業主」であり、そこでは社会保障も労災保険も正常に機能していません。サッチャー政権が主導した新自由主義とグローバリズムの裏側で、公共福祉や医療サービスが縮減されたイギリスでは、このような光景が目に新しくないといいます。それはパートタイムで働く母親も同じです。


 時代に即した柔軟な働き方として提示されるゼロアワー契約、ギグ・エコノミーによって強化された労働者の搾取構造。「自己責任」という呪いの鎖が、家族を締めつけてゆく様がなんとも痛々しく、同じ資本主義競争社会の延長線上を生きる私たちも身につまされる思いです。


 ワーキングプアの理想と現実を、「家族」という社会の最小コミュニティのミクロな視点から描いた本作は、分かりやすい映画的なカタルシスこそないものの、歪な現代を生きる我々が、今こそ観るべき映画であると言えるでしょう。


cf)『家族と社会が壊れるとき』(NHK出版)


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 noteではこれからも、既存のフレーミングで取りこぼされてしまうような名作を、このような形で随時紹介していけたらと思います。どうか何卒よろしくお願いいたします。それでは失礼します。

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最後までありがとうございます。