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戦世(いくさゆー) 祖母たちの沖縄戦

つれづれ雑草コラム 第2回 

祖母たちの沖縄戦


1970年代の沖縄(私の子供の頃)

周りは未亡人だらけ
男の年寄(オジー)は少なかった。

私の父の母、母のおばさん2名
みんな戦争未亡人だ。
昼下がりの午後は、よく私の実家で小1時間おしゃべりしていた。
夜明けあとの畑仕事を終え、お昼ご飯、昼寝のあとで集まるのだ
夕方また畑へ 夏の日中に畑は無理だ。

梅雨明けの青空にアカバナー

沖縄のオバーたちはよく笑う
なんでも笑い話に変えてしまう。

でも、戦争の話はしたくなさそうだつた。
実際あまり聞いた記憶なしだ。
「戦(いくさ)の話すると夜は眠れない」と話していた。
でも、なにかのきっかけで戦(いくさ)の話になる。
夫はみんな防衛隊員だった。
戦(いくさ)の後で、首里を探し回ったが遺骨を拾うことは叶わなかった。

母の弟(乳飲み子)はやんばるの捕虜収容所で餓死した。
たぶん祖母は30歳前後だった。

一家全滅を避けるため
もうひとりの弟と祖父は南部の実家の壕にこもった。

https://www.qab.co.jp/news/2015090770161.html

援護法改正で、死亡した6歳未満の子についても保護者の戦闘協力の状況により援護金がもらえることになり
裁判官の前で証言した。(多分80年代くらい)

でも、その直ぐ後、精神疾患で入院を20年くらいして亡くなった。
だから、お金はほとんど入院費とおむつ代とかに使われたかもしれない。


子供の頃

“お前も私も艦砲の食べ残し“ 

の意味の沖縄語の民謡が流行した。
すさまじい量の艦砲射撃で、
そこいらじゅう穴だらけ。
“生きているのは運がいい“ 
の状況だったみたい。
集落内に一家全滅の空き屋敷が沢山あった。

私の生家もだ。
私が出生後に父が仏壇を継ぐことになり、移り住んだけど。

艦砲ぬ喰ぇーぬくさー - でいご娘 (youtube.com)


父は実家の家の下に掘られた壕に隠れていて捕虜になった。

母のもう一人の弟(おじさん)は母の祖母に背負われていた時、機銃照射を受け、母の祖母は死亡、でも3歳のおじさんは助かった。
背中の傷を見せられた記憶がある。

ハブが沢山生息するやんばるの森
https://www.env.go.jp/nature/np/yambaru.html

母達は捕虜になるまで、やんばるの森に隠れていたらしい。
ハブが沢山いるやんばるの森に隠れるのは
命がかかっている状況以外では無理だろう。

捕虜になった者だけが、沖縄戦を生き延びた。

勿論、その後にも沢山死亡したけど。

捕虜収容所から帰還しても、すっかり焼けた集落しかなかった。

おばー達は悲しんでいる余裕はなかった。
子供たちを必死で育て上げたのだ。
しかも当時は貧乏子だくさん。


捕虜収容所
http://www.rekishi-archive.city.naha.okinawa.jp/archives/item3/39868

母は子供の頃 「いつも裸足だった」、「芋ばかり食べていた」
と話していたが、”生きているだけまし” の時代だった。
5歳くらいで終戦した母より、オバー達はもっと大変だったはずだ。

でも、いつも明るかったから

そんなことに思いが至らなかった。

茶請けの黒糖があれば十分だった。
”いい世の中になったね” と笑いあっていた。

自給自足に近い質素な暮らし。

でも、あの頃はしあわせそうだった。
地獄以外の形容はできない時代を生きてきた後だったから。


僕らは贅沢しちゃってます。すいません

当時(オバー達の談笑していた70年代)より、僕や子供たちは何十倍も贅沢してます。

すいません。感謝しています。

ありがとうございました。命をつないでくれて

妻の母もサイパン島からの引き上げだから
運が悪ければ、私も子供たちもこの世には存在しないのだな。



うりずんに咲き誇るテッポウユリ

6月23日は沖縄戦が終了した日として慰霊の日だ

テッポウユリが美しかった時、みな生死をさまよっていたのか

今年の梅雨明けは6月20日ころと発表された。

2024年6月23日
今、月桃の実が先ちょに白い花の名残をくっつけている。

月桃の実 先に花の名残


私に命をつないでくれた先人達に感謝、 合掌

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