「Queen Anne's prayer」


 「Queen Anne's prayer」とは、富裕層向けの定期契約客船のサービス名である。

 契約者は企業が課した一定の規約をクリアした後、企業が所有するヨット、モーターボート、小型客船、大型客船等、様々な種類の船舶から自由に選択し、バカンスに利用することが出来る。金があることさえ証明出来れば驚くほどの自由性を保証されるその便利さが、一部の層に深く刺さった。もちろん企業側が提案している季節折々のツアーに参加しても良い。

 だがほとんどのユーザーは、アンプレの自由度に惹かれて、契約に踏み切っている。実際に利用することは稀かもしれないが、まるで机上のペンを取るかのように船を借りられる。また高い維持費や停泊代を自己負担しなくて良いのは楽だ。

 金と時間を天秤にかけた時、後者が勝るのがアンプレ利用者なのである。

 主人公もまた、そんなユーザーの一人だ。

 尤も、彼はそこまでお金持ちではない。強いて言うならその身一つの才能で運命を切り開いた、まさしく主人公を体現する人間だ。

 彼の居るところには自然と人が集まり、人のいるところには当然金が落ちる。主人公は金にがめつい人間ではないが、かと言って貧乏を受け入れる気も毛頭無い。

 出来ることがあるなら自らの全てを使って実行し、それに巻き込める人間がいるなら手を取って先導してみせる。生まれながらのカリスマ性で、彼は人を喜ばし、彼自身さえ救われていた。

 彼は自分がこのような人間であること、そしてこのように生まれたことに、天と地と両親、家族全てに感謝している。

 そして、それをことさら実感するのが、こういう人里離れたクルーズで、地平線から生まれる太陽と朝日を眺めているひと時だ。世俗から離れ、ただ穏やかに時の流れに身を浸す。これがほんの四年前なら、下働きとして身を粉にしていた。

「……幸せだ」

 思わずつぶやくも、答える人間は一人もいない。それがいっそう、心地よい孤独を感じさせる。自らの一挙手一投足に周囲の全てが期待の眼差しを向けることは自尊心をくすぐられるには違いないが、時には――常に、プレッシャーでもあるのだ。最近の彼は、幸福であると同時に、奇妙な厭世観も覚えていた。このままこの人生を、ふわりと離陸する旅客機のように飛んで上がらせたとして、その先は果たして?

 考えたところで仕方がない。未来は誰にも見えない。予測はするが、それは常に不完全で、骨を折る行為でもある。重箱の隅をつつくとは言うが、重箱の隅にとんだイレギュラーが潜んでいたことは何度もあった。その度に、人間の理性の限界を思い知らされるのだ。

 まあ、そんなことは今は良いのだ。今はバカンスに来ている。たった一人で。

 デッキの手すりに寄りかかってスパークリングワインを呷っていると、ふと近くから足音がした。猫のように軽やかなのが、何となく脳裏に浮かぶ。

「こんにちは〜」

 声がしたので、振り返る。

 そこには、見知らぬ男性が立っていた。髪は金で、耳にはピアスが光り、黒っぽいシャツに黒っぽいズボンはブランドものではあるが着こなしが家着のそれだ。年のころは二十代くらい、顔立ちはどことなく軽薄である。悪い人ではないかもしれないが、自分とは合わないだろう。瞬時にそう思った。

「……こんにちは」

 やや声色に緊張が混ざってしまう。相手にもそれが伝わったのだろう。彼は安心させるように、だがやはりヘラヘラと詐欺師みたいな風体で笑う。笑うたびにピアスがユラユラ揺れる。

「ああ、すみません。人がいるんで反射的に声掛けちゃったって言うか」
「はあ……」

 曖昧に返事をしながら、この人はあまり思慮深くはないんだろうと思った。そうでなければ、そもそも話しかけてこないはずだ。何しろ、規約違反である。伝えたほうがいいのか、はたまた我慢するべきか判断に困る。自分一人が迷惑をかけられるのは別段そこまで深刻ではないが、この人がもし他の乗客に対してもこうするなら、ここで止めるべきだ。

「あの、あなたは……なんですか?」

 主人公が尋ねると、金髪の男は不思議そうに「はい?」と答えた。

「なんですかってなんですか?」
「だから、その……ここでは仮面をかぶるのがマナーです。あなたの仮面は?」
「ああ、それか。そうだった、そうだった。忘れてた……だからか」

 金髪の彼は自問自答するように繰り返すと、ややあって続けた。

「僕は冒険者です」

 予想外に丁寧な口調で、予想通りの答えを彼は――冒険者はした。主人公が納得したように頷くと、冒険者もまた嬉しそうに頷き破顔する。どうやら自らの立場に満足を覚えているようだ。まあ冒険者ならそうだろう。主人公が己が身の上に満ち足りているように、冒険者もまた自らに充足を感じやすい傾向にある。

「でも馬鹿みたいですよね~。そういうレッテル? みたいな。僕は僕だし」

 冒険者が軽い口調で言う。それは確かに、主人公もまた時折感じていることだった。

 だが、このレッテルこそが、昨今の社会形成に一役買ったのは否定できない事実である。何を隠そう、主人公自身も、企業や役員人事等でこれを利用しなかったことは無い。

 主人公は、もはや朝日とは呼べない太陽を直視も出来ず、目を細めながら遠くに目をやった。馬鹿正直に答えても良いが、朝を迎えるまでまんじりともせず酒を嗜んでいた彼は、今少々眠い。

「そうですね……まあ便利ですし、そんなものではないですか」
「便利かあ……でも、この海に必要ではなくないですか?」

 冒険者がおおげさな身振りで海をぐるりと示した。波が一際強く船体に突き付ける。

「海にというよりは、いざという時の……一種の防衛システムだと思いますよ。アンプレ側の」
「防衛、システム?」
「何事も、何かあってからし始めるんじゃ遅いってことです」
「あ~、なるほどです」

 冒険者は内心で分かっていなさそうなのを隠そうともせず、ぼんやりした表情で言った。

 完全に上り切った太陽が眩しい。古代エジプトにおいて、太陽は死と復活の象徴だったとも言う。毎日昇っては沈み、生まれては死ぬ。今は低い位置でその生を謳歌している眩しい恒星だが、まるで目の前の男も同じなんじゃないかと思えた。冒険者は一緒に居て楽しいタイプの人間だろうが、主人公と比べてカリスマ性とか、深い思慮とか、そういう天分に恵まれたとは言えない。人それぞれいいところがあると言うことで、主人公はそれを悪くは思っていないが。

 ともあれ、主人公はここで、欠伸を堪えきれずに、冒険者の前餌大口を開けてしまった。そこでようやく、冒険者も主人公の眠たそうな様子に気が付いたらしい。「じゃあ」と一言捨て台詞のように吐くと、どこか陽気なステップで颯爽とその場を後にした。主人公はその後ろ姿にまたも、警戒心を捨てた家猫みたいに大欠伸を漏らした。もう、自室に戻って寝よう。こうして好き勝手昼夜逆転できるのも、今くらいなものだから。


 だが、それからものの数時間で、主人公はまどろみからたたき起こされる。
 冒険者が遺体となって発見されたのだ。


 彼は明らかに、何者かによって殺害されていた。

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