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個人的に混ざるもの

 人と話していて、あるいは書き物(手書き)をしていて「ウッ」となる瞬間がある。眼科の視力検査で左右が分からなくなる、というのもあるあるだと思うが、ここで話題にしたいのは、「A」と言おうとするとなぜか口から「B」と言ってしまうという類のものだ。
 例えば(最近はそうでもないが)小さいころは「インド」と「ドイツ」がよく混ざっていた。三文字のカタカナなうえに「イ」「ド」が被っている。「ン」と「ツ」も小さい子の視点からすれば大差ない。うん、混ざっちゃうよね!たまに他の人からも同じ話を聞いて安心する。よかった、私だけじゃないんだ。だよね~。混ざるよね~。もちろん何もかもが全く異なる国ではあるけれど、(そして名前が似ているのだから中身も似ていてほしかったというわがままで、そのことに子どもながら憤慨していたけれど)、小学校高学年から中学生くらいまでは「どっちだっけ……」とハラハラし通しだったように思う。
 国名シリーズだと、同じくらいの時期に「カナダ」と「スイス」もよく混ざっていた。文字数同じで、カタカナで……。わかっている。「インド」と「ドイツ」よりは似てないと皆さんおっしゃるだろう。しかし、もう一つ共通点がある。国旗の色とモチーフの配置が似ている。赤と白。カナダ国旗のほうが白の割合は多いものの、子どものころの私は「あんれぇ……?」となっていた。だから私の社会科のテストなんかでは、よくアメリカ大陸にスイスが出現したり永世中立国がカナダになったりした。インドとドイツの同志はときおり見かけるのだが、カナダとスイス仲間にはついぞあったことがない。さみしい。
 手書きではいつも「存在」と「季節」で筆が止まる。「存在」は同志も多いのではないだろうか。そう、「在存」と必ず一度書き間違う。最近はとうとう共通する部品(ナと縦棒)を二文字分書いてから「子」と「土」を書いてみたが、それでも見事に逆をやってしまった。漢検準一級の合格通知が泣いている気がする。
 「季節」は、これもお仲間には会ったことないなぁ……。まず「希」節と書いてしまう。季節の移り変わりってなんか「希望」がありませんか……?気のせいですか……?そして書き間違いに気づいて慌てて今度は「委」節と書き、「なんか違うな?」と思ってようやく「季節」に辿り着く。情けない。下手するときちんと「季節」と書けたのに「なんか違う?」と思って「委節」に寄り道してから「季節」に帰ってくる。なぜ書き物をしているだけなのに遠回りしてしまうのか。漢検準一級は返還したほうがいいのかもしれない。合格通知くんの滂沱の涙を止めてやれない気がする。
 そして私には、きっと同志はいないだろうと自信を持って言える「個人的に混ざるもの」がある。参ったことに現在ご活躍中の方のお名前だ。
 「米澤穂信」と「穂村弘」が、混ざる。困る。「古典部」シリーズや「小市民」シリーズ(アニメが放映中だそうですね!)にとどまらず、多種多様なミステリ作品を生み出しながら快進撃を続けるミステリ作家の米澤穂信と、歌人として「ニューウェーブ短歌の旗手」として短歌界を牽引しつつ、どこか情けなさを伴うエッセイで親近感を覚える穂村弘が、混ざる。
 ジャンルも何もかも全く違う。共通する文字は「穂」しかない。字数すらあっていない。両先生とも名字からお米の気配が漂うが、そういう問題ではない。なぜなら穂村弘先生は「ほむほむ」というニックネームでも親しまれておられ、私はその「ほむほむ」と「米澤穂信」すら混ぜてしまうからだ。こうなるともう音としての「ho」しかあってない。
 私はTwitterで米澤穂信先生のアカウントをフォローしており、先生の肩の力の抜けた呟きをよく読んでいる。特に面白いものを家人に見せようとして、毎度やらかす。「ほむほむのツイートで面白いのがあったよ」と話しかけ、次の瞬間慌てて「米澤穂信先生ね!」と自分で言い直してしまう。家人は(近ごろはさすがになれたものの)毎度面食らった顔をしていた。逆もある。「米澤穂信のあのエッセイどこやったっけ~」とつぶやきながら家の本棚の前で穂村弘のエッセイを探し求めていた。家人が良かれと思って『世界堂書店(米澤穂信)』を持ってきたらどうするつもりだ。私が探しているのは『鳥肌が(穂村弘)』なのに。別の鳥肌が立つわ。
 今のところ、家人を除けば人前でやらかしたことはない。でも好きなミステリ作家は?と聞かれて「穂村弘」と答えたり、好きな歌人(あるいはエッセイスト)と聞かれて「米澤穂信」と答えたりして、場の空気を混乱させたくない。「穂村弘の短歌は謎めいているのが魅力さ、もはやミステリといっていい」とか「米澤穂信のミステリはあまりに鮮やかで、もはや歌といってもいいよ~」みたいな、めちゃめちゃトリッキーかつスノッブな主張するやつだと思われたら二度とその場へ行けないんじゃないか。今適当に書いてみただけでもう鳥肌ものだ。しかし間違うのを恐れて本意でない作家さんの名前に逃げるのも、なんか嫌だ。好きな作家さん自体はたくさんいるから、嘘をつくことにはならないが、まず思いついた作家さんの名前を挙げたいのが人情だろう。
 対策を兼ねて、なぜ混ざるのかよくよく考えなおしてみた。そして気づいたのだが、両先生とも高校でハマったんだった。『氷菓』をはじめとした「古典部」シリーズを読んでノートの隅でキャラデザ考えてみたり、『儚い羊たちの祝宴』を読んでうっとりしたんだ。そして高校生から短歌を実作していた私は教科書や国語便覧をめくって「体温計くわえて窓に額つけ~」などの歌を見つけてこれまたうっとりしたり、『世界音痴』を読んで「お友達だ!」と思ったりしたんだ。思春期の繊細な脳にほぼ同時期に刻み込まれてしまったんだ。それが……いや何で混ざるの?わからない。我が脳髄は複雑怪奇!
 結局のところ、対策としては「ものすごく気をつける」「発言は慎重に」くらいしかない。エンジニアさんに叱られそうな制度設計だ。家のなかはともかく、書店や図書館で書店員さんや司書さんの業務に混乱をきたさないように努めたい。レファレンス事例集に載っちゃったらちょっと照れくさいし。

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