水死体運搬船タイタニック (エッセイ)

海の男。
うーむ、憧れる。響きからしてカッコいい。その言葉から連想されるのはやはり船乗りだろうか。しかし一口に船といっても様々な物がある。客船もあれば貨物船もあり、巡視船もあればクルーザーだってあるわけだ。
その中でも最もタフでダンディズム溢れる存在が漁船であり、またそれを駆る漁師なのだと思う。荒れ狂う大海原へと船を出し、捩じり鉢巻きを頭に大物を次々と釣り上げ、船に掲揚した大漁旗を翻しつつ港へと戻ってくるのだ。カッコいい。やはりカッコいい。
ぼくは漁師ではなかったが、育った町は漁師町というやつで、両親も水産関係者である。当然幼い頃から海と親しみ、海に育てられ、口にするのは海産物が主となり、ぼくの成長期におけるタンパク源の全てはその港で水揚げされた魚介類だったといっても過言ではない。
高校を出ると同級生たちの多くは進学や就職で東京や大阪といった都市部へと出てゆくのだが、都会へ出てゆくにはその生活基盤を築くためにある程度まとまった金が必要になる。親が頼りにならず、かといって金を借りる充てもないぼくは田舎を脱する機会をすっかり失ってしまい、なんとなく就職したその漁港で魚の仲買人として働き、まあ貧乏ではあったもののそれなりに青春を謳歌していたわけである。

当時ぼくが付き合っていた彼女は歳がひとつ下だった。ぼくが十九だったから、彼女もまだ十八だった計算になるのだが、彼女には離婚歴が一度あり、幼い子供も一人いた。人生いろいろ、男もいろいろなのである。何せ十七で妊娠し、高校を中退して子供を産んだと思えば何があったか知らないがさっさと旦那が出ていってしまい、気がつけばぼくと付き合っていた、となんだか忙しい女なのだった。
しかしバツイチ子持ちとはいえまだ十八歳の女の子、それはそれは天真爛漫で肌はピチピチ、かわいかったりする。まだ青かったぼくは「よし、この母子をぼくが幸せにしようっ。バリバリと働いてガシガシと稼いで、この二人を養っていこう、必ずそうしてやるぞっ」などとアホなことを本気で考えていたわけだ。おい待て待て、お前はまだ十九だろう、といいたい。都会へ出たいという願いはどうなった、といいたい。
だが十九の少年は十九の少年なりに、彼女を大切に想っていたのである。

しかしまあとんでもない田舎だった。町にはパチンコ屋とラブホテルくらいしか娯楽施設がなく、デートスポットなるものも存在しない。あの町で成立したカップルが一体どこで何をどうやって愛を育んでゆくのかぼくには未だに謎なのだが、ぼくには名案があった。
船である。
そう、知り合いの漁師に頼んで巻き網船を借り、二人きりで沖へと出かけるクルージングデートを画策したのだ。交渉すると、知り合いである漁師の親父(アル中)は快く船を貸してくれたし、船でデートができると知った彼女は大喜びだった。ここはぼくも男である。苦もなく慣れた手つきで漁船を操舵し、カッコいいところを見せたい。幸いぼくには無免許ながら船の操舵経験があり、もう時効だから書いちゃうけど幼少期から夏ともなれば毎年のようにこれまた無免許でジェットスキーを乗り回したりしていた。
簡単にいってしまえば、実に牧歌的な環境だったのだ。

稼ぎの悪い仲買人なぼくだったが、これでも海で育った男だ。無免許ながら船を操ることができるのだから、それは完璧なデートプランに思えた。
当日、子供を親に預けて一人で現れた彼女は岸壁に係留された船を前に大はしゃぎ。彼女は底曳き網船で水揚げされる魚を魚種ごとに分ける選別員だったが、岸壁から先、すなわち海へは出たことがなく、恐るおそるといった様子でタラップから甲板へと足を踏み入れ、先に乗っていたぼくはくわえタバコでもやいを解いた。エンジンを始動し、降ろしていた錨を巻き上げる。離岸し湾の外に船を出すとかなり速度が出ており、彼女は舳先に立って「飛んでるみたい・・・」などとちょっとタイタニックっぽくなっていた。ロマンチックではないか。まあ船の側面に記されているのが客船の名ではなく「ナントカ丸」というのがちょっとマヌケではあったが。
波はなく、陸地が水平線の彼方へと消えたところで舵を切り、ぼくは船のノーズを港へと向けた。夕日が傾き、潮の香りを含んだ風が二人の頬を撫でる。
「気持ちいい!」
彼女は上機嫌、ぼくもカッコいいところを見せることができて大満足な帰途であった。
だが悲しいかな、幸せとは長く続かないものである。水平線に陸の影がうっすらと現れ、やがてその輪郭が確かなものとなり、船が湾内へと入った。接岸すべく速度を落としながら巧みな舵さばきを見せていると、船を係留する岸壁に近い海面に何か妙な物がプカプカと浮いていた。

白い布切れかと思ったが、舵を切りつつ近づいて見るとそうではない。どう見ても浮いているのは水死体であった。ゲゲゲ、何だこれ、という感じである。しかも服装はなぜか白いブリーフ一丁。それが海面に背を向けてゆらゆらと波に揺られているのだった。犬神家のNGシーンみたいである。ちょっと待て。ロマンチックなタイタニックデートの締めくくりでドザエモン登場かよ。季節は初夏であった。海底に沈んでいた死体の内部でガスが発生し、それが浮き袋の役目を果たして海面に浮いてきたようだ。彼女は顔面蒼白、ぼくは遺跡から発掘されたハニワみたいな顔になった。

二十年近くも前だが、すでに携帯電話は普及しており、よほど沖へと出るでもしない限り電波も届く。船の上で凍り付く彼女をよそにぼくは携帯を取り出し、110番に通報した。
「はい警察です。どうしました?」
「あああ、あの、人が・・・人の死体が浮いているんですよ。場所はですね、えーと○○県○○市○○町の○○漁港の・・・」
警察のオペレーターはにべもなくぼくに告げた。
「あー、それはウチじゃなくて海上保安庁の管轄ですねぇ」
話を聞くと、どうも海で発見された死体は警察が処理する仕事の範疇ではなく、海上保安庁のそれであるらしい。
その水域を管轄する保安区の番号を教えてもらい、ぼくは電話を切った。
「どうしよお・・・」
あまりにグロテスクな死体の様に彼女はそう呟き泣いていたが、泣きたいのはぼくである。一体なぜこんなメに遭わなければならないのだろう。
警察から教わった番号へとかけ直した。さっさとこの案件を海上保安庁へ引き渡し、もう家へと帰りたい。
「はい、どうされました?」
「あのですね、死体が浮いているんですよ、人の。場所はですね、○○県○○市○○町の○○漁港の・・・」
オペレーターはにべもなくいった。
「あー、それはウチじゃなくて警察の仕事ですねぇ」
なにー!?
「いや、その、一度警察には電話したんですよ。そしたらこれは警察の仕事じゃなくて海上保安庁の仕事だとかいわれましてね、それでおたくにかけたんですけども・・・」
「あー、でもね、事件か事故か自殺か他殺かわかんないし、それは警察に動いてもらうしかないですねぇ」
たらいまわしである。ガックリしながら通話を続けていると彼女がぼくを呼んだ。何だどうしたと訊くと、彼女が水死体を指さして叫ぶ。
「流されてる!波に流されてるよお!」
わわわ、見るとブリーフ一丁で浮かんでいるおっさんの水死体が波にゆられてどんぶらこと沖へ流されてゆくではないか。
「あ、あの、その水死体が波にさらわれそうなんですが・・・」
「そうですか、じゃあ引き留めておいてくださいね」
んごお・・・という感じである。

「仕方ないですね、じゃあ警察とはこちらで連携を取りますんで、とにかくその水死体を引き留めてください」
なんだかめちゃくちゃな要求をしてくるなぁ。
引き留めておけとはいわれたものの、具体的に何をどうすればいいのだろうか。何せ相手は水死体、まさか釣り糸を引っ掛けてリールで巻くわけにもいくまい。まずは甲板に立てかけてあったタモ網で水死体にアプローチしてみたが、海水を存分に吸収しブヨブヨとふやけた皮膚が崩れるばかり。ぼくはもう一度携帯電話を耳に当て、指示を仰いだ。
「ええっと、あの、どうしたらいいですか!?どんどん流されていきますよ水死体!」
「はい、そりゃもう抱きかかえてくださって結構ですよー」
この人は何をいっているのだろう。そういうのは山手線で飛び込み自殺した人のバラバラになった死体を火ばさみで集めるマグロ拾いのアルバイトとかに任せていただきたい。
彼女がまたぼくを呼ぶ。
「はやく!はやくしないとホントに流されていっちゃうよおー!」
見ると本当だ、すでに水死体は沖へと流されつつあった。
「あんた男でしょ!?はやくしなさいよ!」
涙声ではあったが、彼女が半ば脅してきた。問題をそのまま丸投げされた形である。警察や海上保安庁からはたらいまわしにされ、彼女からは死体を抱え上げるよう要求され、もはや四面楚歌といった状態であった。
逃げ場はない。腹をくくるしかなかった。
えーい、ここは海の男、そのワイルドさを見せてやる。

覚悟を決めたぼくは船体の縁に腰をひっかけ、浮かぶ水死体へと両腕を伸ばした。かろうじて指先が届く。さらに全身を伸ばし、死体の肩の辺りを掴んだ。うわぁ・・・なんという形容しがたい感触だろうか。何かこう、三日三晩にも渡って煮込み続けた豚トロをヌカ床で八年くらい寝かせ、さらに道端で半年ほど放置した生ゴミ的な手触りである。それに加えて酷い臭いだ。死体から発生するガスというのはとんでもない臭気を発するものであるらしい。
少し油断するとその臭気が鼻腔へと襲い掛かり、ぼくは「グエエエエエエー!」とえづいた。この臭いを吸ってはいかーん!と体が本能的に拒否反応を起こすのか、まるで呼吸ができないのである。

水死体の肩を掴んだはいいが、もうこれ以上の接近は御免被りたい。できればこのまま警察でも海上保安庁でも、いや消防署でも自衛隊でも何でもいいから引き渡したい、と切に願うばかり。ぼくから受け取った携帯を彼女が耳に当て、泣きながらオペレーターと何かやりとりしているのが視界の端に見えた。
「警察とか海上保安庁とかはまだかー!?まだ来ないのかー!?」
船体の縁から体を伸ばし、死体の肩を掴んだままぼくは訊いた。
「まだしばらくかかるって。もしかしたらあの人たちも死体の引き上げなんかしたくないんじゃない?」
な、何だって!?てめえら血は何色だぁー!?

掴む手に力を込めれば皮膚がぼろぼろと崩れ、かといって力を緩めれば波へとさらわれゆく水死体。船体の縁から体を伸ばした状態のぼくはだんだんその態勢を維持するのがキツくなってきた。もう仕方がない。死体を一気に引きつけ、抱きかかえることで船の上に水揚げするくらいしか方法を思いつかなかった。
しかしかなり勇気のいる作業である。
考えてみてほしい。あちこちの皮膚が剥がれ落ち、赤い身が所々垣間見える姿を晒した白いブリーフ一丁で浮かんでいるおっさんの水死体と熱い抱擁を交わすのである。だがこちらも男、それも海の男だ。長い歴史を紐解けば海難事故など特に珍しくもない。かつて漁師は死体として発見された際に誰か判別されやすいようそれぞれ全身に個性的な入れ墨を彫ったともいうではないか。よし、やってやる。
改めて覚悟を決めたぼくは渾身の力で死体の肩を掴み直し、手前へと引き寄せた。また死体の皮膚がズルリと剥けたが、ままよ、もう構うこっちゃない。さらに死体を手繰り寄せ、よいこらせーと抱きかかえた。
重い。重すぎる。死体というのはこんなにも重い物なのか、それとも海水を吸っている分質量が増しているのかわからないが、とにかく重い。腕力には自信のあるぼくだったが、これには参った。しかもぼくとその水死体の周囲には悶絶するほどの死臭が漂い、先述のようにもはや呼吸もままならず、まさに阿鼻叫喚の無酸素運動であった。
もしオリンピック種目に「水死体サルベージ自由形」とかがあったら間違いなくぼくは日本代表の金メダリストである。
熱い抱擁を交わしつつどうにか水死体の何割かが船縁に入り、ぼくは涙目で見守る彼女に懇願した。
「もうちょっとだ!君も手伝ってくれ!」
彼女がいい放つ。
「やだ!キモいもん!!」
即答であった。ぼくがいい終えぬうちに答えが返ってきたほどの速い返答である。
ぐぬぬ、ここまで来て力を貸してくれないのか。何度も抱き抱かれ、向こうの親にも紹介され、二人で何度も将来を語り合った仲だというのに、ドザエモンと抱擁し合った途端にこの仕打ちか。
協力要請を拒絶されたぼくはどうにか独力で水死体を船上へと水揚げし、疲労困憊のあまり尻もちをついた。舳先では彼女がこの世のものとは思えないグロテスクな展開と臭気に嘔吐していたが、吐きたいのはぼくである。
かろうじて立ち上がり、ぼくは水死体運搬船と化した漁船を接岸させ、係留した。空には死肉を狙うカラスやトンビが無数に舞い、ハエも飛び回り、おまけに彼女は逃げるように船から岸壁へと降りてどこかへ消えてしまい、ブヨブヨの白い水死体と共に残されたぼくはただ警察や海上保安庁の連中が到着するのを待つしかなく、パトカーが岸壁に姿を現したのは夕日が水平線へと沈みかけた頃であった。警察の調べによると水死体となって発見されたのは付近に住む無職の男で、事件性などはなく、どうも自殺だったそうである。

以来、彼女とは何度も港で顔を合わせたものの何だか互いにバツが悪く、目が合えば形ばかりの軽い会釈を交わす程度の仲となり、関係は自然消滅に近い形で終わりを告げた。それからほどなくして彼女は港での職を辞し、スナックでの夜の仕事に就いたと聞く。一方ぼくは都会へ出ることとなり、二十年近くが経過した現在では、もうぼちぼち東京で過ごした時間の方が長くなるほどだ。
キモい、という理由により土壇場で非情にも力を貸してくれなかったあのバツイチ子持ちの彼女は今どうしているだろうか。
生きていれば四十に近い。子供に至ってはハタチになるかどうかといったところだ。
二人とも幸せならいいけれど。

                     (了)

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