るしあ
1 人間(個人)の価値には、①客観的価値②主観的価値③社会的価値の3つがあると言う。
ここで言う①客観的価値とは、「その人の真の価値」とでも言うべきものであり、神ならぬ人間にはこれを評価する事は不可能とされている。
次に、②主観的価値とは、「ある人が自分に対して抱いている自己評価」を意味している。
最後に、③社会的価値とは、平たく言えばその人に対する「社会的評価」である。
社会的価値は、市場価値に置き換える事が可能であり、要するに金で評価出来る。
例えば、昨年大谷翔平選手がドジャースと10年総額7億ドルで契約したというニュースが話題になったが、大谷選手には今の世の中で7億ドルの社会的価値がある事を意味している。
メジャーリーグの市場規模や、彼の投打二刀流での「唯一無二」のパフォーマンス、さらには、彼のスター性を考えると、7億ドルという社会的評価は妥当なのだろう。
2 ここ最近執筆する気力を無くしていたのには複数の要因があるが、一月ほど前に新聞で「Vtuber」について書かれた記事を読んだのもその一因だった。
記事そのものは(うろ覚えだが)、昨今のサブカル界隈においては、漫画・アニメ・ゲームに止まらず、ボーカロイドやVtuberも市場規模を年々拡大しており、無視できないジャンルに成長しつつあるという内容だった。
Vtuberが伸びているのは、いわゆる「アイドル」と違って、ファンとVtuberの間(あるいは、ファン同士の間)で、コメントや「投げ銭」等を通して、直接に繋がる事が出来るという「一体感」がウケているからだそうである。
Vtuberの中には「投げ銭」だけで年間1億も稼ぐ人もいるらしく、これまでVtuberと呼ばれるモノに接した事のない私も、「1億」という言葉に惹かれて?、1億円プレイヤーたるVtuberの動画を視聴してみた。
・・・我慢して20分程見たが、彼女が動画内でやっている事と言えば、ゲームをプレイしている事と、時折意味もなくキレるだけである。
他のVtuberの人々の動画を見ているわけではないから、Vtuberの全てがそうだと言うつもりは毛頭ないが(事例一つでは帰納法も成立しないし)、「ゲームをプレイ」し、「キレる」芸(?)だけなら、・・・ある程度の演技力のある女性ならば・・・誰でも出来るだろう。
つまり、大谷選手の10年7億ドルという市場価値に対しては、彼の「唯一無二」性のゆえに私も納得がいくのだが、誰でも出来る、言い換えれば、代替可能性のある(=代わりはいくらでもいる)存在に対して、市場価値が1億円も付いているという現実に私はかなりショックを受けた。
3 人間は社会的動物である。
アリストテレスは、この言葉を「人間もアリと同じく社会を作って生活する習性のある生き物だ」という意味で、もっぱら動物学者としての視点から述べたに過ぎないらしい(と、大学時代に恩師から習った)。
今では、この言葉は「人間に社会性がある」事を言い表したものとして受け止められている。
人間が社会的動物であり、他者と関わることなしに生存が不可能であるとすれば、職場や学校を始めとする他者との交流の場で、自分に対する主観的価値と社会的価値のギャップに悩んでいる人が今も昔も大勢いるだろう。
私がこれまで執筆した記事に一億円の市場価値があるとは主観的にも全く思っていないが、それでも拙い文章で・・・自分なりに・・・一生懸命書いている。
勿論、1億円プレイヤーのVtuberと比べると、視聴者(読者)の数が桁4つか5つは違うし、明らかに私の記事の方が扱っている内容はマニアックである。
だから、私の書いたものの社会的価値が低いのは致し方ない。
それでも、件のVtuberの動画に1億円も投げる人々がいる世の中と私の現実認識との乖離のあまりの大きさに記事を書き続ける気力を失っていた。
だが、有難いことに(これまで書いた)私の記事を購入して下さる方が今でも存在するし、自分が記事を書くことにどれほど社会的価値があるかは疑わしくても、もしかすると自己満足(=主観的価値)を超えて、そこにいくばくかの客観的価値が生まれる事もあるかもしれない、と考え直して、執筆を再開する事にした次第である。
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