「日本人とユダヤ人」を読んで

1 「『空気』の研究」に引き続き、山本七平の「日本人とユダヤ人」を読む。
 私と同世代以下の人で山本七平の名を知っている人はほとんどいないと思うが、「日本人とユダヤ人」を読むと、山本が私の親と同年代以上の人々にどれだけ影響力があったのかが良く分かる。
 
 「日本人とユダヤ人」は、山本がイザヤ・ベンダサンという架空のユダヤ人名を用いて、日本人とユダヤ人の行動様式や思考の型を比較する日本社会論なのであるが、同書の中でもしばしば引用される2つの話を例に山本の残した知的遺産について触れてみたい。

2 「日本人は、安全と水は無料で手に入ると思い込んでいる」(『日本人とユダヤ人』角川ONEテーマ21 20頁)という話は、高校時代に現代文の教師から何度も聞かされた。
 水と安全がタダだと思い込んでいる日本人との対比で、砂漠に行けば水筒一本の水が時にはジョニ黒一万本より価値があり、身の安全を守るためにセキュリテイが完備されたNYの最高級のホテル暮らしをするユダヤ人の姿が描かれている。
 山本が記した「軍隊とか警察というものは、国民の税金で維持しているガードマン、いわばナショナル・ガードマンだという考え方」(同21頁)は、軍隊や警察の捉え方として政治思想的にはごくごく常識的な考え方だと私は思うが、安全は無料で手に入るから、「自衛隊は税金泥棒であり、「警察は敵」である」という当時の世相の下では、相当のインパクトがあったのではないかと考えられる。

 今日では、日本人もペットボトルでミネラルウォーターを買うのが普通になり、ホームセキュリティを付ける家・マンションも増えてきた。その意味で、日本人も(この本が発刊された1970年とは異なり)「安全と水が無料で手に入る」とは思わなくなってきたのかもしれない。
 将来的に「自衛隊を軍隊として憲法に位置づける」結果となるかは定かではないが、仮にそうなるとしても山本が「防衛費などというものは一種の損害保険で、「掛け捨て」になったときが一番ありがたいのだ」という述べている点は参考にすべきだろう。
 私個人としては、憲法9条を改正しなくても自衛隊は違憲だと思っていないし(そういう考え方は憲法学者にはいない)、むしろ自衛隊を軍隊として憲法に明文化することの方が、(戦前への回帰とも言うべき)過剰な再軍備への歯止めを失わせてしまうのではないか?と危惧しているが、改憲派の人々も「軍隊が、国民の税金で維持しているナショナル・ガードマン」であるという位置付けを忘れないで欲しいと思う。

3 次に、私の大学時代の教師が触れていた話を取り上げる。

 サンヘドリン(イエス・キリスト時代のユダヤの国会兼最高裁判所のようなものらしい)には次のような明確な規定があったそうである。
 「全員一致の議決(もしくは判決)は無効とする」と。(同111頁)

 この発想の根底には、「人間には真の義すなわち絶対的無謬はありえない」という考え方があるらしい。ユダヤ人にとってそれ(=絶対的無謬。平たく言えば、絶対に正しい判断を下せる能力)は神のみにあり、人間は誤り得る存在である。この点、「全員が一致してしまえば、その正当性を検証する方法がない。絶対的無謬はないのだから全員が誤っているのだろうが、それもわからない。従って誤りでないことを証明する方法がないから、無効なのである。」(同113頁)

 日本では、「全員一致の議決であれば、最も強く、最も正しく、最も拘束力があると考えられている」(同112頁)が、そうした発想が可能なのも、圧倒的多数の日本人は(ユダヤ人のような)一神教徒ではないため、絶対無謬の存在としての神との対置で、人間をその判断が「誤り得る」存在として捉える契機がないためであろう。

 本来ならば、物事の判断(議決であれ、裁判であれ)の正否と、その表決数の多寡と間には論理的な繋がりはない。言い換えれば、ある判断に賛成する人がどれだけ多かろうと、その判断が正しいとは限らない。
 日本における多数決は、単純に議決の多寡で物事を決する「単純多数決」によって行われているが、もし人間が判断を「誤り得る」存在であるという点に思いを致すならば、最終的に多数決で物事を決するにしても、反対意見との対決を経て、その正当性の吟味がなされた多数派の意見が、そうした対論を経ない多数決による決定よりも、より「確からしい」と言えるのではないだろうか?
 
 そう考えると、山本の述べるユダヤ人は人間の理性に全幅の信頼を置いていないのに対して、単純多数決で物事を決しようとする日本人は人間の理性をあまりに軽信し過ぎているように思われる。
 昨今のネットの記事を見ていると、大きな声で、より騒いだ方が「論破した」事にされているようだが、声が大きい事とその意見の正しさとは文字通り無関係である。一事の熱狂に惑わされず、人間の理性に対する盲信を戒めたサンヘドリンの規定から日本人が学ぶべき教訓は、本書が執筆された50年前よりも今日の方が大きいかもしれない。
 もし仮にある物事に対する周囲の意見が自分のそれと異なっていた場合、周囲の意見に違和感を感じるならば、その違和感を大事にした方がいい。数の多さは意見の正しさの証明にはならないのだから。


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