マウント・ディフェンス

1 ここ最近、「マウンティング」という言葉をよく耳にする。「マウンティング」とは、自分の方が相手よりも立場が上であること、また優位であることを示そうとする、行為や振る舞いのこと。特に、対人関係において、自分の優位性を示そうと自慢したり、相手を貶めたりすること、を指すらしい(新語時事用語辞典より引用)。
 いわゆる「マウント」ポジションを取る姿からの連想が語源となっているのだろうと推察されるが、今回は「マウンティング」しようとする人々の心性について少し考えてみたい。

 YOUTUBEで散財して見せたりする人々がいるが、あれは「マウンティング」ではないだろう。お金を使って閲覧者数を稼ぐという意味では、一種の広告に過ぎない。
 また、本当にお金を持っている(と思われる)人が、「私は金持ちだ」と自慢する事は考えにくい。「金持ちは金を使わないからお金が貯まるのだ」と聞いたことがあるが、悪目立ちするような金の使い方をする人に貯金はないだろう。
 さらに言うと、日本では「士農工商」とか「武士は食わねど高楊枝」といった言葉に現れているように金銭に執着する姿勢を卑しいものとして蔑む見方があるだけでなく、金を持っていることを公言すれば、投資詐欺から寄付の勧誘に至るまで、ハイエナが群がってくるのは目に見ているので、自己防衛の観点からも年収や貯金をわざわざ開示して見せるのは愚かしいと思う。

2 また、学歴についても同じような事が言える。以前、東大を出た友人と話をしていて、印象的だった話を書いてみよう。

 「東大を出て何が嫌かって聞かれたら、それはもう会う人会う人に「東大って凄いですね」と言われる事だよ。その文句が出るたびに、いっそ「そうでしょう。僕って凄いんですよ」と返したくなるけど、実際にそう返せば彼らがムッとするのが分かり切っているから、謙遜でもなんでもなく「いやあ、そんな大した事ではありません」と義務的に答えさせらる羽目になる。毎回同じ型を演じさせられるくらいなら、いっそ学歴の事は話題にしないで欲しい」と。
 東大を出た別のある人は、「東大に通るというのは、単にテストで点を取る能力が高いというだけで、それが人格的に優れているかどうかとは全く関係がない」と言い切っていた。
 
 彼らの話には一理あると思う。東大を出た人に対して「凄いですねえ」という人は、本当は東大に合格する事がどれだけ大変なのか「分かっていない」だけでなく、「分かる気もない」。そして、東大に通るか否かは入試の得点だけで(基本的には)決まっているはずだから、東大に入った、あるいは、東大を出たからと言って、彼(ないし彼女)が人格的に優れている事を保証するプロセスはそこには存在しない。
 「東大って凄いですねえ」と問いかけた人が、「そうでしょう。僕は(私は)凄いんですよ」という返事が返ってくればムッとするというのは、そうした問いかけをする人々は東大出の人々に対して謙虚さを求めているというより、反転した形ではあるが、「人間としては(問いかけをした)オレ(ないしワタシ)が優れている」という風に誇示したいという承認欲求が隠されているように見えてならない。

 東大に入学する人は毎年2000人程度いるはずだから、大谷翔平選手と比べるとレアリティはぐっと下がるが、「東大って凄いですねえ」という問いかけは、大谷翔平選手に「貴方は野球が上手いですねえ」と問うのと本質的には・・・極端な例ではあるにせよ・・・変わらないと思う。

3 さて、一見するといかにも「マウンティング」の材料となりそうな「財産」と「学歴」について見たが、こうした経済的・社会的価値を有している人々が、実際にそれを使って「マウンティング」した事例を私は見たことがない。その理由は、これまで述べてきた内容のまとめになるが、彼らは「マウンティング」する必要性を感じていないからである。むしろ、そうした価値を手にしている人ほどそれを用いて「マウンティング」する事のデメリットが大きいと分かっているのだろう。
 
 そう考えると、材料は何であれ他者に対して「マウンティング」しようとする人々は、本当はその材料について自信を持っていないという事が推察される。
 「マウンティング」する人のメンタリティとして「承認欲求が高い」事が挙げられるそうだが、自分に自信がある、あるいは、生活が安定して現状に満足していれば、いくら「承認欲求が高く」ても、他者に対して「マウンティング」する人はそうそう出てこないと思う。
 誰であれ他者に「マウンティング」する人を見ていると、「彼(ないし彼女)」は自分に自信がないから虚勢を張っているだけだ気と付くようになってからというもの、私は彼らをおかわいそうな人だと思って接している。

4 ヒクソン・グレイシーは「人生で大切な事は全て柔術から学んだ」と語っている。ヒクソンは柔術に一生を捧げたから、結果的に「柔術から人生で大切な事を学んだ」だけであって、人生に大切な事を学ぶ機会は誰でもいつでもどこにでも転がっているだろう。

 ただ、私も柔術から学んだ事がひとつある。それは、「(相手の)マウントを取るより、マウントをキープする方がはるかに難しく、マウントを取るより、マウントを取られてディフェンスする事の方がはるかに簡単だ」という事である。

 「マウントを取る」ために必要な技術を習得するのに掛かる時間と、「マウントを取られて」そこで「サバイブ」するために必要な技術を習得するのに掛かる時間を比べれば、習得すべき技術がはるかにに少ない後者の方が前者より圧倒的に短時間で済むはずである。そして、「マウントを取る」事にはセンスも必要になってくるが、「マウントを取られ」て「サバイブ」する事は、ちょっとした「守り」の意識付けと慣れさえあれば誰でも必ず出来るようになる。

 日常生活でも同じことで、他者に「マウンティング」するには・・・トライしたことがないので想像でしかないが・・・相当な時間と気力が必要になるはずである。そんな下らないことに付き合って「マウントの取り合い」をして疲弊する位なら、私は相手にさっさと「マウントを取らせて」、適当にあしらう方を選ぶ。「マウンティング」する人々は、いずれ自滅する。そのミスを待てばよい。

「マウンティングは、相手を強く意識することからも生じると考えられるため、マウンティング行為に対して反抗的、あるいは対抗するような態度をとることは、相手からのマウンティングをエスカレートさせることもある。そのため、マウンティングをされたときは、 不用意に応じないことが、行為を回避することにつながると考えられる。」と、新語時事用語辞典の「マウンティング」項目の末尾に書いてあったが、私も全く同意見である。

 とりあえず、私は他者に「マウンティング」する暇があったら、その時間をもっと己を高める事に使いたい。人生は有限である。時間と労力は効率的に使いたいものだ。
 
 
 

この記事が参加している募集

#お金について考える

37,802件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?