万人のための柔術上達法-サウロ・ヒベイロ『柔術大学』に学ぶ―

1 私がブログを書き始めてはや一月が過ぎた。書き出す前は「所詮は自己満足のための文章だから、わざわざ時間を割いて自分の文章を読んでくれる人などいないだろう」と思っていたので、「自分の書きたい事を書く」「柔術(古流・BJJを含む広い意味で)を素材に、人間社会に生起する様々な事象についてこれまで考えてきた事を形にしたい」と決めていた。そのスタンスはこれからも変わらないと思うが、予想に反して意外と多くの方がこのブログに目を通し、フォローして下さる方まで現れたので、書き手としては望外の喜びであった。

いつも拙稿を読んで下さる皆さん、ありがとうございます。自分でも文体がこなれていない、意を尽くせていないと感じる事がしばしばですが、鋭意向上に努めて参りますので、今後共お付き合い頂ければ幸いです。
 
 さて、これまで私が書いた論考の中で、圧倒的に閲覧数が多かったのが「サウロ・ヒベイロの教え―柔術の上達に関するマインドセット-」だった。確かにサウロ・ヒベイロの『柔術大学』を読んだ事が、私がBJJを続け、それ以降の柔術に対するスタンスを決定付けた体験であったため、今読み返してもかなり「力の入った」文章になっているのは事実である。おそらくは、閲覧された方の多くはBJJを練習していると思われるので、今回は『柔術大学』から柔術の上達に関するサウロの考え方の一端を読み解いていこう。

2 EGOを手持ちの英和辞書で引いて見ると、「(哲学用語としての)自我」と「うぬぼれ」という二つの意味が書いてあった。本稿で扱うのは「うぬぼれ」の方である。サウロがEGO(うぬぼれ)について語っている箇所を以下に引用する(拙訳はご容赦頂きたい)。
 「エゴ(うぬぼれ)は、柔術で高いレベルに到達しようとする際に最大の障害になる。 自分がどれだけ周りにカッコよく見えるかを気にするのは人として自然なことだが、柔術の上達のためには自分がカッコよく見えるかを気にするのは良くない。カッコつけるな!君が失敗しているのを周りの人々が見ている事なんて大したことじゃない。大事なのは自分が練習する事だけだ。
 子供のような心で柔術を練習しよう。 子供の学習曲線があれほど加速する理由を考えたことはあるかい? その理由の一部は、エゴ(うぬぼれ)よりも楽しむことに関心があるからさ。子供のような素直さで練習してみよう。
 今日、すべての白帯が君ををマウントする。 明日、誰もが君をアームバーで捕まえる。 実力が上の会員が自分よりも技量の劣る相手にタップしてあげるのをどれだけ見たことがあるかな?それを行う人はほとんどいないけど、これはすべてエゴ(うぬぼれ)のせいさ。」(Ribeiro, Saul; Howell, Kevin. Jiu-Jitsu University (p.13). Victory Belt Publishing. Kindle 版. )
 サウロはエゴが柔術の上達の最大の障害になる。柔術の上達のためには「慢心を捨てること」「赤子のような素直さで練習に取り組むこと」を要求している。このような考え方は柔術に限らず、「物を習う」という事一般に当てはまるのではないだろうか。
 その上で、柔術とエゴの関係について、サウロは次のようにも語っている。
 「柔術は負けを受け入れ続けなければならない唯一の格闘技だ。 その瞬間、別の男が自分よりも優れていることを認識しなければならない。男にとって、これは受け入れ難い事だろう。 非常に難しいかもしれないが、別の男が自分よりも優れているという事が頻繁にあるということを理解しなければならない。私は、君がそれを知るのがストリートではなく、道場内である事を望んでいる。
 だから、私はアカデミーでは学びの場としてトレーニングをしたり、タップしたりしている。私自身は競争心の強い人間だったが、自分のエゴ(うぬぼれ)もチェックする必要があった。他人と競い合うためではなく、学ぶためにアカデミーにいることを思い出すように努めていた。 他人と競い合う時は必ずやってくるけれども、道場がその場になることはほとんどない。
(中略)
 タップは、特に帯が上の者が下の者にタップすることは難しい。
 柔術はサムライの技である。サムライとしての君の仕事は、君の知識を下の帯の者に伝えることだ。紫帯の仕事は、自分より下の者に優しく接することだ。それによって、彼は気分よく練習出来るし、彼が自分でその進歩を実感ようになるからだ。彼が進歩を感じるのは、彼があなたに向かって来る(噛みついて)くる時だ。彼の進歩は君のおかげなので、これは良いことだ。したがって、君は下の帯の者と争う必要はない。君は彼らを導いてあげよう。
 重要なのは他の会員を導いてやることであり、己の優位性を維持するために彼らと争うことではない。」
 実際、私の通っている道場でも、自分のサディスティックな欲求を満足させるために自分より下の帯とだけスパーしてタップを取っては喜んでいる会員もいた(もう辞めてしまったが)。それとは反対に、自分より下の帯でも自分がタップを取られそうな相手とは一切スパーをしないで、自分と仲の良い特定の人々としかスパーしない人もいる。
 こういう人々はどこの道場・アカデミーでも一定数いるのではないかと思うが、そういう練習を繰り返していても、自分より技量が上の相手とも向き合わなければ自分の欠点を見つめ直す事も出来ないし、スパーの相手が固定されれば練習がマンネリ化して、技量が伸びる事も次第になくなってくるのではないかと思う。特に特定の人としかスパーしないというのは、技術的な偏りが長期的には人間的な偏りに転化していっているように見えてならない。彼らは弱い相手に勝つ「自分」が好きなのであって、「柔術」が好きなのではないのだろう。だから、自分が勝てなくなったら辞めて行くのだろうと思う。
 エゴ(うぬぼれ)が初心者にとっても有害だというのは私の個人的経験から言っても首肯できる。春になると陽気に誘われて根拠もないのに「俺様は強い」と思っている人々が道場にしばしばやって来る。そういう人々は、ドリルの際には私の言う事を「ハイ!ハイ!」言って聞いているが、いざスパーの段になると「一丁このオッサン揉んでやろうか」という気満々で向かって来る。
 私は人間としての器が小さいので、彼らのそういう気を読むとイラっと来て(個人的にはあまりこういう俗語を使いたくないのだが、「憤慨」とかいう程激しく怒るわけではないので、「イラっ」というのが表現としては適切かと思う)、足を極めたらその後2度と来なくなったという事がこれまでに3回ほどあった。私はよほど傍目に弱そうに見えるらしい。いや、実際弱いのだから仕方ないか。

3 上述した話は柔術の上達という観点から見たエゴの有害性を述べたモノだが、サウロの言う「エゴ」が「物を習い、上達する」という事一般にとって避けるべきであることは内田(樹)先生の次の話からも伺えよう。
 「僕の師匠は多田宏先生という方です。以前先生から「他人の技を批判してはいけない」と教えられました。僕はそのときはまだ若くて、先生の意図がよくわからなかった。口には出しませんでしたけれど、「他人の技の欠点に注目するのは有用なのではないか」と内心では思いました。先輩の技を注視して、あの人はここがよくない、あの人はここが優れている、この道場では誰それさんがやっぱり一番うまい、あの人は段位は高いが技術は劣るとか、そういうことを同門同士で論じあってもいいんじゃないかと思っていたからです。それが修業の役に立つと思っていた。
 たぶん僕が得心のゆかない顔をしていたからでしょう、先生は僕の方を見て、「他人の技を批判してうまくなるのなら、俺も朝から晩まで他人の技を批判しているよ」と言って笑って去っていかれた。そのときの先生の言葉が今でも心に残っています。・・・(中略)・・・
 兵法者の心得として、まず勝敗を争わないこと、強弱にこだわらないことと書いてあります。修行の第一原則がこれなんです。相対的な優劣にこだわってはならない。それは自分の力を高めていく上で必ず邪魔になる。勝てば慢心するし、負けたら落ち込む。そんなことは修業にとって何の意味もありません。修業というのは、毎日淡々と、呼吸をするように、食事をしたり、眠ったりするのと同じように、自然に、エンドレスに行うことが肝要なのです。だから、修業には目標というものがありません」(内田樹『サル化する社会』p210~211。この多田先生と内田先生のやり取りは内田先生の他の著作にも頻繁に登場する。興味のある方は内田先生の『修業論』を読んで頂くといいと思う)
 内田先生も言われているように道場内で「どちらが強い弱いか?」と言った相対的な優劣を競っている限り、その人は胃の中の蛙と同じである。強い人は道場の外にいくらでもいる。それを確かめるために試合がある。自分のエゴを見つめ直すのに試合は有用だと私も思う。
 だが、それ以上に他人とわが身を引き比べて競い合うのは止めた方がいい。稽古は自分のためにやるのであって、他人のためにやるのではない。今いくら練習しても実力が伸びないで悩んでいる人がいるとしたら、その悩みを抱えて稽古を続けていれば、いずれふとしたきっかけでブレイクスルーが起きて飛躍的に伸びる日が来る。いつブレイクスルーが起こるかは事前には分からないし、実力の伸び方は人それぞれである。最初から稽古量に比例して伸びる人もいれば、長い停滞の後爆発的に伸びる人もいる。だから、一度何かをやろう!と決意したのなら、途中で投げ出さないことが肝要だと思う。
 「スラムダンク」という漫画で安西先生が「諦めたらそこで終わりだよ」と語るセリフは一昔前まではあちこちで引用されていたが、その言葉の重みは今も変わっていない。何も仕事を捨て、家族を捨てて稽古せよと言っているのではない。そうではなくて、エゴを捨て、自分のペースでコンスタントに稽古を続ける事、それが一番大事だと私は言いたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?