セクシー女優

1 最近「セクシー女優」という言葉をよく目にする。ジェンダー論者からの批判を怖れずに述べるなら、一昔前には「女性的な魅力に溢れた女優」という意味だったと思う。それが今では「AV女優」の事を「セクシー女優」と表現するらしい。
 「AV女優」も、もっぱら「セックス」(ここには、「性別」と「性行為」の二通りの意味が含まれる)を売り物にした女優である事に変わりはく、これを「セクシー女優」と呼ぶ事が日本語として間違っているとは思わない。ただ、「AV女優」を「セクシー女優」と言い換えるようになった社会的背景については興味があったので、本稿では香山リカ・北原みのり著『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』(イースト・プレス刊)を読んだ感想を書いてみたいと思う。
 
 フェミニストは、判で押したように「性の商品化は女性差別につながるから悪いことだ」と言う(「言った」という過去形が正しいのかもしれない)。性の商品化が女性をモノ化し、その尊厳を傷つけるという話は分かる。というより、このロジックに正面切って反論するのは難しいと思う。
 ただ、「性の商品化は女性差別につながるから悪だ」という命題からは、当然に「性を商品化して働いている女性達(=セックスワーカー)も悪だ」もしくは「セックスワーカーは、フェミニズムの観点からは啓蒙されるべき知的・道徳的に劣った存在である」という帰結が出てくるので、「性の商品化=悪」という図式を説けば説くほど、セックスワーカーへの差別を助長する結果になる事にフェミニスト達はどうして気付かないのだろう?と私にはそれが昔から不思議でならなかった。
 実際、同書の54頁で北原氏が述べているようにフェミニストがそうした逆説に気付いたのはここ最近の事らしい。

 だいぶ前の話になる。私の同級生が病気で仕事が出来ず、彼の奥さんが一人で働いて生計を立てていた。彼らには子供もおり、普通に考えれば生活は楽ではなかったはずなのだが、たまに彼の家に遊びに行くと、毎回高額のワインで私をもてなしてくれる。
 当時の私は(今もあまり変わらないが)お金がなかったので、彼の家に行く時は奮発して3000円超のワインを持参したが、彼が出してくるワインはその数倍の値段である。最初は彼の実家が金持ちなので、そこから支援があるのか?と思っていたが、どうも財布の出所は奥さんの稼ぎらしい。

 何か裏があると思っていたら、半年ほどして奥さんは彼に内緒で風俗で働いて、そのお金を彼に上納していたという事が分かった。奥さんからその話を聞かされた時に、私は「そこまでして稼いだお金をなぜ夫の遊興費に充てる必要がある。貴女に今の仕事を辞めろと言う資格は僕にはないが、その金の使い方はおかしい」と指摘すると、「そうしないと(彼から)殴られる」という事らしい。「そんな夫なら別れた方がいいじゃないか?」と問うと、「私がいないと彼がダメになってしまう」と返されてしまった。
 漫画のような問答だったが、これ以上彼らに関わると私も破滅すると思って、爾後彼らとの付き合いを断った。今彼女が何処で何をしているのか私は知らない。

2 私と風俗嬢との接点は今に至るまでこれだけなのだが、「セックスワーカーは自らの意思でその仕事を選んでいるのだから、彼女らの自己決定と主体性をもっと尊重すべきだ」「売る方も買う方もお互いに自由意志で契約を結んでおり、誰にも迷惑を掛けていない(から、売買春に問題はない)」という自己決定論に基づくフェミニズムへの反論も説得力がない。

 そもそも、自由意志に基づく自己決定という考え方は、ある種の理想でしかないと思う。「親ガチャ」という言葉もあるように、人間は生まれによってかなりの程度、その後の人生を決定付けられている。そして、好むと好まざるとに関わらず、自分が生得的に置かれた家庭的・経済的・社会的環境に疑問を感じなければ、自己決定の契機を意識するまでもなく、死ぬまで主体的に生きるという事はないと思う。主体的に生きる人の方がそうでない人より素晴らしいとか幸せだという意味では無論ない。むしろ、主体的に生きようとして、生得的に置かれた環境を覆そうと苦労するくらいなら、最初から主体的に生きる事を放棄した方がかえって(余計な苦労を背負わずに済むので)幸せな人生を送れるかもしれない。

 自由意志に基づく自己決定という考え方からは、人間には誰しも自由意志があり、その気になればいつでも自己決定する機会が与えられているような錯覚を受ける。しかしながら、現実に人が自己決定の契機を意識し得るのは、年齢的にはある程度精神的に成熟して以降の話であり、しかもそれを意識できるかどうかは相当に偶然に左右されている。
 自分の生得的に置かれた環境に対する疑問を感じる事によって、初めて主体的に生きる、ないしは、生の自己決定という契機が生まれるのだとすれば、人はそうした契機が与えられるまでは誰しも「主体的に生きていない」。自分の意思で人生を主体的に生き、その結果に対しても自己責任を負うというのは、実はそうした契機が与えられた後の選択についてしか当てはまらない。
 生得的に置かれた環境については自己責任を問いようがないし、自分の意思で人生を主体的に生きる事が誰でも可能なわけではない。まして、主体的に生きようと思っても、そうした決意をする迄に自分の周りには自分の意思では動かしがたい現実という壁が既に構築されていて、それを覆そうとするだけで一生が終わってしまう人の方がもしかすると多いかもしれない。
 
 私の見聞した事例に限らず、おそらくは意に沿わない形でセックスワーカーとして働いている女性は数多くいると思う。そうした女性達を「性を商品化し、女性差別を生み出す悪の源泉」と見る旧来のフェミニズム言説には賛同出来ない。これとは正反対に、セックスワーカーの女性達の自己決定が本当に自由意志でなさたものか?を問わず 、その行動を一律に自由意志でなされたものと擬制し、彼女らが置かれた環境要因による強制がなかったかのように語る自己決定至上主義も誤っていると思う。

3 その意味では、北原氏が「セックスワーカーの置かれた現実」に照らして、自己決定至上主義を批判するのは正しいと思う。だが、彼女はセックスワーカーに寄り添うあまり、「セックスワーカーの置かれた現実」について、男性が彼女らの過酷な現実に対する「想像力が足りない」と批判するのは無理筋だと感じている。
 「人間は自分の経験した延長線上でしか想像できない」という事を山本七平から私は学んだ。もし山本のその認識が正しければ、「セックスワーカーを経験した人でなければ、彼女らの過酷な現実を想像できない」はずである。

 もし、北原氏がそうした「セックスワーカーの置かれた現実」に対して、男性読者に対して、同書の読書経験を通じて、もっと想像力を逞しくして、それについて考えて欲しいと訴えるならば話は分かる。だが、北原氏の結論は「想像力が欠如しているなら、この問題はスルーすればいい」となっている。彼女が変えたいのは、想像力が欠如している人間が大多数を占める社会の有り様ではないのか?それにも関わらず、彼女が抱える問題意識を訴える相手に対して、「この問題にコミットするな」と言うのでは、社会の有り様を変える事は不可能だろう。
  だから私は、『フェミニストとオタクはなぜ相性が悪いのか』を読んで、とりわけ北原氏に対して、この本を通じて読者に何を訴えたいと思ったのか?全く分からなかった。

 あくまでも私の予想でしかないが、「AV女優」を「セクシー女優」と呼び変えるのは、(古い)フェミニズム言説に対するアンチとして、セックスワーカーの尊厳を守ろうという自己決定至上主義から生まれた発想に起因しているのだと考えられる。
 だが、「AV女優」を「セクシー女優」と呼び変えただけで、彼女らの置かれた状況が変わるわけではない。もっと言うと、先日新聞で読んだ記事によると、最近はネットの海賊版のせいでAVそのものの売り上げが激減しているそうである。
 私がAVを購入すれば、「セクシー女優」を救う事が出来るのか。それとも、AVは「性の商品化」であり、女性差別になるからより良い社会の実現のためには、AVを「見ない・買わない・コピーしない」等の3ない運動をすればいいのだろうか。
 とりあえずは、問題が問題である事を知る事が出来るという点においては、この本を読む価値はあるかもしれない。

この記事が参加している募集

読書感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?