神とは人間社会を回すための道具に過ぎない

以前の記事接客業を経験しての「お客様は神様だ」への異論にて、自分は「神様なんぞよりも人間の方が大切」という考え方であることに触れました。

主流となっている物からカルトまで、宗教においてはそれぞれ崇拝される神が存在するものが多いです。ですが仏教や儒教のように「偉人の言行をまとめたもの」が主であるものもあります。

自分は「本来の宗教」を「教祖が率いている社会を生きながらえさせるために人々に広める教え」と考えています。これだけを書くと「なら神とか崇拝とかは必要ないんじゃないか」とも思われるかもしれません。ですがそれは現代に生きる我々だから抱く感覚であり、古代の人々にとっては人間より上位の概念が必要だったのではないかと考えています。

科学が発達して大抵のことは調べれば答えが出る時代に生きている我々とは違い、既存の宗教が生まれた時代は文字の読み書きすら貴族等限られた人間の贅沢品だった社会です。厄介ごとに答えが見いだせず神様のせいにでもして片付けるのはやむを得ないことだと思います。

例えば口減らしを想像してみましょう。備蓄されている食料の量に対して、暮らしている人口が多い。次の収穫までの期間をどうやって凌ぐか。限られた人数を殺して残りで生き残るか、殺すことを躊躇い全員で飢える状況をみすみす作るか。飽食の時代に生きる我々の善悪では測れない世界がそこにあるのです。そしていざ口減らしを決断しても、誰を死なせるか。仮に死なされる側に選ばれたとしたら、その人は「なんで俺が死ななければならないんだ」と抵抗することでしょう。そういう時に抑え込む「人間よりも上位の概念」が必要だったというのもパターンの一つでしょう。

世界中を探せば神の崇拝や信仰が必要になっていった流れはもっといろんなパターンが見れると思います。信仰や崇拝の対象が必要であるが故に生み出されたのが神であり、間違っても「最初に神様が天地を開闢し~」みたいに神が先に来るものではないのです。便宜上人間よりも上位の体をしていますが、本来は神の方が社会を維持するための道具に過ぎないのです。

そして話は現代に戻ります。それまでは必要であるが故に神の信仰を大事にする宗教が生き残ってきました。ですが今は調べたいことがあれば図書館に赴く必要すらなく、手元の板切れ一つで調べられる時代です。そこに映し出された文字を読めるよう、多くの人に教育が施されています。それだけ状況が変わり環境が変わり、果たしてこのまま宗教が必要な時代は続くのでしょうか。

欧米では「宗教は必要」の考え方は根強いらしく、何度か「定期的に教会に通う人は全体的にこの程度幸福で~」といった説明をする話を目にしてきました。しかし幸福の求め方は人それぞれであり、自分のようにゲームや漫画に求める人間もいます。或いは自分は好みではありませんがプロスポーツに求める人も沢山いるみたいです。先日は「スポーツはゲームや漫画と一緒」と説明しましたが、宗教もその水準まで向かう日がもういい加減来ているのだと思っています。試合に熱狂してフーリガンと化するのと同じように、宗教に傾倒して破壊行為に走ることを語られるべき時代だと思います。この前の話の延長で「宗教はスポーツやゲームや漫画と一緒」という時代になっていると、そう考えています。

尤も、こういった話は説く場面を気を付けなければ「他人の嗜好を阻害する」ことに繋がりかねないことがあるので、野放図に語ればいいわけではないというのは頭に留めておくべきだとは思いますが。

自分も今書けるものを書くに限られている身、不勉強があるかも知れません。何かございましたら遠慮なく下のコメント欄から送っていただければと思います。日常用の趣味も交えたごった煮のツイッターの方でも構いません。忌憚なく意見をいただければと思います。

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