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相対的な存在としての自分

人は、他人や社会との関係性のなかで、自己を確立している。
自己紹介をしてくださいと言われたら、名前、所属(会社とか学校)、趣味とかそんなところを話す。ここに絶対的なものは存在しない。


記号的存在 

まず、名前について考える。
人が何かを考えるときや誰かとコミュニケーションをとるとき、言語を介する。(動物と同じように本能的に動く場合は除く。)

社会で生きている以上、その社会で通用する言葉でやり取りする必要があり、言葉は記号化されているといえる。太郎とか、ジョニーといった固有名詞も記号である(そうでなければ誰にも理解されない)ため、その人に唯一のものではない。自分の名前は自分の唯一性を証明することにならない。僕の名前が田中太郎だとして、あなたがそのひとであることを示せと言われても、むつかしい。田中も太郎も、この世界で通用する名前の一つであり、ある意味普遍的であるため、絶対的なものではない。ただ、あまりよくわかっていない。

わたし

鷲田清一の『じぶん・この不思議な存在』で、「わたし」について考察されている。

同一のこの「わたし」という指示対象は、たえず消えゆくもの(ことばの秩序のなかに入る前の原初の絶対的な固有性、ただしこれもことばを介してそういうものとして事後的に意識されるようになるのだが)とそのことではじめて生まれくるもの(「わたし」ということばを媒介として可能になったじぶんの固有性)との位相差のなかで、(中略) その効果として発生するにすぎないのではないだろうか。

ここでは、ふたつの固有性が議論されている。絶対的と相対的である。絶対的な固有性とは、ことばという記号の秩序に取り込まれる前の、つまり普遍的な言葉で表される前の、完全な唯一性である。相対的な固有性とは、わたしということばによって初めて規定される自分の唯一性である。この二つの固有性の違いによって、わたしが指示されていると鷲田は指摘している。

ただ、わたしが、ことばによってしか規定できないことから、わたしには普遍性が認めれており、個としてのわたしはすでに死んでいる。

意味としての「わたし」は不死であるが、しかしそのとき、固有の存在としての<わたし>はもはや死んでいる。

わたしは、話者をさす一般的な言葉であり、私が話すときのわたしは私を指し、あなたが話すときのわたしは、あなたを指す。わたしに唯一性などないのである。そうだとすると、わたしであるというとき、個としてのわたしは失われている(死んでいる)のであって、そもそもわたしは、存在しないのかもしれない。固有性をもった絶対的なわたしはいなくて、ことばによってかろうじて規定されている、状況や文脈によりいくらでも変わりうるものとしてのわたし、相対的なわたししか存在しない。

「である」と「ではない」


自分を規定するときに、自分が属している組織や自分が興じている趣味を挙げることもある。僕は、やまだ家の一員で、○○高校に行っていて、はたまた京都府民で。趣味は、スキーで、ひごろは観葉植物を育てている。これはこれで結構だが、これで部分的に規定される自分も、相対的なものに過ぎない。

ある家族である⇔ある家族ではない
○○高校の生徒である⇔○○高校の学生ではない
京都府民である⇔京都府民ではない

スキーが好きだ⇔スキーが好きではない
観葉植物を育てていない⇔観葉植物を育ててはいない

ある組織にいるとき、私たちという。weである。私たちというとき、意識するしないに拘わらず、あなたが想定されている。人が所属している組織は、他の組織との対比で初めて成り立っており、相対的な存在である。さらに、プロ野球では、チームごとに争うが、WBCでは、日本が一丸となって戦う。組織とは、それほど流動的なものである。そこに所属している個人もまた、相対的で流動的な存在である。

趣味でもそうである。何かが好きであるとき、何かが好きではない状態が想定されている。山登りが好きであるというとき、純粋にそう感じているというよりは、山登りが好きな自分が好きなのではないかと考えている。山登りを別に好き好んでしない人を仮想敵として優越感に浸っている。他者との差別化としての趣味という一面もあるように思う。

内と外は差別でも

内と外、自分は他の人とは違うのだという意識は、差別に顕著に表れる。仮に、電車内で誰かが突然叫んだとする。そのとき、誰もが嫌悪感を抱くだろう。と同時に、その人を自分とは違う人だと境界線を引いて、自分はまだましだと思い込む。叫んでいる他者を用いて、自分の正当性をかろうじて作り上げる。

こうした差別による自己規定は、ネガティブなものだけではない。自分より賢い人と話しているときに、あなたは僕より賢いからね、と境界線を引く。褒めているようにしか見えないが、褒める差別だって存在する。相手を自分より上に置くことで、自分を卑下している自分というかたちで、自分を規定する。悲劇のヒロインに似ている。

自己言及の罠

他者と比べて境界線を引くことにより、自分を規定している面がある。状況や所属する集団により、自分が何者であるかが相対的に変化するほど、自分という存在は、脆く流動的である。

こういった脆い自分をあまり追及しない方がいい。自分を自分の中に探すのは、あまり得策ではない。張り紙の禁止の張り紙が好例である。「この場所に張り紙するべからず」という張り紙は許されるのかという話。自分が何者かを内側に求めすぎると、何かと矛盾が生じる。他者との関係性に自分が規定されることを考えれば、その関係性を変えることの方がよかったりする。

じぶんと環境の相互作用

じぶんという存在が固有でもなく、確立されているものでもないとすれば、どのように規定されるのであろうか。

先に書いたように、他者との関係である。広くとらえると、社会との関係性である。家族や学校組織、会社、国など様々な組織の中に組み込まれて存在しており、その中でアイデンティティを確立している。

物理的な存在としての自分とは別に、社会の中の無形の存在としての自分もいる。今ここにいなくても、親や友人の顔は思い浮かぶし、その逆もしかりである。自分がなくなった後でも、自分が残した文章や作品、思い出で、他の人が忘れなければ、亡くなってもなお存在しているといえる。オカルトのように聞こえるが、それほど無形としての自己は曖昧なものである。

社会の一部として自分が存在している。このとき、社会と自分は相互に作用しあう。自分が属している環境の影響を受けつつ、自分もその環境に影響を及ぼしている。自分の変化により、周辺の環境を変えていく場合もある。ただ、自分→社会の変化より、社会→自分の変化の方がダイナミックだろう。

自己の再規定

自分をどのように規定するかを考えるとき、自分を取り巻く環境を変えるのが得策な場合もある。朱に染まれば赤くなるといわれるように、案外他の人の影響は受けやすいものだ。

周りの人が、店を出るときにごちそうさまと言っていれば、自分もいうようになる。他の人の口癖も、良くも悪くも伝染する。

今の自己の状態に不満があるのであれば、自分を変えるよりも、人間関係を見直す方が有意義かもしれない。苦手な人とは距離をとったり、逆に今までしたことのない趣味に手を出して新たな人間関係を築くことも考えられる。

なにはともあれ、自分ってよくわからない。





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