見出し画像

アマゾンの木は本当に倒れているのか

自分の意識は世界とどのように関係しているのだろうか。自分が見ていないものは、本当に存在しているといえるのだろうか。


ゲームの中

僕たちは、誰かが操作しているゲームの中で動いている可能性がある。ゲームの中では、操作しているプレイヤーが動くのに連動して、世界が構築されていく。つまり、プレイヤーがいないところには、存在していない。この世界でいえば、僕にとって存在しているのは目に見えているものだけであり、例えば、富士山を見ていないければそれは存在していないことになる。

さすがに、これは極論のように思われる。見えているもの以外存在しないという理論は、その人にしか主軸に置いていない。他の人には見えている可能性があり、つまりこの世界に存在していることになる。ひとりに見えていなくても、他の人に見えているものも存在しているのであれば、この世界全体で見れば、たいていのものは存在していることになる。ただ、誰も見ていないアマゾンの木は、本当に見えているかが怪しい。

誰かの頭の中

この宇宙がどのように誕生し、どのように機能しているのか。ビックバンは無の状態から生じたといわれているが、そんなことがあるのだろうか。誰かの頭の中で宇宙が生まれて、その人の頭で考えたことが起こっているに過ぎないのではないだろうか。この宇宙全体を解明しない限り、この理論が机上の空論であることを否定できないのではないだろうか。まあ、空論だろうけれど。

イデア論

プラトンは、われわれが見ているのは、洞窟に移された影に似ていると考えた。生まれたときから洞窟に縛られた子どもは、外の太陽の光でできた影を現実のものだと感じるが、それは、生まれたり消えたりする不完全なものである。われわれにも、同じことが言えて、現実のものは不完全であり、イデアという完全な世界の影に過ぎない。りんごを考えたとき、私は、赤く熟したおいしそうな果実を想像するが、青森県民は、具体的な品種を想像するかもしれないし、理科的にどのような科に属してどのような特徴を備えているのかを考える人もいるかもしれない。どの心象も間違ってはいないが、そうかといって正解でもない。完全なりんごは想像できない。人間というフィルターを一度通している以上、この世界は不完全なものである。仮に見えているものでも、それが真実とは限らない。

いまのところ

とりあえず今のところは、アマゾンの木は、見えていなくても倒れているだろうと思う。ただ、それは、想像に過ぎない。見ないと分からない。ただ、イデア論のように、たとえ目視できたとしても、それが真実だとは言い切れない。この世界は不完全ながら存在しているといえるが、この考えも不完全である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?