「シン」の系譜3-1
凡人に帰ろう
さまざまな言葉に添えられるようになった明治時代の「新」は、ほぼ接頭辞と化していた。旧来の「俳諧」を改めて「俳句」の語を創作した正岡子規は、さらに接頭辞の「新」を継ぎ足し、芭蕉を超えた「新俳句」「新派」を目指すべきだと提唱していた。その著『俳句問答』では、しばしば「智識」に訴える旧来の「月並俳句」を批判し、「直接に感情に訴へんと欲」する自身の作風を「新俳句」と称していた。明治時代の文芸における「新」の流れが、俳壇にも発揮された事例だった。
江戸時代の蕉門で発達した俳論がそうだったように、字数の少ない文学作品は「新」に次ぐ「新」という回転の速い創作が成り立ち、絶え間ない「新」の在り方が意識されやすかった。そこからいち早く、「新しみ」的な言語感覚が創出されていた。大正時代に活躍した詩人や俳人たちは創作活動の「新」や「真」に向き合い、昭和時代になっても意識され続けている。彼らが書いた文章を個々に取り上げていくと、今日の「シン」に込められている思いは、おおむね出揃っていたように感じられる。
その一翼を担った相馬御風は、明治期から昭和期にかけて幅広い創作活動を展開した。肩書的には詩人で歌人であり、評論家でもあった。むしろ相馬の名は、早稲田大学校歌『都の西北』や童謡『春よ来い』などの作詞者として広く知られている。
早稲田大学を卒業した相馬は、「新劇」運動の先駆者だった島村抱月のもとで雑誌『早稲田文学』の編集に参加している。早稲田大学の校歌は、大学創立25周年(明治40年、1907)を記念して制定された。当初は学生からの募集が企画されたが、これといった作品が集まらなかった。そこで審査にあたっていた坪内逍遥と島村は相馬に作詞を依頼し、依頼されてから10日ほど苦闘した末に書き上げられた。このとき相馬は、まだ25歳だった。
大正時代に入ってから書かれた『新文学初歩』(大正2年、1913刊)では、題名にある「新文学」が本文中でも取り上げられ、「真文学」と対比されている。序文(緒言)では、近年の文学の「進歩」が目覚ましくなり、日本文学史上で初めて「旧」と「新」を区別しなければならなくなったと述べている。それだけ大きな画期が訪れたと認識されていた。
相馬によれば、日本の文学には形式や言葉だけにとどまらない根本的な「革新」が実現していた。従来は自覚に乏しい執筆業だったものが、人間そのものの自覚が鮮明になった。その意味で「新文学」は「真文学」になり、「革新」は「革真」になった。もはや今の文学は「人間生活の切実なる要求」に応じて書かれる、厳粛なものと位置づけられている。続けて題名を「新文学初歩」としたことに改めて触れ、文章の作法や抽象理論などに流れず、直接「新文学即ち真文学の根本生命」に切り込んだためとしている。この頃からすでに相馬は、「新」と「真」のつながりについて自問自答していた。
その『新文学初歩』から3年後、相馬は過去の歩みを振り返った『還元録』(大正5年、1916刊)を書き、若い頃の思想的な葛藤を振り返っている。本書の刊行を機に故郷の糸魚川(新潟県糸魚川市)に帰り、以後は地元に密着した暮らしを送りながら執筆活動に取り組んでいる。
人生の転機をもたらした『還元録』が刊行されたとき、相馬はまだ30代の前半だった。その彼にとって若い頃とは、大学在学前後か卒業後に『早稲田文学』の編集を手伝っていた頃だった。当時の自分たちのような若い文学者の間には、行き場のない複雑な思いを解消してくれる「「新」の観念」が生み出されていた。「何でもよいから「新らしい」ことが、善いとせられた」頃で、究極的には「新は真なり」といった「詭弁」さえ平気で許されるほどの空気が漂っていた、と回想している。
当時の話はしばらく続き、激しい恐怖と嫌悪の念を抜きにしては思い出すことができないと相馬はいう。「新」という唯一の漠然とした観念のもとで、無数の「新人」たちがどれほど取り留めのない言動をくり返してきたか。そうして人びとの心をいたずらに惑わし、言論界をざわつかせるような理論を作り出すのに汲々としていたか。しかも彼らは、その場しのぎをして誤魔化すために「時代の為め」「人生の為め」「真理の為め」を声高に叫んでいた。「懐疑」や「虚無」といった言葉も流行り、自分たちの心を都合よく丸め込むのに便利な言葉だった、と苦々しく告白している。
しばらく後の箇所では、文壇をめぐる特定の事件に触れている。それを契機にして「所謂文芸の為めとか、日本文芸界の為めとか、新らしい時代の為め」といったような、大雑把な考え方に熱しやすかったと振り返っている。自分たちの存在感を際立たせるのに好都合な言葉だったといい、その一端に「新らしい時代」のためといった言葉も含まれていた。
文壇をめぐる過去の事件については明記されていないが、いわゆる文壇照魔鏡事件をさしているように思われる。この事件は、文壇の寵児だった与謝野鉄幹に対する女性問題や金銭トラブル、作品の盗作などを激しく非難した作者不明の小冊子『文壇照魔鏡』(明治34年、1901刊)に端を発する。描写の細かさから、作者は与謝野に近い位置にいた同業者しか考えられず、彼は法廷闘争をくり広げた。しかし結局、真犯人は特定されないまま収束し、後味の悪い怪事件になっていた。事件の2年前の明治32年(1899)、与謝野らを中心に立ち上げられた文学結社の新詩社に、早稲田進学前の相馬が入会し、彼は渦中の人物の身近なところにいた。
その事件をふまえているかどうかはさておき、相馬は現在の心境を語る。自分が求めていた真の方向性が、やっと見えてきた。いわゆる「平凡人」や「衆愚」の中に、自分が「本当に」求めてきたものが存在する。その方向に自分を「還元」していくことが、自分をより良くしてくれるに違いない。だから今後は「衆愚」の幸福な生活の根底にあるものを知り、感化されなければならない、と宣言している。
その手法は、自分がこれまで取り組んできた研究とか発見といった攻めのアプローチではなく、「自ら平凡人そのものと成る」ことによって達成される。「本当に」自分を知ることは、客観的な知識として習得するのではなく、自分にもっとも「平凡な」ものとなることが求められる。つまり「自己を離れて新らしきものや真実なものを探し求めるのでなくして、自分みづから真の自分みづからに帰ることでなければならない」のだった。
自分を徹底的に見つめ直すことが究極の「還元」になり、そうすることによって「新」にも「真」にも迫ることができるという境地に行き着いていた。生まれ故郷に帰ることにしたのも、そういう原点回帰がもとになっていた。過剰な「新」に振り回されやすい都会から物理的に距離を置いた相馬は、創造的な活動を再開するにあたって一から出直す覚悟を決めていた。