「無駄」という言葉で自分を連想した
先日、夫としゃべってる時、彼が「無駄」という言葉を使った。
それを聞いて私は、自分を連想した。
なお、夫が私を「無駄」と言ったわけでなく、ただの無害な雑談だった。話題は覚えていない。
キリスト教では、神から与えられた賜物を用いて、神に仕えなければならない、とされている。
また、すべての人に賜物が与えられている、とされている。
「賜物」とは、ギフトのことで、才能みたいな意味だったと思う。
聖書には霊的賜物のリストが三箇所あります。それらはローマ12:6-8; Iコリント12:4-11; Iコリント12:28です。ローマ12章に書かれている賜物は預言、奉仕、教える事、勧める事、分け与える事、指導、そして慈善です。Iコリント12:4-11に書いてある賜物は知恵のことば、知識のことば、信仰、癒し、奇跡、預言、霊を見分ける力、異言、そして異言を解き明かす力です。Iコリント12:28に書かれている賜物は癒し、助ける者、治める者、異言等です。
20年以上クリスチャンだが、自分に上記の賜物が与えられていると思ったことがない。
教会ではそういう人に対して、「やってみないからだ」と言われることがある。
だから、自業自得っていうことだな、と思う。
こうして、自分は不信仰者だという自責の念が生まれる。
メンタルヘルスに悪影響を及ぼす。
ナンセンスだ。
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