聖霊なる神は常に私の傍らにおられ、私の味方でいてくれる

2024年6月23日 ニューライフキリスト教会 メッセージ『御霊によって歩む 5』を聞いて頭に残ったこと

振り返り

三位一体なる神
それぞれ人格がある
人格的な交わりがとても大切
聖霊なる神の認識にはかなり幅がある。

<聖霊に満たされるという体験>
私が私を支配する、思い通りに生きるという自分への執着を緩めるという目的
聖霊なる神に導かれるため。頑なさがほぐされていく。

聖霊なる神は助け主


助けを受ける必要がある。
心開いてもっと助けを受けるべき。

ヨハネ13:33
十字架の前夜
「私が行くところにあなた方は来ることができません。」
← まさかの別れの宣告
弟子たちは動揺
「心を騒がせてはいけません」

ヨハネ13:34
新しい戒め
私があなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい
← イエスにつき従った3年半、そう言われたことがなかった。誰が一番偉いのか、争っていた。
イエスの愛に接していても、その愛が弟子たちの心にあふれていかなかった。互いに愛し合うようにならなかった。

ローマ5:3-5
この希望は失望に終わることがありません。
神の愛が私たちの心に注がれているからです。

ルカ5:37
新しい葡萄酒は古い革袋に入れたりしない

神の愛を受け止めきれず、もったいない
いつも神の愛を注いでくださる
イエスは3年半、愛を注いだ
最後の晩餐の時も、余すところなく愛を示された。

新しい戒め「互いに愛し合いなさい」という生き方を実践するとき、キリストの愛が私たちの心にあふれてくる。
イエスの愛を独占しようとしているときは、自分の心に愛はあふれてこない

「私たちの日ごとの糧を私たちにお与えください」
「私たちの」と祈るとき、私たちの心の受け皿が広がる。
祈りにほかの人を加える。

マタイ18:20
二人か三人が私の名において集まっているとき、私もその中にいるのです。

聖霊が来られるとき、私たちの心は広がっていく。

ヨハネ13:36
イエス「私が行くところにあなた方は来ることができません。」
4人の弟子たちが反応
イエス「今はついてこれないけど、後にはついてこれる」
ペテロ「なぜ今、ついていけないのですか?あなたのためなら、命も捨てます。」
弟子たちは見捨てられる悲しみを味わった。

ヨハネ14:16
イエス「父はもう一人の助け主をあなたがたに遣わしてくださいます」
神がいつも私たちと共にいてくださる臨在、保証
イエス様はいつも一緒ではなかった。弟子たちは時々イエスを探した。
聖霊はいつも一緒。

聖霊の臨在があるなら、私たちの生き方は変わる。
イエス様が一緒にいてくださるのと変わりない。
イエス様との3年半よりも、聖霊の臨在のほうが幸い。

「私があなた方から離れていくことは、あなた方にとって良いことです」

parakreitos 隣に召される
 1ヨハネ2:1
もし誰かが罪を犯したなら、私たちにはみ父の前でとりなしてくれる方がおられます。
「とりなしてくれる」

ルカ23:34
父よ彼らをお許しください。彼らは自分が何をしているのかわかっていないのです。

聖霊なる神が隣に召されたという意味は、
あなたがどんなことをしても、どんな状態になっても、神はいつもあなたの味方。
それが私たちが必要としている助け。

あなたの隣に立って、神にとりなしてくださる。

ローマ8:31
神が私たちの味方であるなら、誰が私たちに敵対できるでしょう。

いろんな人に責められるとき、神様も責めているような気がするが、そうではない。神様は味方。

隣に寄り添ってくれる聖霊は、神様が常に味方であることを教えてくれる。

そういう聖霊の助けに心を開きたい。

聖霊が寄り添っている人に、私たちも敵対できない。裁きあえない。

裁きは神にゆだねて、敵対しない。

私が悪いことをしても、神様は味方。
聖霊がとりなしてくださる。
十字架の贖いによって許されている。
祈れない時も聖霊がとりなしてくださる。

感想

弟子たちは3年半もイエス様と一緒にいて愛されていたのに、互いに愛し合うようにならなかった、というのがわかるなあ!と思った。

何十年クリスチャンやってても、互いに愛し合うようになれず裁きあってしまうのを、見たことも聞いたこともないっていうクリスチャンはいないと思う。

裁かれたらまた、裁いてきたクリスチャンを憎んでしまう。

長年私を無視している牧師夫妻に今度会ったら、なんて言ってやろうと考えたりする。

あの態度を許しておられる神様はいったいどういうおつもりなのか、と不信感を持ったりする。

しかし、聖霊なる神様はいつも私の傍らにいて、私を神様にとりなしてくれる。神様は私の味方だと豊田牧師を通じて言ってくれる。

話は変わるが、四面楚歌は本当に恐ろしい。社会的に死ぬのは恐ろしい。私に非がなくても、家族が問題を起こすと社会的に制裁を受けるのが恐ろしい。
そんな時でも、私の傍らには神が立ち、神様が私の味方でいてくれると信じようと思う。
信じないと生きていけない。

また、クリスチャンがどんなにひどくても敵対しないでいきたい。あのひどい人たちの為にもイエスキリストが十字架につけられて罪を贖われた。現在も聖霊ガン無視で、聖書を自分に都合よく使っているように見えるが、そういうことは神様にお任せする。
私も残念な人間だが、なぜか神が常に愛し、味方でいてくれるのはありがたいことだ。

崖っぷちになると、神様に愛されていても仕方がない、人に許容されないと生きていけないのだから、と思う。
でも、神の国と神の義をまず第一に追い求めなさい、そうすれば生活の必要はすべて満たされます、という聖句がある。
生きていくのに必要なものは与えられる、というのが聖書全体から受けるメッセージである。
信じないと生きていけない。

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