モラハラを断つ【Vol.3】衝突への恐れを捨てる
これまで私は他者との調和を重んじてきた。
裏を返せば、他者との衝突を極端に恐れるがためにモラハラ被害に遭いやすい。
生来の気質の場合もあれば、経験からそのような性質になるケースもあると思う。
私の場合はどちらかといえば後者であり、さまざまな衝突を経た結果、争いを招きそうな自己主張を極端に回避しようとするマインドになったと考えている。
今日はそのマインドがどのように形成されていったかについて書いてみる。
小学生低学年の頃は、早生まれのため身体が小さかったし、学習能力もゆっくりなタイプだった。
特に算数が苦手で
『⭕️⭕️ +⭕️』という絵を見て、合計数を問う問題では、⭕️が一体化するイメージが湧いてしまい、正解の3個ではなく『1個』と考えてしまうタイプだった。そういう時は必ず居残りで、小1なのに帰宅が夕方4時頃になり親にめちゃくちゃ心配されつつめっちゃ怒られた記憶が鮮明に残っている。居残りするさせられることで元々高くない自尊心は下がり、弱々しい印象を周囲にも与える結果となっていた。
そうするといわゆる「上から目線」なタイプな同級生にケチを付けられる事が多くなり、例えば、消しゴムのかすを床に落としただけで「あーーーあかんのにーー!」などと責め立てられたりした。そういう時、言い返し方も分からず、6歳の私は黙って悔し泣きしながら床のかすを拾っていた。
そのうち塾に通うようになり勉強面は少しずつ明るい兆しを見せていった。そうすると自信が付いてきたためか自分の意見を言えるようになってきた。しかし自己主張の良い塩梅が分からず、ずけずけと発言することも多かったのだろう。意見を言っても無視されたり、「自分勝手」と言われることが多くなった。
学校に行っても特定のグループに入れず、1人で過ごさざるを得なくなった。小4の頃だったと思う。1年が本当に長くて毎日憂鬱な気持ちで学校に通った。「あぁ、私なんて何も言わない方がいいんだ。何か言ってもどうせズレてるんだ。みんな嫌な気分になるんだ。」と自分を責めた。
反動で小学校高学年は、とにかく「明るく」「面白く」でも「自分は出さず」過ごすことで友達はそこそこ出来るようになった。それでも、毎日が綱渡りのような感覚は強く持っていた。
中学受験をして私立の女子校に入学。
友達関係はリセットされ、いちからの人間関係の構築が始まったが、これが上手くいかなかった。
友達ができない焦りで、他の同級生の気を引こうとしたりして結局失敗した。1人になった。小4の時よりさらに状況は厳しかった。みんな各自グループで昼食を取るが、一緒に食べる友達がいない。体育でペアを組んでくれる子が誰もいなかった時はかなりショックを受けた。
この時期、通学電車で読む星新一のショートショート集が安らぎだったことを今でも覚えている。
数ヶ月後に、今でも親友と呼べる友人達と仲良くなり始めたのだが、その当時は
『この子たちから見放されたらおしまいだ』
という強迫観念に駆られていた。
絶対に嫌われてはいけない。小4の記憶が頭をよぎる。ここが無くなったら私は行き場を失う。とにかく友達の顔色を観察した。
そして調子を合わせた。
少しでも相手が不機嫌な様子を見せたら、話題を変えたりおどけたりした。容姿にも強いコンプレックスがあった思春期の私は、とにかく友達を失うまいと必死だった。
『私は調子に乗りすぎると相手が離れてしまう』
『私が本音で話すと相手が離れてしまう』
これが常に自分への戒めだった。
大学に入っても、社会人になっても、人の顔色を伺う癖は変わらなかった。
新卒で入ったそこそこ名のある大手金融機関は、超のつく体育会系、「女性総合職は、新入社員でも女性一般職の先輩社員より給料多く貰ってんだから、とにかくお姉さん方に気を遣え!」と叩き込まれた。初めての社会経験がそんな所だったものだから、毎日一切気を抜くことは出来なかった。不機嫌そうにしてる一般職方の顔を見ると『やばい、私がまた何かやらかしたに違いない!』と血相を変え、ご機嫌伺いに走った。仕事以外にもあらゆる事に気を配り「自分のいたらなさで他人が不快になってないか」に必死だった。
そんな会社で疲弊しきっていた3年目に同期入社であった夫と交際が始まり、逃げるように退職し結婚した。(振り返ると、現実逃避でしかなく人生で三本指に入るくらいの判断ミスだった。)
初めて夫と激しい口論になった時、20代の私は泣いて泣いて謝った。この人に捨てられたら「私の居場所がなくなる」という恐怖からだった。
そういう態度に安心したのか、モラハラのスイッチがどんどん入り始めた。
「自分の間違いを認めろよ!知ったかぶりすんなよ!」「言い訳をするな!」
この頃から、「ほな離婚や!」とすぐに夫が言うようになった。
とにかく怖かった。夫の態度、言葉遣い。
捨てられるかもしれないという恐怖。
夫の指摘にはとにかく素直に従うようにした。服装、料理の仕方、洗濯物の干し方、運動習慣、登山、週末の予定を予め決めておく、生活のあらゆる面で夫の言う通りにするようになっていった。
この人に合わせておけば怒られないで済む。先回りして段取りよくしておけば丸く収まる。
自ら猛獣の檻に入っていくとはこういうことだ。
子供が産まれる前も産まれた後も、手を変え品を変え叱責は散発的に発生し、現在でもそれは続いている。私だけでなく、子供にも向けられるようになっている。
しかし、子供を持った事で大きく変わった点がある。「子供を守る」という決意である。どれだけモラハラを受けてもこれだけは決して揺るがなかった。さらに自分が鬱になるまで追い込まれた事で、自分自身も守らねばならないことにようやく気がついたのだ。
この記事を書いている今日も、勉強のことで
暴力と猛烈な叱責があった。
しかし私は徹底的に反論した。
言い訳だと向こうが私の発言をねじ伏せてこようとも絶対に謝らなかった。暴力も、相手の教育虐待とも言える叱責がいかに子供に一生の心の傷を負わせるか間違っているかを、明確に伝えた。もちろん、それで向こうが納得したり謝罪することなどはない。
そうであっても、泣き寝入りはもうしない姿勢を見せつけることができたのだ。
私は負けない
子供と自分を守る
それだけだ。
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