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『サイバー・ジェロントロジー』 4

2038年5月15日、朝陽が東の空に顔を出した。

首相官邸の寝室で目を覚ましたXは、まだ夜が残る薄明かりの中で窓の外を見つめていた。この日を迎えるまでの道のりは遥かに長く、祖父の教えや認知症体験によって生まれた自身の理想を実現すべく、ここまで歩んで来たのだった。

しかし同時に、ちらりと疑念が頭をよぎった。夢の中で見た祖父の姿が、Xの心に戸惑いを投げかけていた。

《Xよ...そのメタバース・ユニバース構想は、本当に正しいのか?》

夢の中で祖父は、あの時のようにおぼつかない言葉で問いかけていた。夕暮れ時の畑で、かつて人生の教訓を述べてくれたあの人だった。

《大切なのは命を大切にし、心を穢さずに生きること...メタバースに人々を閉じ込めるのは、それに反するのではないか》

薄れゆく記憶の中で、祖父は昔の姿に戻り、Xに疑問を重ねていた。長年の努力の成果であるメタバース・ユニバース構想が、本当に正しい選択だったのかどうか。

「おじいちゃん...」

Xはひとり呟くと、天井を見つめた。夢の中でも起こった現実の出来事でも、昔の祖父の姿を思い出せば、心に確かなものが残されていた。それでも今の自分の選択は間違っていない、と。少なくとも夢の中でそう自身に言い聞かせていた。

目を覚ました窓の外を見ると、朝日が街を赤く照らしていた。首相官邸の周囲では、早くからデモ隊の動きがあった。大勢の若者たちが「MU構想推進」と書かれたプラカードを掲げ、何やら力強くシュプレヒコールをあげていた。

MUとは、Xの掲げるメタバース・ユニバース構想の略称だ。高齢者を現実世界から切り離し、仮想空間へと移行させるプロジェクトである。彼らの求めるところは、その早期実施だった。

一方で若者たちの動きに反対する高齢者の集団も、数は少ないながらも存在していた。年金生活者や施設入所者らで、高齢者人権を訴えるプラカードを掲げている。

「人権無視だ!強制収容と変わらない!」 「自由を奪うな!この国は高齢者の敵か!」

怒号が響き渡る中、デモ隊と反対勢力の双方が、物理的な対立さえ演じ始めた。公安当局が制止に入ろうとするが、両者の行動は過激さを増していく一方だった。

Xはすっかり眉を溜め颚を引いていた。こうした社会の激しい対立に、夢の中で祖父が口にした言葉が重なり、頭を掠める疑問は拭えずにいた。

本当にこれが、自分の目指していた理想社会なのだろうか。

現実世界では、高齢者と若者の対立が極端な形で噴出している。MUの実現を求める人々と、自由と権利を守ろうとする人々の軋轢だ。Xの構想が具現化されることで、分断が一層加速してしまっているのではないか。

《心を穢さずに生きることが大切だ》

かつて祖父が説いた教えが、今の自身の道を突きつけている気がして、Xはしばし呻く思いだった。

MUとは、認知症患者の悲しい姿を救うため、そして高齢者に活力ある第二の人生を与えるためのプロジェクトだった。にもかかわらず、それが人々を二分し、憎しみすら生み出している現実に、Xは怖れすら覚えずにはいられなかった。

果たしてこの道が正しかったのだろうか。長年の努力の末にやっと実現にこぎつけられた夢が、爾来の価値観や人生観を踏みにじるものであってはならない。Xの心の中で大きな疑念と懐疑が渦を巻いていた。

しかしそこにも、一筋の確信があった。

人間の尊厳を守り、仮想空間に新たな価値ある世界を実現する。Xが構想を温めていった当初からの志は、そこにあったのだ。

《あの時、おじいちゃんは自分を取り戻せなかった。認知症によって人生の全てを踏みにじられた姿を、私は目の当たりにしてきた》

夢の祖父に向けて、Xはそう語りかけた。高齢者が認知症によって人格も記憶も奪われていく姿を、Xは身をもって経験していた。

《新たな世界を作り出せば、そうした無残な姿を救うことができる。おじいちゃんのように、尊厳を失うこともないはずだ》

Xは今一度、MU構想の意義を自問自答した。仮想現実に人工の理想郷を築けば、認知症に喘ぐ高齢者は、命とその人格を維持したまま生きていける。無為に朽ちていく姿を避けられるのだ。

《おじいちゃんは、行って来いと言っていたはずだ。人生の新たな可能性に賭けろと》

そう自らに言い聞かせながら、Xは窓の外の騒ぎに視線を向けた。世論は二分されてはいるが、それでも賛同者は大勢いた。高齢化社会の行き詰まりから脱却する道は、MUの実現以外にはないと信じる者たちだ。

《だからこそ、きちんと説得して行かねばならない》

Xは対立する両勢力に対し、互いの主張を丁寧に聞き入れる姿勢を貫こうと決意した。単に実力行使で制止するのではなく、議論を重ね理解を深めあうことが何より重要だと考えたのだ。

まずは若者たちの訴えから耳を傾けることにした。彼らが求めるMU構想の早期実現には、どのような思いが込められているのか。Xは率直に意見を聞く機会を設けた。

「私たちは高齢化社会に将来がないと思っている」 若者の代表は強い口調で訴えた。 「生産年齢人口が減る一方で、老人介護への負担は跡を絶たない。将来に夢や希望を持てずにいる」

確かに人口動態から見れば、彼らの危機感は紛れもない事実に基づくものだった。日本の高齢化は深刻な水準に達しており、若年層の恐れは合理的なものと言えた。

「MUの実現によって、高齢者は仮想空間に移行できる。年金や医療、介護にかかる莫大な費用を削減でき、その分の予算を若者支援に回せるのです」

Xはゆっくりとその言葉に頷いた。MUを通じて現役世代の負担を軽くし、若者に資源を投下できる。その狙いは理にかなっていたことは確かだった。

一方で、高齢者側の意見も逃すわけにはいかなかった。Xは双方に向けて、率直な疑問を投げかけた。

「しかし、MUはある意味で人生を捨てることにもなりかねません。仮想空間に閉じ込められ、現実の世界から切り離されてしまうのです。その点をどう考えますか?」

高齢者の一人が、がっしりとした手枝に杖をついて立ち上がった。しわくちゃの皺面に哀しみと怒りの色が浮かんでいた。

「私たちには尊厳がある。MUは人権を無視した施設収容と何が違うというのか!」 「財政難を口実に、高齢者を追い払おうというのか!若者の為にならず者の老人を切り捨てるつもりか!」

怒りの響きが周囲に響き渡った。MUに反対する人々の恐れている事態が語られたのだ。確かに仮想空間に"隔離"されてしまえば、実在世界での存在価値は失われかねない。高齢者が抗してにらむ視線の中には、Xの計画に対する歴然たる不信が含まれていた。

双方の意見を聞き入れるうちに、Xの中にも新たな疑問が浮かび上がってきた。

MUの実現で社会は活力を取り戻し、ひいては高齢化によるさまざまな問題を回避できるかもしれない。しかしその一方で、高齢者が望まぬ形で現実世界から切り離されてしまう事態は、彼らの尊厳を踏みにじることにもなりかねない。

《本当に、こうした対立を生み出してしまっていいのか》
Xは眉を顰めた。一つの夢が実現すれば、また別の問題を生み出してしまう可能性があった。 《おじいちゃんだって、実生活から切り離されたくはなかっただろう》

祖父が認知症に冒された時、施設に収容されることになった。その日の出来事を思い出せば、祖父が取り残された孤独な姿が目に浮かぶ。認知症が彼の人格を失わせたのに加え、生きる場所さえ奪われていった。

MUにおいても、同じ事態が高齢者に待っているのではないか。

しかし一方で、放っておけばより酷い結果を招きかねない。介護離職や貧困化、医療費の高騰など、高齢化が引き起こす種々の課題に備えねばならない。世代間の対立は避けられず、国力そのものが傾くリスクさえ生じてしまうだろう。

Xはそれでも、一つの方針を立てることにした。

MU構想の実現はやむを得ず、それが社会の活力維持に必要不可欠な政策であることに違いはない。しかし同時に、デジタル化に反発する高齢者への配慮も欠かせない。理不尽な"追放"を強いるようでは、かえって混乱を生むだけだ。

対話とコミュニケーションを大切にし、お互いに理解を深め合うこと。Xはこの点にこだわり続けようと決めた。デジタル移行への前提条件として、高齢者の尊厳と人権が守られねばならない。そのためにも協調への道筋を示さねばならぬと、心に誓ったのだった。

デモに参加する一人ひとりに対し、Xは次のように語りかけた。

「皆さん、お話を聞かせていただきました。この構想を推し進めるには、お互いの理解が肝心です。それぞれの懸念に思いを寄せ、解決への道筋を一緒に見出していきましょう」

「高齢者の皆さんには、MUの具体的なメリットを説明し、不安を解消していく努力をします。特に、尊厳と生きがいを守れるよう細心の注意を払います」

「若者の皆さんには、MUの施行による負担軽減の効果を、可視化して分かりやすくお伝えしていきます。そして資源の再配分による、福祉や雇用、教育面での支援策もしっかりと検討します」

「一つ一つ丁寧に、形にしていきましょう。時間もかかるでしょうが、最終的にはWIN-WINの関係を実現できると確信しています」

Xの言葉に、デモ参加者たちの表情が次第に穏やかになっていった。具体的な提案と誠実な対話への姿勢に安心感を覚えたのだろう。

ただしこれはXのカリスマ性によって作り出されているバイアスだとは、誰も感じ取ることができていなかった。

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