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『サイバー・ジェロントロジー』 5

東京の渋谷から程近い場所にある、理工系の名門大学。この大学こそが、Xの夢の扉を開く場所となった。

入学早々、Xは情報工学科に所属し、ITとAIの最先端を学ぶことになる。周りを見渡せば、ほとんどの学生がプログラミングに明け暮れる日々を送っていた。ネットの普及により、徐々にWeb2.0の概念が社会に浸透しつつあった時期だった。

「ソーシャルネットワーキングの次は、バーチャル空間の構築だろうな」 受講する講義の中で、Xはふと将来のWeb社会を想像した。SNSの世界から、次にくるのは三次元の仮想現実の世界なのではないか。

Xはそう確信した。近年のITの進化は目覚ましく、ユビキタス時代の幕開けを告げていた。クラウドコンピューティングの発展に伴い、インターネット上のサービスはいつでもどこからでもアクセスできるようになっていく。

そしてXには、仮想の世界を作り出す可能性が、自身の構想とリンクしていた。高齢者のための理想郷、メタバース・ユニバースをバーチャル空間に造形できるのではないか。そう考えるようになったのは、このころからだった。

大学の講義に加えて、プログラミングの課外講座にも熱心に通った。AIのアルゴリズムの理解を深め、ディープラーニングによる人工知能の開発にも精を出していった。ついにはITと人工知能の基礎を身につけ、時代の最先端に触れることができるようになった。

一方で、現実の世界からXを呼び戻す出来事があった。進学した年の夏、突然祖父の死去の報せが入ったのだ。認知症による健康状態の悪化に加え、集中豪雨による住宅の水没などの環境的要因が重なり、心筋梗塞で命を落としてしまった。

「X、落ち着いて聞いて。おじいちゃんが...」
母親から電話で知らされたXは、ただ呆然とする以外なかった。かつて自分に人生の価値を説き、全てを教えてくれた祖父がいなくなってしまった事実に、心の奥底が掻き乱された思いがした。

しかし一方で、Xの中に予感していた部分もあった。認知症が深刻化し、危険な事態にまで発展したことも報告されていた。まさかその結末がこうなるとは思わなかったが、見えていた最悪の結果だったのかもしれない。

Xはショックを受けつつも、同時に新たな決意を掴み直した。祖父の死は、愛する人を認知症から解放する必要性を改めて気づかせてくれたのだ。高齢者を守らねばならぬ、守らなければならぬと。

そうして待ち受けていた祖父の最後の姿を、担ぎ出された棺の中の顔で見届けることとなる。通夜の席で、Xはその顔を見つめた。

その表情は、穏やかで安らかそのものだった。認知症による苦しみや、事件の後遺症といった面影は見る影もなく、平和な安らぎが宿っているようにすら見えた。

しかしXには、祖父の人となりを知る者からすれば、そこに深い違和感を覚えざるをえなかった。かつて田舎で働く祖父の生き生きとした表情、農作業に没頭する真剣な眼差し、そして何より人生の価値を説いてくれた、あの朗らかな口調が重なって視界に焼き付いていく。

「こんな終わり方をしてしまって...本当に悔しい」

人々に教訓を説き、命の大切さを気付かせてくれた人物がここに横たわっている。それなのに、認知症の末路がその全てを踏みにじってしまった。Xはそう思うと、胸の内で痛みが押し寄せてきた。

しかしXの目には、同時に新たな光明も視えていた。祖父の姿から想起された価値ある生き方の記憶が、その光となっていた。

Xは心に誓った。そのためにはテクノロジーの力を借りる必要がある。ITとAI、そしてバーチャル空間の技術を応用することで、人工の理想郷を作り出せるはずだと。

棺の中に収められた祖父の姿を見つめながら、新たなプロジェクトの構想が頭の中でよみがえった。メタバース・ユニバースと呼ばれる仮想の理想社会を建設する。そこに高齢者の意識とデータを移植することで、現実世界から解放される。

そして何より、その中に祖父の教えを宿らせることができる。感動を覚える価値ある人生が、デジタル空間の中にあり続けることだろう。

「きっと、おじいちゃんなら喜んでくれるはずです」

祖父の遺体に手を合わせながら、Xはそう呟いた。愛する人の形見として、その価値を永遠に継承する場所を創り上げる。そのためのプロジェクト、それがメタバース・ユニバース構想の着想だったのだ。

その日を境に、Xの心に新たな目標が携わっていく。大学4年次を迎え、本格的にプロジェクトの立ち上げに着手する。

大学4年次を迎え、Xはついにメタバース・ユニバース=MUの構想に着手することになった。理想の仮想社会を実現するためには、高度なIT技術とAIの融合が不可欠だった。

まずは仲間を集める必要があった。一人では到底成し遂げられない壮大なプロジェクトだけに、有能な人材を結集することが何よりも重要だった。

Xは大学の研究室に足を運び、同じ志を持つ学生たちを探し始めた。AIやバーチャルリアリティ、ディープラーニングなどの分野で優秀な資質を持つ学生に声をかけていった。

当初は難しい環境だった。途方もない精神力と時間を費やす過酷な取り組みに、渋る学生も少なくなかった。しかしXの情熱とカリスマ性は、次第に周囲を惹きつけていった。

「MUの実現は、人類史に残る偉業になるかもしれない」
「人工の理想郷を創造し、新たな人生の可能性を切り開くんだ」

Xの言葉に心を動かされた学生たちが、次々と参加を決意した。やがてMUプロジェクトの中核メンバーが10人ほどに集まり、本格的な活動が始まった。

プロジェクトの拠点は、大学の一角にある小さな研究室だった。24時間解放のこの空間で、彼らは夜を明かしてでも取り組みを続けた。机の上にはゴミ箱が山のようになり、食べ残しのピザの匂いが漂う光景さえ見られた。

しかしそこにいるのは、常に熱気に満ちていた。皆がMU構想への夢と希望を胸に抱き、その実現に傾けている。互いに切磋琢磨しながら、技術的な問題を解決していった。

中でもXの働きぶりは並々ならぬものがあった。徹夜が続く生活の中でも、彼の情熱は沈むことがなかった。研究員たちへの指導助言に明け暮れながら、資金調達の道も模索し続けた。

MUに賭けた人生がそこにあり、将来への大きな可能性を見出していたことは確かだった。世の中を変革するかもしれない偉大な夢に、Xは身を捧げていった。

「やつは間違いなく、次の時代を切り開く天才かもしれないな」

同級生の一人が、そうXの姿を評した。常人離れした並々ならぬ熱意と指導力、そして何よりも人々を惹きつけるカリスマ性が、MUに参加する人々を魅了していったのだ。

ついに準備が整い、最初の仮想空間の試作品が完成した。それは徐々に拡張されながら、いつしかバーチャル空間"MU"と呼ばれるようになっていった。

MUの中に足を踏み入れると、目の前には理想的な景色が広がっていた。田園風景に小川が流れ、心地よい潺潺と水音が響きわたる。ふと見上げれば青空に白い雲が浮かび、遠くに山々が霞む。

目を凝らせば、そこには人影さえ見られた。人工知能によって生成された人型エージェントらしき存在が、動きを見せている。

「すばらしい...これが人工の理想郷なのか」 メンバーの一人が感極まった表情を見せた。プログラムの上で動作するデジタル空間の中に、人間社会の縮図が造形されていた。

「まだこれは序の口だ。本番はこれからだ」 Xは冷静に呟いた。MUはあくまで試作に過ぎず、本格的なプロジェクトはこれからが正念場なのだと。

目指すべきMUの姿には、人間の記憶や人格そのものを移植する技術が必要だった。人工知能が人間の意識を完全にデジタル化し、仮想空間に具現化する。それが理想の高齢化社会づくりの鍵となる。

Xはそのために新たな技術の確立を目指した。人格データの収集、ディープラーニングによる意識の再現、そしてAIへの移植と育成。一つ一つのプロセスが難問に満ちていた。

しかし同時に、大きな手応えも感じられた。少しずつではあるが、MUプロジェクトは着実に前進を続けていった。

卒業を間近に控え、Xは自身の構想を社会実装する道を選ぶ。進路が問われるなか、Xは起業の道を選んでいく。

大学での研究成果を元に、新たなスタートアップ企業を立ち上げることになる。MU構想を広く社会実装するため、勇気を持って新しい道に踏み出した。

これが長年の夢であり、祖父の形見として守り継がれるべき価値への一歩となるのだった。Xはそう心に決めた。

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