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奇跡のインド12

アシュラム滞在3日目のこの日は、いつもの11時のスワミジのお話だけでなく、私は別のスワミジのお話を2時に聞きに行く番になっていて、さらにまた別のスワミジのお話を、これは全員で4時半に聞くという、お話三昧の1日だった。そしてこの日のスワミジのお話は、実に私の心に響いたのだった。

11時のスワミジは、また前の日と同じように、差し上げたお菓子をその場でバリバリと開封したが、2日めなので、もう驚かなかった。だからお話自体に集中することができた。
この日スワミジは、ヨガとは宗教なのか、という参加者の質問に答えていた。
私も、マントラを唱えたり、キールタンでヒンズー教の神様の名前を唱えたりして、ここでの活動は宗教っぽいな、と思っていたので、この質問の答えには関心があった。
「ヨガは宗教ではなくサイエンスだ」というのがスワミジの答えだった。心と体と呼吸の調和を整えるのがヨガ。呼吸は宗教とは関係ない。どんな宗教であったとしても呼吸はする。その調和のための技法がヨガである、ということだったので、なるほど、と納得した。
ヒンズー教の神様の名前を唱えるのは、ヨガがインドで発達したからであって、唱える神様の名前は、ブッダでもキリストでもアラーでもなんでもいいということだろう、と私は理解した。というより偉大なるもののことを、それぞれの宗教が、シヴァなりキリストなりと名づけているのに違いない。

午後2時からの別のスワミジのお話にも感じ入った。
「このアシュラムでは、行動規範の筆頭に奉仕、を掲げているが、奉仕は金銭的な見返りでなくとも、感謝とかそういうものさえ、求めるべきではないのか」という参加者の質問に答えていた。
その答えは「奉仕の見返りは何も期待しないほうないい。なぜなら、神様が与えてくれるものを受け取るためには、片手では受け取りきれないから」というものだった。
他の人からの感謝を片手で受け取ってしまったなら、神様からの恩寵を受け取る手が片手しか残っていない。だから他の人からの感謝には期待せず、神様からの恩寵を両手で受け取れる状態にしておいたほうがよい、ということだった。
そして目の前の相手に奉仕をすることは、実は相手に奉仕しているのではなく、相手を通じて神様に奉仕しているのだ。困っている人の中に神様を見る修行をしているのだ、というお話しだった。
このアシュラムの創始者は、「あなたは神様を見たことがありますか」という質問に対して、「私は神様しか見たことがない。どんな人の中にも神様がいる」と答えたそうだ。そのやりとりを聞いていたら、なぜだか私は涙が出た。

夕方のスワミジの話は、早口でちょっとうまく集中できなかったが、それでも得るところはあった。
この日はたくさんお話を聞いて、ずいぶんスピリチュアルな1日だったな、と思った。

夕方のスワミジのお話が終わると、前日と同じように、小さな部屋で楽器付きのキールタンをノリノリで歌い、その後のアラーティの火の儀式に参加し、ご褒美のプラサードをもらって、そのあとにいつもの、おいしくて優しい夕食をいただいた。

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