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アーユルヴェーダ・リトリート in スリランカ 16


このたび、アーユルヴェーダ施設滞在を体験してみて思ったことがいくつかある。

まず、アーユルヴェーダにおける白湯の重要性である。アーユルヴェーダが白湯を重視していることは知っていたし、私自身、鉄瓶でわかした白湯を毎朝飲んでいるのだが、1日1杯とかいうレベルではなく、施設では、毎食時にわんこそばのようにどんどん白湯が注がれる。まるで要らないものをそれによって、どんどん流すかのように。
そしてよいものを食べていることも手伝って、実際に排泄物として、滞った流れが出ていったように思う。この経験から、私は普段から、もっとどんどん白湯を飲んだほうがいいのではないか、という気持ちになった。そして普段私が飲んでいる白湯は、熱すぎるらしいということもわかった。施設で出る白湯は、もっとずっと優しい口当たりの温度だった。

そして考えてみれば当たり前ではあるが、食事の重要性を感じた。
施設にいる間、新鮮な、パワーのある素材で作った野菜たっぷりの食事を、少なめに食べることで、体の中から清められるような気持ちになったものだった。
アーユルヴェーダでは、作りたての物を食べることを重視しているらしいと聞いたことがあるが(作り置きはダメ)、実際にそういうものを食べていると、作りたてのものを食べた方が、たしかによいであろうことを実感できた。
現実的には、毎日作りたてのものを食べることは、私にとって難しいが、それが大切であることはよくわかった。
宿では、提供されるフルーツやヨーグルト以外には、甘いものも別に食べたいという気持ちが起きなかった。日本の場合だと、甘いものを食べるように日々誘惑されるので、それに抵抗しようと思わなければ、つい食べてしまう。ストレスもあるので、それを解消するのにも、甘いものに手が伸びる。日常生活でよい食事を取ろうとすることは、意識しないとなかなか難しいように思う。
食事との向き合いかたは、施設を離れたあとの、これからの課題になってくるだろう。

続いて、ストレスのないゆったりした生活を送ることの大切さだ。これも食事と同様、そんなのは当たり前だが、実行するのは難しい。
スリランカにいる間、日常から遠く離れて、毎日トリートメントを受けて、屋外で朝、ヨガを毎日やって、自然の中で過ごして、テレビの雑音もなく、本当にリラックスすることができた。その結果、自分の顔つきが変わっていることが、自分でもわかった。体も心も解放された。
日常生活をそんなふうに過ごすことは不可能だが、ゆったりした時間をもつことくらいは、少なくとも必要なことなのだと思う。
滞在中は、質の良い睡眠も得られた。ぐっすり眠ることはとても幸せなことだ。
やむを得ないとは思うが、私は普段、ちょっと忙しすぎるし、日本という国も、ちょっとせわしない感じはある。ゆとりがないのだ。なんとかもっとゆったりと過ごせないものだろうか。
今回の経験を日常にどう持ち帰るか、そこもこれからの私の課題になってくる。

スリランカの人は、アーユルヴェーダ的な日常を送っているのかというと、そうではないそうだ。アーユルヴェーダの病院も現地にあるとはいえ、値段も高く、治療に時間もかかるので、現地の人は病気になると、普通に西洋医学の病院に行くことが多いのだそうだ。それに普通の人はおそらく、スリランカでも日本でも良くも悪くも、毎日の生活を送るのでいっぱいいっぱいだ。
そう考えると、アーユルヴェーダの施設に滞在して、アーユルヴェーダの知恵に基づいた生活を送ることは、やはり休暇ならではの贅沢な過ごし方なのかもしれない。そしてそれを求めてスリランカに渡る日本人が大勢いることは、何かを示唆しているような気もする。

特別な体験をすると、その時は衝撃を受けるのだが、その経験が定着するかどうかは、その後の過ごし方次第となる。日本に戻って数週間経った今、リトリート中の生活とはすでにあまりにもかけ離れている。
今回の経験にどういう意味があったのか、単なるのんびりした休暇として、すでに終わってしまった話なのか、もう少し時間をかけて見つめていきたいと思っている。(了)

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