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奇跡のインド 後日譚後編

正見、すなわち偏見に捉われない自在な見方ができるようになると、すべての苦は消滅するのである、たぶん。
そもそも、摩訶般若波羅蜜多心経、の摩訶は、私がチラッと目にしたことによると、サンスクリットのマハーから来ているというのである。

私はインドから帰って続けていることが3つある。一つはヨガだ。しかしヨガはインドに行く前からやっていて、インドから帰ったら多少頻度が増えたくらいの話なので、まあこれはカウントしなくてもいいかもしれない。帰国後は、時々ヨガの後に瞑想するようになったので、その点は以前と多少違う点だが。

もう一つは鏡に向かって笑う、だ。インドでアーユルヴェーダ医にそうしろと言われたので、ちゃんと実践しているのだ(私は素直なタイプなのだ)。

そしてあと一つがマハーマントラだ。
マハーマントラというのは、

ハレーラマハレーラマ ラマラマハレーハレー
ハレークリシュナハレークリシュナ
クリシュナクリシュナハレーハレー

というそれだけのマントラだ。実はジョージハリソンの歌の中にも出てくる。
ハレーとラマとクリシュナの3語しか出てこない。それなのにマハーマントラ、すなわち偉大なマントラと言われているのである。優れたものはシンプルなのだ。はっきり言ってマントラの意味はわからない。そしてマハーは摩訶だ。
アシュラムではマハーマントラを、節をつけて食事の前に歌っていた(キールタン)。だから我が家でもそれを踏襲して、食事の前にマハーマントラを歌うことにしている。話は単純で、私は歌が好きで、それを歌うのが楽しいからである。

ある本で読んだのだが、行(ぎょう)をやるのは意味やら何やらを考えず、ただ無心でやるのがいいそうだ。その意味で、マハーマントラを単純に唱える、というのは実は重要なことなのではないかと思っている。ちなみに夫も、私と一緒にマハーマントラを唱えさせられている。かわいそうに。しかし彼も無心でやっているはずだ。
ともかく、そんなことを通じて、いつでも正見ができるような工夫を、日常生活に取り入れている、わけではないのだが、結果的にそうなっているのかもしれない。

あともう一つ。私はたまたま今、モーツァルトのレクイエムの合唱に参加している。年末が本番だ。
私はオペラの合唱を時々やっているのだが、練習日などの関係で今はオペラはお休みしていて、以前から歌ってみたかった、レクイエムに取り組んでいる。
宗教性とかは関係なく、単純に音楽として取り組んでいるので、正直なところ歌詞の意味もろくに把握していない(本番までには把握するつもりだ)。ただ、この曲にはイエスキリストの名をラテン語で連呼するだけの曲なども含まれていて、私は「キールタンと同じじゃないか!」と思っている。最近ではそんな観点からも、レクイエムの合唱を楽しんでいる。

般若心経も唱えれば、キールタンも歌えば、レクイエムも歌う。そんな節操のなさが、日本の寛容な宗教性の素晴らしいところだ。私はまさしくそれを実践している。

そんなことも手伝っているのかどうかは知らないが、私にはいまや奇跡が日常になった。そうなってみると、今までの人生はなんだったのかと思うくらい違う。
もっとも今までの苦境があったからこそ、反動で奇跡界に入ることができたのだろうから、そう考えると人生に無駄なことは起きていないのだろう。

奇跡界は今までと何が違うかというと、結構なにもかも違うのだが、一つ言えるのは、人の役に立つことが喜びになったということだろうか。これまで私は、いかに自分が得るかということばかり考えていた。それでは問題だとわかってはいたものの、変えようがなかったのである。しかし今では、自分が人のために何ができるかを考えられるようになった。それというのも、人の役に立てることが、自分の幸せでもあると、心から思えるからだ。スワミジもおっしゃっていた。「目の前の人に奉仕することは、実は神に奉仕していることだ」

今まで親切な人に出会うと、この人はなんでこんなに親切なんだろう、と思うことはあっても、自分がそうしようとも、そうできるとも考えたことはなかった。でも親切な人と、そうできない人とは、そもそも見ている世界が違うのだと今では思う、言葉にするのはとても難しいのだけれど。だから親切な人というのは、たぶん本人が意識しているかどうかはともかく、奇跡界の人なのだ。そしてそっち側の人は結構おおぜいいるし、これまでの人生で、私も数多く出会ってきた。そういう人たちは、引き続き師である。

いずれにせよ、これからは奇跡界の新参者として、日々どんな奇跡に出会うことができるのかを楽しみにしながら、もう少しこの状態を満喫したいと思っている。

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