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『山月記』より、物語るということ

 中島敦の代表作とも言える『山月記』。絵本や児童書になっており、そしてもちろん教科書にも収録されています。私含め、多くの人が授業で習ったことがあるのではないでしょうか。今回は私が受けた授業で印象深かったことをアウトプットとしてお話できたらと思います。

 山月記のあらすじをざっくりと説明すると… 
主人公の李徴は詩人として生きることを諦め官僚として出世をしていくが、ある日ついにうまくいかない現実に発狂した李徴は夜の森に向って駆け、気づけば虎になってしまいます。絶望していた李徴は後日森を訪ねた元同僚の袁傪に自身の身の上を語り、虎になるまでの自分の人生について振り返っていく、という物語です。

 李徴は語りのなかで虎になった原因について考えて行くのですが、最初は「なぜこんなことになってしまったのだろう。分からぬ。全く何事も我々には分からぬ。」と言っています。
 しかし、李徴は人であったときに詩人を夢見ていたことを語っていくうちに、虎になった原因を「考えようによれば思い当たることが全然ないでもない。」と言い出します。自分の詩の才能に対する他人の期待に応えられなかったら、と思い誰かと切磋琢磨しながら詩を磨く努力をしなかったという「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」が己を虎に変えてしまったのだ、と言うのです。

 李徴の語りを聞くと、虎になった原因が明確にあり、それに李徴が気づいたという流れだと思うかもしれません。しかし、李徴の語り以外で虎になった原因は明言されておらず、また李徴の人物説明に関しても賢く、孤高で高潔であると描写されており、李徴の言うような臆病さなどはどこにも書かれていません。心の弱さが身を滅ぼしたという話の道筋は李徴の主観によって語られ、作られたものです。

 李徴のこの行動は、虎になるという不条理に合理的説明をつけた、と言えます。本来説明などできるはずもない運命に、理由付けをしてしまったのです。そして、それが自分の性質であるとアイデンティティとして見出してしまった。

 さらに、袁傪によれば李徴にはむかしから自嘲癖があるといいます。李徴の語りには自身を卑下する表現が多分に含まれており、それにより李徴の運命の理由付けが歪められてしまったということです。李徴は自嘲癖が含まれた語りによって、虎になるという結果に終わる人生の物語を創作し、それをアイデンティティかのように思っている。それはどうしようもなく悲しいことだと思ってしまいます。

 しかしそんな李徴の行動は、私も、みなさんもしているのではないでしょうか。何か嫌なことがあったときや、自分の性格の起源について考えるときなど、自分の人生を振り返るときには今の自分をゴール地点として、そこにたどり着くように流れのよい理由をつけてしまっていると思います。実際は今までの出来事と今の自分が因果関係で結ばれていることはほとんどないし、今の自分が未来のなにかの原因に直接つながることもほぼないはずです。そこに我々は都合の良いように、自分が納得しやすいような物語を創作している。説明も予測もつかない人生に合理的説明をしてしまうのは人間らしい行為といってよいのでしょうか。

 李徴による自分の人生の語り、袁傪による李徴についての語り、山月記自体の語り手による地の文での語りといったようにこの物語には主観と客観が入り混じったたくさんの語りが登場します。もし読んでみようかなという気になれば、ぜひ語りに注目して読んで、この物語をもっと深く味わってみてはいかがでしょうか。

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