哀悼の意 vs 表現の自由? 笑い飯哲夫の発言について考えてみた

2022年8月8日放送のアベプラで、安倍元首相の暗殺事件について笑い飯哲夫さんが行った発言がニュースになっています。発言の内容は、『安倍さんが亡くなられて四十九日もたってない。そんな中で、そうやって批判するのは日本人の所業とは思えない』というもの。
この発言自体は、広島での平和記念式典での場違いなデモに関するものであるという点は押さえるべきですが、個人的にはリアルタイムで見ていて少し違和感もあったので考えをまとめてみたいと思います。

(1)人格攻撃や誹謗中傷はダメ

まず大前提として、(たとえ生前であっても)個人・公人への人格攻撃や誹謗中傷の類は当然ダメだと思います
例えば、「あいつは人間のクズだった」とか「あいつが死んでせいせいした」といった発言は、やはり個人に対する最低限のリスペクトを欠く発言ですから、批判されて当然でしょう。
そういう意味では、これもニュースになりましたが、朝日新聞に掲載された安倍元総理の死を喜んでいるように読める川柳なんかは、個人(故人)の尊厳を否定するような発言で当然に批判されるべきだと思います。

(2)その人の成した仕事への批判は許されるべき

一方で、その人が生前に成した仕事というのは、人格とは離れて死後であってもフェアに論評されるべきですし、当然に批判も受けるべきです。

例えば元横綱の千代の富士は、幕内での53連勝など数々の記録で有名ですが、一方で多くの八百長相撲に関与していたことが数々の証言で明らかになっています。千代の富士は既に鬼籍に入っていますが、だからといって「八百長に加担しすぎたのはよくなかったよね」と彼自身の仕事を批判することが許されないわけではありません。

また笑い飯哲夫さんと同じお笑い芸人のドンとして松本人志さんがいますが、彼もお笑い芸人として多くのコントや芸風を生み出したという功績がある一方で、映画監督として作ってきた作品はどれも駄作であるというのが、世間である程度固まった評価だと思います(大日本人からR100まで全て見た私も大体同じ感想)。
仮に松本人志が亡くなった場合、少なくとも四十九日の間は作品の批判もしてはいけないということになると、「松ちゃんの映画ってどれもクソ映画だったなあ」というごくごく当たり前の作品への感想や評価すら表現できず、ネットなんかでは「松ちゃんの映画って全然よかったよね」という評価が死後に突然増え始めるのでしょうか?
場合によっては、同じ作者の作品でも生前と死後とで評価が一変することになりかねませんが、これが健全な社会だと感じる人はごくごく少数派の気がします。

(3)日本における言霊の問題

ただしここで厄介なのは、日本社会で特に影響が強いとされる言霊信仰の問題です。これは、不吉な言葉を口にしてしまうとその事が起こるとまずいから口にしないでおこう、というもので、『臭いものに蓋をする」という日本人の性質を裏付けている信仰(迷信?)でもあります。さらに、「死者の呪いがあるといけないから、死者の悪い面は口にしないようにしよう」というのも言霊信仰の一種で、日本では死者への冒涜を許さないという傾向が強く出ることが様々な書籍等で指摘されています。

このように、日本人というのは死者への批判を生理的にしにくい性質があり、その事が故人の人格と仕事とをゴッチャにして、「一切の故人への批判が許されない」という雰囲気になることが多いと感じます。

だけどこれは非常にまずい傾向で、本当は公人であればあるほど、後世の社会をより良いものにするために、その人の成した仕事というものを人格と切り分けてフェアに検証・評価・反省することが重要なはずです。

それに照らすと、私故人の安倍元首相の評価は、「経済・外交・安保面で日本の将来を考えた数々の政策を実行した功績はあるが、統一教会と近い関係を持ったことは非常に軽率であった」というものです。

そして何より重要なことは、この評価は安倍元首相の人格的な評価ではなく仕事への評価であって、例え四十九日の間であっても変えるべきではないということだと思います。



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