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葛西裕一vsアブラハム・トーレス 1993年4月3日 「後楽園ホールのベランダより~追憶の90年代ボクシング Vol.8」

世界に一番近い男、葛西裕一の冒険マッチ。

1993年4月当時、日本の世界チャンピオンは、鬼塚勝也ユーリ・アルバチャコフのふたりのみ。つい一年前には5名もいたが、平仲、辰吉、井岡と続けてタイトルを失い、新たに王座を狙った渡辺雄二ヘナロ・エルナンデスに惨敗、ロッキー・リンリカルド・ロペスに強烈なKO負けを喫する。大橋秀行のみは見事タイトルを獲得し二度目の王座に就いたものの、翌年2月の初防衛戦で敗れてしまった。

そんな当時の日本ボクシング界で、ネクスト・チャンプとして最も期待されていたのは、葛西裕一八尋史朗の帝拳コンビ、そして川島郭志(ヨネクラ)あたりだったように思う。

その葛西裕一の次戦の相手がアブラハム・トーレスであると知った時は、やはり興奮した。トーレスといえば、辰吉丈一郎相手に分の良い引き分けを演じ、辰吉の世界挑戦を遅らせた男。WBAでは世界バンタム級6位に位置するバリバリの世界ランカーだ。世界に一番近い男がこの難敵を相手にどんな勝負を繰り広げるか。一階級下とはいえ、もしもよい勝ち方をするようなら、一気に世界タイトルへと向かうことができるだろう。現在の葛西の力量を計るのにも最適の相手に思われた。

前座試合では後のセレス小林が登場。

さて、当日の興行である。ボクシングマガジン93年6月号『熱戦譜』を確認すると、メインの他に10回戦1試合、そして4回戦が5試合組まれている。
10回戦に登場したのは後の日本ストロー級王者、当時は2位にランクされていた玉城信一。前年に細野雄一と日本タイトルを争い敗れて以来の再起戦だ。相手は比国のロンメル・ラワスだが、正直、試合内容は何一つおぼえていない。

目を引くのは、4回戦で、後の世界チャンピオン、セレス小林が本名の小林昭司として出場し、勝利を収めていることだ。同じく4回戦には、後に日本ジュニア・フェザー級タイトルに挑戦する丸山哲臣が出場し、こちらは判定負けを喫している。

丸山はワタナベ所属だったので、たぶん思い入れをもって試合を観ていたはずだが、さすがに内容はおぼえていない。この日は、ワタナベの選手が3名出場していたが、全員が判定負けに退いている。

ちなみに僕は前年の7月いっぱいくらい、ちょうど一年ジムに通ったところで、ワタナベジムに行かなくなってしまっていた。元々ダイエット目的だったこともあり、10㎏ほどの減量を達成してある程度目的を果たした感があったことが大きな要因だが、なんだろう、自分でもよくわからない。それまで判で押したように週4、5回ほどのジム通いを続けていたのに、ある日糸がぷつんと切れたように足が向かなくなってしまった。特に退会届をだすこともなく、フェードアウトしたような形になったのは、今でも少し心が咎めている。

何とも煮え切らなかった、葛西裕一vsトーレス。

そんなことはさておき、メインイベントの葛西vsトーレス戦である。こちらは動画がネットにアップされているので、参照しつつ、試合を再構成してみたい。

この時点での葛西の戦績は16戦全勝12KO、対するトーレスは15勝(6KO)2敗1分である。

初回。お互いに左に回りながらジャブを突きあう。このラウンドは距離を測っているのか、両者ともにジャブ以外をほとんどださない。このままラウンド終了かと思われたが、トーレスがスピードを上げた深めのジャブを二発打つと、それがポンポンと葛西の顔面をとらえる。それを受けて、葛西がほぼ初めて力をこめた右ストレートを放つが、これはヒットしない。

2回。この回も変わらずジャブを突きあう両者。スピードはやはりトーレスが一枚上だ。しかし、トーレスも踏み込んで、後続打を当てにくる素振りはない。それでも、ときおり葛西のジャブに合わせてボディ・アッパーも放つなど、スピードと柔らかな上体の動きが印象的。そして、初回よりもトーレスのリターン・ジャブがよく当たっている。

3回。ここまでは明確な差はなくほぼ互角ながら、どちらかに振り分けるとすればトーレスになるのでは、というのが動画を見直した僕の感想だ。葛西とすればペースを引き寄せたいところだが、まだジャブ以外をほぼ出していない。1分半くらいに葛西が鋭いワンツーを放つ。それにトーレスはカウンターをいいタイミングで合わせてみせた。これは相打ちになり、両者ともにダメージはなし。続いてトーレスは左一本でのコンビネーションをヒットさせる。葛西も負けじと返し、これも浅くはあるがヒット。ようやく試合に動きが出始めた。その分、トーレスのパンチが少しづつクリーンヒットしはじめ、葛西の頭を跳ね上げるシーンも。このラウンドは、トーレスがとったようにみえる。

4回。まだまだ左の差し合いが続く、というより、葛西が右を出せないでいるようにも見える。前のラウンドでワンツーにカウンターを合わされたのが効いているようだ。左の差し合いでは明確にトーレスが上回っていて、クリーンヒットが増えている。客席からは、トーレスの鋭いジャブに感嘆の声があがる。ハンドスピードもトーレスに分があるのがはっきりしてきた。中盤から、葛西はワンツーを何度かみせる。トーレスのリターンをさらにリターンすると、何発か軽くヒット。やはり手数を増やした方が活路はありそうだ。しかし、ラウンド後半には、トーレスが立て続けに体重を乗せた右ストレートをヒット。葛西のジャブに右をかぶせるなど、動きをかなり見切っているように感じられる。それもあって、葛西は手数が少ないのかもしれない。明確にトーレスのラウンドか。

5回。開始早々、トーレスの右のフェイントを入れてからのジャブ、いわゆる逆ワンツーがクリーンヒット。そのスピードとテクニックの鮮やかさに、観客からどよめきが起こる。観客の多くも葛西とトーレスのテクニック差を明瞭に感じている。葛西はワンツー、距離をつめてフックを狙う。いくつかが軽くヒット。そうなのだ。いつまでも中間距離でジャブの差し合いをしていても展開は変わらない。スピードで若干劣るとはいえ、葛西のワンツー、返しのフックもコンパクトかつスピードに乗っている。何かを起こしそうな雰囲気は十分にある。しかし、後続打はトーレスのジャブに阻まれて、それ以上ダメージを与えることができない。それでも、葛西は狙いすました右ストレートや、トーレスとほぼ同時のタイミングで放つパンチを何発かヒットさせる。しかし、ラウンド全体を支配していたのはと問われると、それはやはりトーレスの方だと思う。

6R。前のラウンドで打ち合いに活路を見出したかのように思われた葛西だったが、このラウンドは左の差し合いに戻ってしまい、後続打があまり出ない。こうなると、トーレスのペースだ。ジャブで度々葛西を頭を跳ね上げる。解説のファイティング原田さんの「1234まで続けて打たないと。トーレスはやりやすいと感じているのでは」という解説に同意する。

7R。引き続き、葛西は後続打が出ない。トーレスはそれをよいことに(?)葛西のジャブに対してのリターンを軽くはあるがヒットさせる。中盤にようやく、葛西はワンツーなどを振っていく。距離が近くなると、やはり葛西のパンチもヒットする。しかし、後続打はやはりトーレスの鋭いジャブに抑えられてしまう印象だ。それでも前に出る葛西にようやく観客席も活気づき、葛西コールをおくる。後半、葛西の右がややカウンターのタイミングで入ったのをきっかけに、両者は距離をつめて、左右のフックを打ち合う。しかし、ここでも葛西は頭を度々はねあげられ、トーレスが打ち勝っているようにみえる。

8R。休憩中に本田会長から「中に入って打ち合え」という指示が出たようだが、やはり葛西は入れない(入らない?)。トーレスは基本待ちのボクシングで、葛西のジャブや単発のストレートにリターンを返す。葛西が打ってこなければ軽くジャブを打っていく。なんだか軽いスパーリングをやっている感じにもなってきた。中盤、若干トーレスが珍しく自ら打っていき距離がつまる。葛西もコンビネーションをまとめる。ここでもクリーンヒットはトーレスの方が多い。トーレスはインファイトでも自分が上回れると踏んでいるようだ。2分半すぎ、余裕たっぷりに葛西をいなしていたトーレスに、葛西の右アッパーが入った。ちょうど死角からのパンチになったのか、トーレスはこれをまともに受ける。腰が砕け、よろよろと後退する。この試合初めてのビッグチャンスが葛西に訪れた。葛西は詰めにかかるが、トーレスは逆に前に進んでクリンチ。なんとかゴングまで逃げ込んだ。僕の目には、ほぼ初めて葛西が明確にとったようにみえた。

9R。会場はようやく訪れた葛西のチャンスに湧いている。が、葛西は前に出ない。サークリングしながらジャブを突いていく相変わらずの展開だ。逆にトーレスが前に出てくる。ここでようやく葛西はそれらをかわしつつ、アッパー、または右ストレートから返しの左フックなどを素早く返していく。反応はいい、リズムもある。もっと早くこういうボクシングをしていれば(と思うのは素人の勝手な思いだろうが)。ラウンド中盤からはほぼ頭をつけ合う距離でのパンチの交換。試合巧者のトーレスは、体をあずけるように前へ出てパンチをふるい、葛西を下がらせて、パンチの勢いを殺している。葛西にとっては明確にとりたいラウンドだったが、僕の目には後半トーレスが盛り返して、おさえたようにもみえる。

最終回。最後のラウンドをどうしてもおさえたい葛西。踏み込んでの左フック、右ストレートと手数をふやし、トーレスに迫る。トーレスはそれに応じるようにパンチを返すが、しばらくすると距離をとり、ジャブやリターンパンチを主体にするスタイルに戻る。葛西はここでさらに距離を詰めたいところだが、トーレスのジャブがやはり邪魔だ。葛西の手が止むと、今度は自分からジャブ、ワンツーと攻め込んでくる。トーレスにも倒す姿勢が感じられないので、一方的にはならないが、空間を支配しているのは明らかにトーレスの方だ。後半一分は、ふたたびトーレスの方が頭をつける距離につめ、左右を振る。葛西は浮き上がる体勢になってしまい、思うようなパンチが出ない。コツコツとトーレスのパンチを浴びながら終了のゴングが鳴った。

微妙な判定と、その後のふたりの軌跡について。

終了のゴングとともに両手を突きあげたのはトーレス。葛西も少し遅れて、両手を掲げて勝利をアピールする。

そして、いよいよ採点の発表だ。一人目のジャッジ、森田は98対97で葛西の勝利。応援団からワッと歓声があがる。二人目のジャッジ、島川は99対98でトーレスを支持。どよめきが会場から起こる。ファンの多くは辰吉戦と同じく、ホームタウンディシジョン的な採点を予想していたのだろう。今度は公平な採点がされているのかも。そう観客が思ったのもつかの間、三人目のジャッジ、金谷の採点は98対98のドロー。三者三様で結果は引き分け。

動画をみると、ここで場内からは歓声とともに大きな笑い声が起きている。「結局、辰吉の時と同じかよ」というような反応だ。観客の多くには、トーレス勝利に映っているようだ。僕にしても「さすがにこの内容で葛西の勝ちにはできないよな。引き分けでも苦しい」と思いつつ、リングを眺めていた。

一部の観客がトーレス・コールを始める。トレーナーはもう一度、トーレスを抱え上げてぐるぐると回す。葛西は少しバツの悪そうな笑顔を浮かべながら、四方に頭を下げている。

ユーチューブにあがっている動画には映っていないが、トーレスがリングを降りると、ファンたちが彼を取り囲み、胴上げをするかのように彼の体を抱え上げていたのを覚えている。トーレスは何をされるのか分からず、相当に戸惑っていたようだったがw。

僕の目には、ファンからのせめてものトーレスへの餞のようにも感じられた。なんと言っても彼は、二度までも勝利を盗まれたに等しいのだから。

あらためて判定を見直してみる。1、2、6、9ラウンドの4ラウンドを3人のジャッジが揃って10-10の互角としている。島川氏にいたっては、10ラウンド中7ラウンドを互角としていた。ラウンドマスト・システムが浸透した現在ならば、その大半はトーレスの方に流れて、中差判定勝ちくらいが妥当な内容に思える。

しかし今回、久しぶりに試合を観返して改めて思ったのは、トーレスの勝負に対する淡白さだ。まず、自分から攻め込む場面がほとんどない。ジャブが鋭くヒットしても、後続打を出さない。前に出るのは大体、相手のパンチがヒットして、それを挽回するために限られる。勝利への貪欲さのようなものがまるで感じられない(あるのかもしれないが)のだ。

これは穿った見方かもしれないが、負けさえしれなければそれでいいというか、敵地の無敗のホープのレコードを傷つけることなく、自分のプライドも守られる形であれば、別段勝ちがつかなくても文句はないと思っているようにもみえるのだ(あくまで個人的な見方です)。

煮え切らない戦いぶりについては、葛西に対しても同じように感じた。あまりにもトーレスの得意な中間距離にとどまりすぎて、あたらやすやすとペースを渡してしまった感が強い。そして、それを打開するための策が、ほとんど見られなかった。

トーレスに歴然とした差を見せつけられる形となり、「世界に一番近い男」としては、物足りなさを感じさせる試合に。「これで一旦、仕切り直しかなあ」などと思っていたが、結局、葛西の次戦は日本タイトルマッチの防衛戦となる。そして、秋に前哨戦をはさみ、翌年への世界挑戦へと進んでいく。

トーレスが日本のリングで勝ち名乗りを受ける姿をみたいと僕は思っていたが、以後、トーレスが日本のリングに立つことはなかった。

そして、彼が世界戦のリングに立つまでに、ここからさらに5年の月日を要することになる。98年2月にようやくチャンスが訪れた時、トーレスは30歳になっていた。そして、王者、ナナ・コナドゥの豪打を浴びて、2RKO負けに退いている。この年、引退。葛西の引退の翌年のことだ。


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