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場内整理のアルバイトで観た原田真二とザ・モッズ。 HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.3「MODERN VISION」「バラッドをお前に」

■ 原田真二「MODERN VISION」 作詞:作曲:編曲:原田真二 発売:1984年3月21日
■ THE MODS「バラッドをお前に」 作詞:作曲:森山達也 編曲:THE MODS 発売:1984年2月1日


喫茶店に貼られた一枚の紙に誘われて…

1984年、僕は高校三年だった。

「ナカニシ、ちょっと時間あるけ?」クラスメートの北沢(仮名)が声をかけてきた。「コーヒーでも飲みに行かんけ?」

北沢とは二年の時も同じクラスだった。三年になると、クラスは就職組、私立文系組、国公立文系組、理系私立組、理系国公立組に分けられる。僕と北沢は三年四組の私立文系組クラス。と言えば聞こえはいいが、つまりは、国公立を狙うには学力が足りないグループに属していた。

北沢が僕を連れていったのは、学校から数百メートルほどのところにある喫茶店「ばん」。彼は慣れた調子でコーヒーを二人分注文すると、店の片隅にあるB5ほどの紙に、自分の名前をかきこんだ。

「あ、お前もやってみる?」と北沢は振り返ると、僕に言った。紙を見るとそこには、「5月××日、石川厚生年金会館、原田真二」と、ボールペンの手書きであった。その下には、1~20まで番号がふってあり、10番ほどまで名前が書きこまれていた。

「コンサートの搬入搬出のバイトなんやけど、運が良ければライブも観れるぞ」。お金をもらった上に、ライブを観ることができる。そんな夢のような話があるのか!「やる!やる!」原田真二には特別興味はなかったが、僕は一も二もなくそう返事した。そして、彼の名前の下に自分の名前を書き入れた。

「ばん」には、やはり近くの金沢工業大学の学生が多く出入りしていたが、どうやら制作会社のFOB企画の社員にこの大学の出身者がいるようで、喫茶店にたむろする学生たちをバイトとしてリクルートしていた様子だった。万事に世慣れた雰囲気を漂わせている北沢は、高一からすでにこの店に出入りしており、大学生にまじってアルバイトのリストに名前を連ねていた。

しかし、振り返るに、80年代はまだまだのどかな時代だったと改めて思う。そのリストには、ただ名前を書き込むだけで、身元確認のための連絡先ひとつ書き込む必要はなかった。これでは名前を書き込んで当日現れなくても連絡のとりようがないし、その人物が一体、大学生なのか高校生なのか、もしかして中学生であったとしてもわからない。まあ、そのおかげで、当時は基本的に校則違反だったアルバイトに堂々と出かけられたわけなのだが。

そして、目の前の北沢は学生服のまま、堂々とうまそうに煙草をくゆらせている。そして、僕の視線に気づくと「あ、ここ、何も言われないから」と言い、煙で丸い輪っかを作ってみせた。

原田真二at石川厚生年金会館~初めて触れた音楽の現場

さて、当日。ライブは平日開催だったので、学校にいくふりをして家を出て、途中で着替え、会場の石川厚生年金会館(現在の名前は、本多の森ホール)へ向かった。確か、午前9時くらいに集合。昼過ぎまでかかってステージの設営を行った。バイトの学生たちは、主に力仕事を担当する。スピーカーやモニター、楽器、コード類を、搬入口につけられた大型トラックからステージ上へ運び込み、続いて指示を受けながら所定の場所に設置していく。

アルバイトも初めてなら、大ホールでの生ライブも実はこの時点で未体験だった。スタッフたちのてきぱきとした仕事ぶりや、見慣れない音響機材の数々など、すべてが新鮮に映った。

ステージの設営が終わると、会場ではリハーサルが始まり、アルバイトの仕事はひと段落する。あとは受付周りや物販の設営が少しあるだけで、基本的に、開場まですることはほとんどない。その間に、開演中の持ち場が発表され、無事に僕は会場内に回された。これでライブも観ることができる(本当は観てはいけないのだけれど)!

開場の直前には、アルバイトの人間が集められ、FOBの社員から仕事上の注意事項など話があった。「昨年、ある会社の企画で原田真二の無料招待ライブがあったんだけど、その時は超満員でめちゃくちゃ盛り上がってね。暴動寸前みたいな感じだったよ。だから、今日も十分に注意をしてほしい」

会場に入り客入れの時間を待つ。僕の持ち場は上手側、前から15列目ほどの通路だった。やがて開場時刻となり、観客が入り始めたのだが、何か様子がおかしい。全然、人が増えないのだ。開演近くにどっと押し寄せるかと思ったが、それもなさそうだ。この会館のキャパはおよそ1700で、県内でも最大規模。しかし、前方数列が埋まっているだけで、あとはまばら。多く見積もっても、300人もいないのではないか。

状況にとまどううちに、客電が落とされ、ライブが始まった。ガーンと演奏が始まるかと思いきや、原田真二が掃除人のような格好で舞台上に現れる。時おりパントマイムを交えながら舞台上をモップをかけるなど掃除をするような仕草。洒落たオープニングだなと思いながら、僕はそれを横目でみていた。

ちなみに30年後、ユーチューブを観ていて、かなり似た演出のライブ映像に偶然ぶちあたった。STYXの81年ツアーのオープニングの場面。たぶん、ここからアイデアを得たことは間違いないと思われる。

余談はさておき、84年5月、石川厚生年金会館での原田真二のライブである。センターマイクの前で掃除人の衣装を脱ぎ捨てると同時に、バンド、クライシスの演奏が華々しく始まり、原田真二が両手を宙に突き上げる。ショーのスタートとしては申し分ない。が、ガラガラの客席を前にしては、どこか滑稽さも感じないではいられなかった。

1984年5月当時の原田真二は、3月にシングル『MODERN VISION』と同名のアルバムを発表したばかり。前年、古巣のフォーライフに復帰し発表したシングル『雨のハイウェイ』は、『てぃーんずぶるーす』『キャンディ』『タイムトラベル』など初期の大ヒット曲を作詞した松本隆が担当。「原田真二の再デビュー」として話題になり、久々にスマッシュ・ヒットを記録「ザ・ベストテン」にも「今週のスポットライト」コーナーで出演した。僕もリアルタイムでこれを観ていた。

ヒットの余勢と意欲的な新譜を携えてのツアーだったと思われるが、それでも石川県最大キャパの会場は、当時の彼の集客力を考えると無謀だった。ガラガラの客席を前に奮闘する原田真二の姿に、僕はショービズ界の厳しさを感じずにはいられなかった。

それでも、彼の音楽は当時洋楽少年だった僕をも十分に満足させるモノだったし、初めて体感した大音量のバンド演奏は刺激的だった。数日後には、原田真二ファンだという同級生から『MODERN VISION』のカセットを借りることもできた。また、一つ前のシングル『愛してかんからりん』を地元の貸しレコード店で発見し、レンタル。「愛して…」は、しばらく僕の愛聴曲になった。

改めて聴いたアルバム『MODERN VISION』もとても魅力的な一作だった。当時の日本のロック・ミュージックの最先端を行くサウンド、唯一無二の原田真二のボーカル、どちらも素晴らしい。…のだが、作詞面だけは物足りないものを感じた。

革新的なサウンドに比し、言葉の面ではかなり旧態然とした印象を受けた。リード曲『MODERN VISION』のサビを例にとると、「It's Modern Vision きらめきLady 都会の女 It's Modern Vision ときめきVision 君のことさ」という調子で、思わずコンポの前で「う~ん、曲はカッコイイんだけどな~」と腕組みしてしまうのだった。

そして思った。松本隆ならば、一体どんな歌詞をつけただろう?と。

それからも、80年代後半あたりまで、シングルを中心に聴く程度ではあったけれど、原田真二の新譜を追い続けたが、基本的な印象は変わらなかった。「サウンド、アレンジは最高。歌詞だけは…」


THE MODS at 石川厚生年金会館~高校時代最後の現場 

夏休みが終わり、二学期に入っても、設営のバイトには数回でかけた。浜田省吾、長渕剛などなど、興味のあるアーティストの現場に入り、幸運なことにどれも会場内の担当になり、ステージの内容を感じることもできた。

本来なら受験に向けてそんなことをしている時期ではなかったが、これには理由があった。

9月にあった文化祭当日。控室で、ある友人のギターを肩にかけようとした時にストラップが外れ、ギターを派手に床に落っことしてしまった。ネック部分が傷つき、後日「ギターを知り合いに売るつもりだったけど、傷がついたことでご破算になった。すまないが5万でギターを買い取ってくれないか」と彼から電話がきた。僕はそれを了承した。両親を頼りたくなかったので、お金は設営のバイトでなんとかしようと思っていた。

結論から言うと、僕はこの約束を果たせなかった。バイトのギャラは当時一日5~6000円程度。結局3万円近くまでいったところで、僕はあきらめてしまった。彼は僕に催促をすることはなかった。そして僕は彼の優しさに甘えた。けれど、彼との関係は気まずくなり、友人関係自体は終わってしまった。たかだか5万円程度のお金のために、僕は人間関係をひとつ失ってしまったのだ。このことは高校時代の痛恨事のひとつとして、今も僕の胸を時々ひっかく。

それはさておき、その時点の僕はお金の工面のために、次なる現場に入った。前年に『激しい雨が』の大ヒットを放ったばかりのTHE MODS。会場は、原田真二と同じ石川厚生年金会館。

会場こそ同じだったが、客層はかなり異なった。失礼な言い方を許してもらえるなら、あの時より圧倒的にガラが悪い。リーゼント、剃り込み、細い眉、それに鋲付きの革ジャン。見るからにイカつそうな野郎どもが大半を占めていた。

僕の持ち場は、最前列から10列目ほどの通路。開演時間が近くなると、そこにしゃがみこんで両手を広げ、ちょうど通せんぼするような態勢で、両の手を座席にかけた。もちろん、そうするように指示されたのだ。興奮した観客が席を離れて、前に押し寄せるのを防ぐための人間防波堤だった。

そんな僕をみて、近くのイカつい男たちが目くばせをしたり、ひそひそ話す声が聞こえてきた。「始まったら、あいつぶっ飛ばして前に行こうぜ」。はっきりとそんな声も聞こえた。中には挑発的な視線を、僕に投げかけてくるヤツもいた。ガンを飛ばすというやつだ。

なんでこんな現場に入ってしまったんだろう…。初めて会場内に配置されたことを恨んだ。脳裏には、少し前の体育祭で、柔道部の二見にドロップキックされて吹っ飛んだ棒倒しの時の情景が浮かんだ。

「バラッドをお前に」から芽生えた思い

客電が落ち、歓声が沸き上がる。僕は思わず目を閉じ、体を堅くした。次の瞬間に襲われるだろう衝撃に身構えたのだ。体当たりがくるか、キックがくるか…。

しかし、恐れていたような衝撃は一向に来ない。恐る恐る目を開けて、周囲を見回して理解した。観客たちは我先に、通路ではなく、客席を次々に乗り越えてステージ前に雪崩のように殺到していたのだ。あっという間に、座席は意味をなさなくなり、客席はオールスタンディング状態と化していた。

僕ひとりが通路で通せんぼした所で、これではまったく意味がない。かと言って、観客に注意しても聞いてくれる者はないだろう。というか、今度こそキックかゲンコツが飛んできそうだ。僕はただ無意味な姿勢をとり続ける以外、どうしようもなかった。

ふと、ひとりの少年が僕の前にやってきた。と思ったら、当時高校一年の弟だった。彼はモッズのファンで、時々部屋からはモッズの曲が漏れてきていた。そのちょっと前までは、たしか横浜銀蝿のファンだったはずだが…。

「前、行かしてや」と弟は言った。「ダメに決まっとるやろ」「でも、みんな行っとるがいや」。少しの間、そんな押し問答をしてから、彼を前に通した。FOBの社員にこの場面を見られていないことを祈りながら。

観客のリアクション自体は熱狂的だったが、客数自体はちょうど原田真二の時と同じくらい、1700人のキャパに対して、3~400人程度ではなかっただろうか。ほとんどの観客はステージ前に密集し拳を突き上げていて、たまに何人かがメンバーにアピールするようにガラガラの後方からステージへ向けて手を振ったりしている。

ライブも中盤を過ぎた頃だろうか。やがて、聞き覚えのあるギターのイントロが静かに始まった。84年2月リリースのシングル『バラッドをお前に』だ。先ほどまで乗りまくっていた観客も、しんとして聴き入っている。弟の部屋に転がっていたカセットをよく聴いていたので、歌詞まで覚えていた。

「俺はぽつんと部屋にいる いらだちが鼻歌を誘う」

森山達也の声が場内を満たしていく。いわゆるめんたいロック系で、森山達也の歌心というかボーカルの説得力は群を抜いていると、当時も今も思う。

「知らぬ間に手を汚したぜ お前の嫌いな仕事をしてる」

「お前の嫌いな仕事」とはどんな仕事なのだろう?でも、具体的に説明
したり、「危ない~」などとありきたりな言葉を使われるよりも、さらに想像力がかきたてられる。壊れてしまった二人の関係も、自然に伝わって来る。

平易かつ少ない言葉数で、歌詞の背後にある豊かなドラマ性を聴衆に感じさせる。その手法は、ブルース・スプリングスティーンを思い起こさせる鮮やかさだ。ザ・モッズの人気の理由のひとつは、間違いなく森山達也の作詞力にある。

「お願いだ Baby そばにいて笑って 
その顔がみたくて 俺は ボロボロになる」

近くのイカつい男たちも、このセンチメンタルなサビに声を合わせて歌っている。ステージの光が、彼らの顔をうすく照らし出している。みんないい顔をしている。開演前に抱いていた彼らに対する恐怖はもう消えていた。多少やんちゃでも、ライブ中の彼らはただ全力でライブを楽しもうとしているだけで、暴力的な雰囲気はかけらもない。彼らの顔のひとつひとつを眺めていると、ステージの下にもうひとつ別のステージがあることが実感できた。

そして思った。

どんな形でもいい。いつか音楽に関わる仕事ができないものか、と。

終演後、弟が僕の所にやってきた。満足そうな顔をしているかと思えば、浮かぬ顔である。途中で財布を客席のどこかに落としたことに気づいて、ライブの半分くらいの時間を必死で探し回っていたのだという。「それがなかったら、もっと楽しかったのに。くそー」

この少し間抜けな少年が、この年からちょうど10年後の1994年、あるバンドのドラマーとしてメジャー・デビューを果たすのだが、もちろんそんなことは僕も、そして本人さえ当然この時は知る由もない。


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