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1976年、石川の秋。具志堅用高と王貞治と志村けんと。 HOKURIKU TEENAGE BLUE 1980 Vol.18 志村けん『東村山音頭』 

■ 志村けん『東村山音頭』  作詞:土屋忠司 作曲:細川潤一、補作詞・補作曲:いかりや長介・志村けん 発売:1976年9月1日

コマネチが躍動した「モントリオール・オリンピック」。

前回「HTB Vol.17 1976年、石川の夏。小松辰雄とたいやきくんと小学校のプールと」の続編となる今回。1976年(昭和51年)の秋について書きます。

この年の夏、郷里、石川県の星稜高校が甲子園大会でベスト4にまで進出し、一気に僕のなかでスポーツ熱が高まったことに前回はふれました。

しかし、実際にはその少し前からあるイベントによって、すでにスポーツへの興味が大いに高まっていたのでした。

そのイベントとは、カナダ・ケベック州、モントリオールにおいて、7月17日から8月1日まで開催された、通称「モントリオール・オリンピック」です。

その前の1972年ミュンヘン大会については、当時5才で物心はついていたものの不思議なほどにまったく記憶にないので、このモントリオール大会が、僕にとっては意識的に初めてみたオリンピックでした。

この大会を代表するというか、ほぼ話題を独り占めした感があったのが、ルーマニアの体操選手、ナディア・コマネチでした。

弱冠14歳の天才少女は、種目別で段違い平行棒と平均台で10点満点を叩きだして金メダルを獲得し、個人総合でも金メダル、さらに床の銅メダルと団体の銀メダルを加えて、5つのメダルを獲得。白い体操着姿で平均台の上を華麗に舞う姿は、当時9歳の僕にも強烈な印象を残しました。

他にも、金メダルを獲得した女子バレーなども熱狂しつつ観た記憶があります。

それ以前にも、野球を筆頭にボクシングやプロレス中継など、スポーツ番組は様々に観ていたはずですが、それまでとは違う種類の強烈な興奮を味あわせてくれたのが、このモントリオール・オリンピックでした。

次の80年モスクワ・オリンピックは、ソ連のアフガン侵攻に抗議する名目でアメリカ等と足並みを揃える形で日本も大会をボイコットしたため、84年のロサンゼルス・オリンピックまで次のオリンピック体験を持つことはできませんでした。

十代前半のオリンピック体験をミスした僕らの世代にとって、モントリオール・オリンピックは小中学生時代に目撃した唯一のオリンピックとして、強く記憶に残っています。


10月10日、王貞治がベーブ・ルースに並んだ日。

さて、そんなスポーツの祭典、オリンピックを横目にしながら、一方で全国の子供たちが注目するもうひとつの大イベントが進んでいました。

巨人軍、王貞治選手のホームラン記録です。

前年、1975年はホームラン33本に終わり、13年にわたり守り続けた本塁打王の座を阪神・田淵幸一選手に明け渡したものの、この年はうってかわって絶好調。オールスター・ゲームまでに32本という驚異的なペースで本塁打を量産します。

そして、7月23日、まさにモントリオール・オリンピックのさなかに、ついに700号に到達します。この大記録は当然大きく報道されましたが、当時の僕の記憶ではここが一連の狂騒曲の「ほんの始まり」という印象でした。

700号に到達したということは、ベーブ・ルースの本塁打記録714本はすぐそこです。ここからは王選手が一本本塁打を打つごとに「ベーブ・ルースの記録まであと〇本」という具合に、全国を巻き込んでのカウントダウンが開始されました。

たぶん僕がベーブ・ルースの名前を知ったのも、この時だったはずです。

当時は、巨人戦はほとんどテレビ放送されていた時代。王のホームラン見たさに、ナイター中継はほぼ毎試合しっかり観ていました。テレビや新聞の報道も熱を増していき、当時小4の僕には、まるで王選手を中心に世の中が回っているかのように感じられるほどでした。

ルースに並ぶ714号が飛び出したのは、当時の体育の日にあたる10月10日、対阪神戦。この日、2本塁打をかっ飛ばし、一気に713号、714号と出て、ついにベーブ・ルースの本塁打記録に並びました。そして、勢いのまま翌日も通算715本目の本塁打を放ち、ルース超えを果たします。

結局、この年、王選手は49本塁打を放ち、見事本塁打王の座を奪還。通算本塁打数を716本まで伸ばしました。ハンク・アーロンの持つ本塁打世界記録、755本まではあと39本。翌77年は、この記録を巡ってさらなる大フィーバーが巻き起こったのは、同世代ならばご存知の通りでしょう。


10月10日に待っていたもうひとつの衝撃。具志堅用高が世界タイトルを奪取。


さて、王選手がベーブ・ルースの本塁打記録に並んだ記念すべき10月10日、僕の人生において、もうひとつの、というかさらなる大事件が待っていました。

こちらも昭和を代表するアスリートの一人、ボクサー、具志堅用高の登場です。

この日、具志堅は初の世界タイトルマッチに臨みます。相手は、リトル・フォアマンの異名を持つ、WBA世界ライトフライ級王者、ファン・グスマン(ドミニカ共和国)。

たぶん、僕が小学生時代に観たすべてのスポーツ・イベントの中で、最も衝撃を受け、その後の人生を大きく変えることにまでなったのが、この試合でした。

この試合を観ていなければ、具志堅の試合を楽しみにする小中学生活もないし、年を経て辰吉の登場でボクシング熱が再燃することなければ、後楽園ホールに通うこともなかったでしょう。その後、自分でもボクシングジムに通い始めたり、ついにはボクシング業界の隅っこに身を置くに至ることもなかったはずです。

僕の人生の大きな柱となったボクシング。その実質的な出会いが、この試合でした。

この試合の中継はTBS、北陸ではMROが行っていました。当時、石川で視ることができた民放はフジ系列の石川テレビと、TBS系列のMROの2局のみ。
例えば、日本テレビが放送していた大場政夫、テレビ朝日が放送していたガッツ石松の試合などは、ついにリアルタイムでは一度も視ることができませんでした。

具志堅以前に視た記憶があるボクサーは、石川テレビで放送していた輪島功一の試合ぐらいかもしれません。対柳戦などは、おぼろげに覚えています。
当時の輪島は30歳を超えており、「中年の星」的な存在でした。比して具志堅はこの時21歳と輝くような若さ。しかし、年齢以上に、彼の存在のすべてがとても刺激的に僕には思われました。

まず、名前です。具志堅なんていう名前は、それまで耳にしたことがありませんでした。苗字といえば、田中とか中川とか、普通によく見聞きするものしか馴染みがなかった僕には、グシケンという響き自体が新鮮で、それにまずは惹かれました。続く名前も「用高(ヨウコウ)」です。ヨーコじゃなくてヨウコウ?男なのに?などと、当時は思っていたものです。

グシケン ヨウコウ。なんと不思議で魅力的な響き。。。

そして、アフロ・パーマをあてたワイルドな風貌。「ほんとに日本人なのか?」などと失礼ながら思っていました。

さて、試合が始まると、その風貌以上に具志堅のファイトはワイルドでした。両手をあご近くに添えて、小刻みに体をゆすると、素早い踏み込みで目にも止まらぬ連打を繰り出します。

2ラウンド目には、早くもその連打でグスマンからダウンを奪います。しかも、グスマンの体を半ばリングから叩きだすような痛烈なダウンでした。

もうこの時点で、僕はこの初見のボクサーに夢中になっていました。

その後も、具志堅はグスマンを圧倒し続けます。4ラウンドにもダウンを追加し、6ラウンドになるとグスマンの足取りはもうおぼつきません。

そして7ラウンド、開始直後に3度目のダウンを奪うと、グスマンはリングに大の字になり、立ち上がることはできませんでした。

場内は大変な騒ぎでしたが、テレビの前の僕も負けないくらい盛り上がっていました。レフリーのストップとともに、両手を上げて「バンザイ!」を連呼。2歳下の弟も興奮して、居間中をぐるぐると走り回っていました。

当時の日本最速記録、8戦目での世界タイトル奪取を成し遂げた具志堅はその後も防衛ロードを疾走し、いまだに破られていない13度のタイトル防衛を果たしました。

そして僕は、そのすべてを欠かさずテレビ観戦することになります。小4から中2にかけての約4年半。子供時代の最大のヒーローは?と問われれば、僕は王選手と並んで具志堅用高と答えます。


1976年、「たいやきくん」と並ぶ心のベストテン第一位は?

さて、ここまで我が愛しの1976年を振り返ってきましたが、基本、邦楽ヒット曲について語る本コラム・シリーズですから、最後はやはりこの年のヒット曲について書きたいところです。

とはいえまだ9歳なので、音楽と言えばテレビから流れてくるものがほぼすべての年代。すぐに思い出せるのは、ピンクレディー『ペッパー警部』、キャンディーズ『春一番』、都はるみ『北の宿から』、西城秀樹『ジャガー』などなど、テレビで毎日のように活躍していた面々とその楽曲です。

けれど、もし1曲だけ選べと言われたら、前回の『たいやきくん』の他では、この曲を選ぶしかありません。

それは、志村けん『東村山音頭』です!

荒井注の脱退後に加入した志村けん。よく加入直後の志村はまったく受けず、特に最初の1年は非常に苦労したと言われます。しかし、当時、毎週欠かさず番組を観ていた僕には、そんな印象はありません。

個人的にはあっという間に馴染んで、そしてこの『東村山音頭』を機に、一気にナンバーワンの人気メンバーになったような印象でした。

しかし『東村山音頭』の初披露はウィキペディアによると1976年3月6日。志村がドリフの正式メンバーとなったのは1974年4月1日なので、そこからでも約2年が経過しています。

え?加入から『東村山音頭』まで2年もあったっけ?という感じなのですが、その後の志村の活躍で過去の記憶が脳内で書き換えられたのでしょうか。

それはさておき。

同曲はままたく間に全国を席巻。僕も一時は確実に『東村山音頭』を聴くのを一番の楽しみに「全員集合」を観ていたと断言できます。

ウケたギャグはレギュラー化してとことん使い倒すのが通例の同番組ですが、その完成形に至るまでの成長過程が観る側にとってはまた醍醐味でした。

この時も最初は歌い踊るだけだったのが、そのうちに衣装もだんだんと派手になり、ついにはバレエのコスチュームをまとい、股間からは白鳥の頭部が飛び出すという、お馴染みの、しかし今ではたぶんアウトであろういで立ちが完成。

僕もテレビの前で、股間の白鳥をゆらゆらさせながら歌う志村に合わせて「イッチョメ イッチョメ ワーオ!」と腰を振りながら絶叫していた記憶があります(PTAから苦情が来るのも理解できる…)。

しかし、苦笑しつつ振り返るならば、志村と同化して歌い踊ったこの時が、我が子供時代のピークのひとつ、だったのかもしれません。。。

ちなみに、レコードの発売は1976年9月1日。3月の初披露から半年を過ぎたあたり。『たいやきくん』のレコードは親にねだって手に入れましが、『東村山音頭』はそんな記憶がまったくありません。

というか、レコードが出ていたことすら知りませんでした。たぶん、音だけ聴いたところで面白味はないと思っていたのでしょう。

レコードが大ヒットしたという記憶もないものの、ネットで資料をみると、オリコン最高位8位売上枚数20万枚超となっているので、実際にも堂々たるヒット曲ですね。

この機会にネットで探して聴いてみました。英語MCでの志村けんの紹介から始まり、オーケストラによる煽りの演奏などもあって、なかなかギミックもたっぷりで楽しい出来です。

しまいには「今度はみなさんが歌う番です!」の声とともに、志村の合いの手を加えた演奏が同じ曲中で、もう一度繰り返されます。まあ、東村山音頭自体は普通にやれば1分少々で終わってしまうネタなので、その対策でもありますね、これは。

ともかく、1976年といえば、当時の小4としては『およげ!たいやきくん』とこの『東村山音頭』は外すことはできません。この年は他にも、『山口さんちのツトム君』など、なぜか子供向けソングの特大ヒットが続いた一年でした。

さて、2回にわたって、1976年を振り返ってみました。

書きながら、小学生の頃のことを思い返していましたが、しかし、小学生の頃は時間の進み方って、なぜあんなにもゆっくりに感じられたんでしょうね?もうずっと小学校に通っているような気がするのに、当時でまだ4年生。卒業までに「まだ2年もある」という印象でした。

当時の2年は、今と違って「はるか彼方先」という感覚でした。なんだかこのまま永遠に小学生のままなんじゃなかろうか?などと思いつつ、日々を過ごしていましたね。

それが今では、還暦がすごそこまで迫っているのですから嫌になってしまいます。人生って、困ったことに本当にあっという間に過ぎていくものですね。

一年がそれこそあっという間に飛び去って行く感覚の今。子供時代を思い返す時に懐かしく思うことのひとつは、この時間の感覚です。もう一度あんな風に一年という時間をしっかり味わってみたい。漠然とそんな風に思ったりもします。


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