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優しいという言葉

優しくしたのに、返ってこなかったとよく思う。
優しさはボランティアでもなんでもなく、私の場合そのほとんどが偽善であるため、その見返りを心の底で欲している。
初めはただ喜んで貰えるかなと撒いた偽善も、ただの自分の消費になり空いた心も埋められずただ虚しく寂しい。 

こんな価値のない自分に良くしてくれたのだから、感謝せねばならん。
感謝を形にせねばならん。
他人から受けた優しさは必ず同等以上にして返さねばならん。
こんな思想がいつしか八方美人になった。
しかしどこに、「私は八方美人だ」と思う人間がいるだろうか。私にとってそれは長らく当たり前であったし、私はただの偽善者で他者に過剰に期待する嫌なやつであった。熟語に当てはまらない自分自身の性格が誰かに八方美人と命名され、このような文を起こすに至ったわけだが、他者からの言葉で初めて名前を呼べるなんてのはよくあることだろう。

この先の見えぬ文章を綴る中でひとつ思い出した。
コロナ期間私は高校生であったが、とあるオンラインゲームで出会った年上の女性に随分お世話になった。昼夜問わず遊び、私は勝手に信頼して色々な話をした。
あるとき、彼女は課金オプション(?)のプレゼントを私にくれた事があった。彼女には、私が知るだけでもそのオンラインゲーム上に5人はよく話す友人がいたと思う。にも関わらず私にプレゼントしてくれた。それは私が未成年で、アルバイトのできない環境にいたという理由だったかもしれないが。
私は戸惑いどのようにお礼をしてよいのかわからないし受け取れないと言った。彼女は私へのお礼はいいから、いつかあなたが同じような状況になったとき同じように優しくしてくれたら嬉しいな(…のような気がする)と言った。

彼女の「その」優しさは直接彼女には返らない。だがきっと、大きくなって彼女に帰るんだろう…と思ったり。

あぁ、思い出した。ずっと忘れていたけれど。
あの日々がとても懐かしく、心地よく、眩しく感じる。みんな元気かなぁ。

なぜ優しさを受ける時はこうもモヤっとしないのに、与える側になると相手に求めてしまうのか。

私の優しさは自己満足だ。相手がこうして欲しいだろう、こうすると喜ぶだろう、と勝手に相手を測って優しさを押し付けている。その先に感謝される自分の姿しか思い描いていない。それは優しさではないのだろうな。だから帰らない。

あぁ、恥ずかしい。 相手の求めるものを満たしていると勘違いしている。偽善で満たそうとしたのは自分ではないか。
なんと青く愚か。


また春がきましたね

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