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フレーム(後半)

 次の停車駅は、病院前だとバスのアナウンスが告げた。あたしは、眼鏡フレームをバックに仕舞い、降車ボタンを押す。
 病院に着いたら、まずはトイレで、化粧直しというほどではないけれど顔をチェックしなくちゃ。今日のあたしの顔面は、色つきのUVクリームにパウダーを叩いて、色つきのリップクリームを塗っただけの、ナチュラルメイクにすら及ばない、ほぼすっぴんに近い状態だけれど、うっかり涙の後があったら嫌だから。
(プライドっていうか、何て言うんだっけ? 義侠心じゃなくて……そうだ、キョウジってやつだ)
 これからのあたしの人生の、あたしが決めた人生の
 ――矜持。
 泣き顔なんて晒したくないし、晒せない。堂々と顔を上げて、歩いて行くんだ。

秋薔薇、焼き芋

 秋と言えば、食欲の秋。
 10月のある日、秋薔薇のエレガントな香りが充満した公園の一角で、あたしたちは焼き芋を食べていた。すごい真逆な取り合わせ。焼き芋から顔を離すと薔薇の香り、焼き芋を頬張ると焼き芋の香りが鼻孔をくすぐる。
 今、手近の花壇に咲いている薔薇は、濃いオレンジ色で、少し離れたところには同じく濃いワインレッドが咲いている。秋薔薇は、春のものに比べて花が小さいが、色が濃い。そして、香りも強い。ぎゅっと煮詰めて濃縮したみたいだ。
「焼き芋の匂いを嗅ぐと、秋だなって思う」
 薔薇の香りより、ド・庶民のあたしには、これが秋の象徴だよ。
「わたしも」
 希もか。色気より食い気。食い盛り、育ち盛りのお年頃だもんな。いや、中一なら初恋の一つや二つ、とっくにあってもいいが、年齢より幼く見える希には、
(まだ早い)
 なんて、子離れしたくない親みたいなことをちょっと思う。
「風が冷たくなってくると、俺、ラーメンが恋しくなるんですよね」
 もっと無粋なヤツがいた。だが、わかる。
「あと、あたしは餃子だね。なぜだか知らないけど」
「わたし、チャーハンと、チャーハンについてくるスープが好き」
 この展開、恋バナならぬ町中華バナかよ。焼き芋が薔薇に勝った感じだ。

 秋は食欲だけじゃない。芸術の秋っても言う。
 あたしとあいつは、希のこと以外に映画の話もよくするようになっていた。そのせいか、ネットでだけど、あたしは映画をよく見るようになった。いや、映画をよく見るようになったから、映画の話もよくするようになったんだけっけか。どっちが先だったっけ。まあ、どうでもいいことだ。
「葬式シーンでのあのメイクは、『ねえだろ』って思ったんだけどさ」
「でも、印象的でしたよね。黒いレースのベールに顔が覆われて表情はわからない。でも、レース越しに、真っ赤な唇の端がちょっと上がって」
 映画的演出ってヤツか。確かに、あれは、ぞわっとして鳥肌立った。だから、それはそれでイイんだけど……。
「だったら、むしろ、葬式の後に、着替えてメイクも変えて、鏡に映る真っ赤な口紅を塗っている女の顔が微笑んでいるって方が良くね?」
「それも良いと思いますけど、月並みじゃないですか? 観客に強い印象を与えるには、やっぱりあの演出で正解じゃないですかね」
 映画の話となるとあいつはマジだ。適当に合わせるとか、流すとか、忖度するとかしない。ちゃんと自分の意見をはっきりと言う。面白いヤツだ。
「一睡もしないで泣き明かしたなら、目の下に隈を作るとかした方がいいのに、それどころか『やだわ。わたし、お化粧もしてなくて……』って言いながら、お肌ツヤツヤ、バッチリメイクって何だよって思った」
「言われてみると、確かに違和感があるなぁ。女優さんが、すっぴんを晒したくなかったとかなんですかね」
 ストーリー自体は結構、イケてて、せっかく話に夢中になってたのに、あれで
「急に冷めたわ」
 アイツも同意して、二人揃って苦笑した。
 それから、風呂上がりにパジャマ着て、これから寝ますっていうのに、薄化粧してんのも許せない。
「美咲さん、メイクに目が行きますよね。視点が面白い」
 言われてみれば、そうかも。気付かなかった。
「でも、リアルを求めるなら手を抜いちゃいけない部分でですから、重要」
 映画作品を作るにも、鑑賞するにしても。
 そして、アイツは、指でフレームを作ってのぞき込み
「俺、盲点だったなぁ」
 愉快そうに、感心したように、微笑んだ。そして「案外、美咲さん、映像の仕事が向いているかも」と言った。
 そんな訳で、あたしは、映画視聴ために10インチのタブレットを買った。スマホの画面じゃ小さいくて。実は、TVとスマホをくっ付けて見る方法もあるっていうんで調べたんだけど、わけわかんなくて挫折した。タブレット買うのは余計な出費かと思ったけど、動画見以外にも意外と役に立っている。通販で買物するときなんて、大きい画面で商品を確認できるから、サクサクと用が済むんだよね。

 あいつと映画の話をしていてあたしは思った。映画関連の会社に就職したかったけどなんて、ぼかして言ってるけど、本当は、自分で映画を作りたいんだろう。
(でも、自分には才能がないって思ってる)
 本当に才能があるのか、ちょっとはあるのかわからないけど、本当にそういうの、やりたかったら
「映画が好きなら、動画撮って投稿したら良いんじゃないの」
 ユーチューブとか、ティックトックとか。
「それは、そうなんですけど……」
 薄笑いして、語尾を濁す。煮え切らないなぁ。ちょっとイラッとして、顔をゆがめたとき、ふと思いつく。
「店の娘たちを撮って、ネットに上げるとかどうよ? 店内の雰囲気とかも撮ってさ。ユーチューブやインスタで店のアカウント作って、それを上げるの」
 店のHPにも、その動画のリンクを貼る。
「いい宣伝にもなるし」
 プロに動画作りを依頼したら、相応に金が掛かるけど、店のスタップがやるなら金が掛からんし……と、あたしは、ポジティブに考える。
 まずは、店に話を通さなきゃならない。でも、こういう交渉事は、こいつは苦手だろうから
「あたしが店に話してやるよ」
 この考えが上手くいって、宣伝効果があったら、こいつの株も上がるってもんだ。ボーナスも上がるかもしれない。そうしたら
(希の手術費だって)
 どんどん、あたしの考えは、都合の良い方に走って行った。
 これは、いつ頃の話だったんだっけ。確か、その日、部家に帰って、テーブルの上に置かれた眼鏡のギフト券をニヤけながら見ていた覚えがあるから、とっくに11月になってたと思うけど。

「美咲さんは、やりたいこととかあります?」
 あいつに尋ねられたのは、いつだったっけな。映画の話をしていて、ふっと流れでそういう話になったんだっけか。
「特にないなぁ……。強いて言えば、不労所得で暮らすことかな」
 少なくともいつかは、キャバはやめたい。
「あたし、頭悪いから株とかはダメだし、マンションとかアパートとか、大家稼業?」
 だから、金を貯めている。
「それって、やりたいことっていうより、将来設計じゃないですか」
 うん。そう。それが働く目的や目標でもある。夢みたいなことは考えてない。
 不労所得っていう生活の仕方を教えてくれたのは、会社員兼キャバ嬢の梨菜だった。
「あたし、お金貯まったら、会社辞めてカフェバーをやりたいの」
 梨菜は、それが夢だと言ったけれど、夢っていうより目標とか目的じゃないかなって思った。だって、実現可能じゃない。できないかもしれないけど、やろうと思えばできるから。
「会社の給料が安すぎて。だから、開業資金を作るためには副業しないと」
 で、キャバ嬢。彼女は、週に2、3回のパートみたいな出勤だけど、あたしは仲良くしてる。
 梨菜は頭が良い。学歴も教養も一般常識もないあたしに、惜しげなくいろんな事を教えてくれる。夜の世界しか知らないあたしに、昼間の世界を教えてくれる。梨菜から学んだことは多い。不労所得のこともそう。そんな考え方や生き方があるんだって、目から鱗だった。
「手に職もないし、頭良くないから起業なんてできないし、第一、何の商売したら良いのか思いつきもしないし。玉の輿とか、セレブ生活なんてのは、肩こりそうだし、まあ、あたしじゃ無理だしな」
 それこそ、まんま夢だ。そんな人生を描いてみたところで、ぼやけた映像しか頭の中に浮かばない。リアルじゃない。非現実的ってやつ。たまに、そこそこ旨いもん食える程度の生活が一番真っ当で、一番心安らかな人生だと思うんだ。ここまで生きてきて、そういう結論に達した。
「案外、岬さんって堅実な考え方するんですね」
 皮肉でもなく、冗談でもなく、あいつは感心したとでのいうように頷いてたっけ。
 

柊、キャラメルラテ、ほうじ茶、フライドチキン

 柊のことを知ったときは、自分を花にしたら、薔薇よりもこっちかもと思った。
 白くて小さく丸っこい花は、あまり目立たないが、よく見ると花びらが反っくり返っていて、変と言えば変。すっぴんのあたしかよって感じ。ちょっとイキがってるみたいでもある。香りは、金木犀に似ているが、もっとあっさりとしている。
 葉は、ギザギザと尖っていて、触れると刺してくる。だからか、東洋でも西洋でも魔除けに飾られる。クリスマスのリースや節分の時に鰯と飾られてるのが、それなんだって。それから、老木の葉は、ドゲトゲが丸くなるらしい。あたしも年取ったら丸くなるってか? それはないような気がする。
 柊の花言葉の〈あなたを守る〉からは、あたしよりも希の兄貴の望を思い描く。もっとも、随分と頼りない守りであるが。おい、望、もっと尖れよ。希を守るために。
 
 今日は、きれいな青空が頭の上に広がっている。11月下旬にしては、季節外れに気温が高く、屋外にいても寒さを感じないが、もうそろそろ外のベンチに腰掛けてお喋りするのは終いだろう。
 希はキャラメルラテの甘い香りを存分に楽しんでから、美味しそうにちびちびと飲んでいる。大人二人の手にあるのは、ほうじ茶だ。あたしもキャラメルラテを飲みたかったが、これから宴会シーズンで客入りが増えると、あたしの体重も増える。今からダイエットしておかなきゃ。
「柊が香り出すと、クリスマスが近付いてきてるんだなって思う」
 希の言葉に、あたしの臭覚がフライドチキンのにおいを思い出す。
「だから俺、柊で、条件反社的にフライドチキンが浮かぶんですよね」
 お前もか。
「それから、映画館」
 子供の頃、見たい映画は12月のクリスマスシーズンに上映されることが多かった。希が生まれる前は、子供向けの映画を見に両親とよく行ったそうだ。希が子供向け映画を見たがるような歳になる頃には、兄の方はそういう作品には興味が薄れていたけれども、希と両親と一緒に見に行った。
「案外、大人になったらなったで、それなりに子供向けも楽しめるんですよ」
 指でフレームを作って顔の前にかざしながら、あいつは言った。
「逆は難しいんですけどね」
 希がうんうんと頷く。
「そうだ、4Dシアターって知ってます? 見ている映画のシーンに合わせて、座席が揺れたり、水しぶきが飛んできたり、香りが漂ってきたりするんです」
 へぇ。香りか。希でも楽しめそうだ。
「音声ガイドも利用すれば、視覚障害があっても、楽しめるんです」
「一回だけ、行った。すごく楽しかった」
 子供向けのミステリーアニメだ。
「また連れて行きたいんですけど、希の好みの映画が上映されているときで、時間と席が取れるときのタイミングが合わなくてなかなか」
「あたしも行ってみたいな。面白そう」
「春休みには、きっと面白いのやってるから、一緒に行こう」
 楽しみにしてるよ。 
「ねえ、今日は暖かいからいいけど、これから寒くなるし、十二月の休みには、ケンタでもファミレスでも、どっかお店でクリスマスしようっか」
 クリスマスの日とは前後するけれど。
「うわー、楽しみ」
 希が例の如く、ぴょんと座ったまま飛び跳ねた。
「クリスマスっていうと、クリスマスローズ」
 クリスマスに咲く薔薇?
「うーん……ヨーロッパではクリスマスの辺りから咲いてくるらしいんだけど、日本では年が明けてから咲き始めるの。長く咲いている花で、一番きれいなのは2月かな」
「何それ。クリスマスっていうより節分ローズ? 鬼百合ならぬ鬼薔薇? ド派手そうだね。ヤンキーとか好きそう」
「はは、鬼ヤンキーとかのような薔薇かどうかは別として、クリスマスローズは、ローズと聞いて、一般的に日本人が思い浮かべる花の姿とはちょっと違うんですよ」
「香りもないんだって。香りがある品種もあるんだけど、わたしはまだ嗅いだことない」
「じゃあ、この公園には?」
「残念ながらないんです」
「クリスマスローズ置いてる花屋さんに行けば、見られるよ」
 おし! ついでに匂いのあるクリスマスローズも探してやるぜ。 
 そう思ってから、あたしは、あれっと気が付いた。
(花か……あんまり関心なかったのにな)
 花と言えば、客から貰う花束だった。誕生日とかに花束を抱えてくるヤツは多い。あたしはその度に
「わあ、嬉しい。ありがとう」
 と感激した素振りでお礼を言うが
(けど、ほんとは、あんまり嬉しくないんだよな)
 花は食えないし、換金もできない。資産価値はゼロだ。花は綺麗だし、ゴージャスな花を貰えば、相手があたしに抱いている価値やら好意やらの高さを測れて、ちょっとは良い気分になる。部屋に飾れば、ほんの束の間、ゴージャスでセレブっぽい気分にもなる。けど、本当にそれだけだ。気分だけ。実益がない。何か貰うなら、換金できるブランドバックとか、高いシャンパンの1本も入れて貰った方がずっと良い。
 そんなあたしが花を探そうとウキウキしている。びっくりだ。 
「ところで、お正月はどうすんの?」
 クリスマスとくれば、お正月が気になる。
「俺のとこでかな」
「初詣は行くの?」
「人混みはできるだけ避けて」
「じゃあ、一緒に行っていい? お正月、割と暇なんだ、あたし。出店のたこ焼きとかお好み焼きとか甘酒とか、好きなモン奢ったげるから、あたしも混ぜてよ」
 あたしらの店は、ゴールデンウィークを除いて、リーマンに合わせて休みになるから、盆暮れ正月も世間一般様に合わせて過ごせる。正月は、客と他のキャストのコたちと初詣に行くこともあるけど、正直、客と初詣行っても奢って貰えるぐらいで現金にはならないから、あんまり行きたくないんだよね。そこで、同伴の約束を取り付けることは忘れえずにするけど。気の乗らない営業初詣は、さらっと片付けて、来年はプライベートを満喫したいかな。
 希が手をパチパチと叩いて、ぴょんぴょんぴょんと三度、飛び跳ねた。あたしの心もぴょんぴょんと跳ねた。楽しみが増えていく。
 本当にあの時のあたしは、バカみたいに浮かれていた。
 
 その日、別れ際に、あたしは兄貴の方に青いリボンのシールが貼られた封筒を差し出した。
「誕生日でしょ、もうすぐ」
「えっ。俺に?」
 戸惑うあいつに「希の誕生日祝いをするつもりだから、あんたをハブるわけにもいかないでしょ」と変な理由を述べた。
 渡したのは、眼鏡のギフト券。あいつの眼鏡のフレームが随分とくたびれてきているのが気になっていた。誕生日は、希のを尋ねたときに、ついでに聞いていた。ギフト券と一緒にあたしが見立てたお薦めのフレームのパンフとその取扱店の場所も入れといた。あたしのお薦めは、日本の高品質だっていうブランドもので、濃茶のインテリっぽいデザインのやつ。あいつが選ぶと、またダサいのになりかねん。ちゃんとあたしのお薦めにしてくれよ。
 

暗転――無香の世界

 店の外壁にぶつかって、半分にひしゃげた車から煙が立っている。悲鳴に怒声、鳴き声、救急車と叫ぶ声……。地面に真っ赤な小川が流れている。

 ユウナのオトコは、あれで終わりじゃなかった。
 警察の檻から出て来たユウナのオトコは、棲みついていたユウナの部屋が引き払われてしまったため、しばらくは友人知人宅やネットカフェを転々としていたが、思いついて昔の元カノを訪ねた。容姿も稼ぎもそこそこ、負もなく可もない無難な女だったが、嫉妬深くて嫌気が差して別れた。が、相手は未練タラタラで、しばらくは復縁を迫って追い回されていた。きっと、俺が顔を見せれば諸手を挙げて歓迎してくれるだろう。当面、養ってくれるなら一時的に復縁してやってもいいか。と、実に都合の良いことを思ったのだ。
 ところが、元カノは新しいオトコがいた。しかも結婚間近であったから、さあ大変。「帰って」と元カノに冷たくあしらわれ、ヤツは腹が立った。プライドも傷ついたんだろう。逆ギレして元カノの部屋の前で大騒ぎ。そのマンションの廊下に設置されていた消火器を見つけると――消化器好きだな、こいつ。頭に血が上ると赤いものを手にしたくなるのかもしれない――それで元カノの部屋のドアをガンガンと打ち付けた。当然、警察が呼ばれて、留置場へ逆戻りだ。
 オトコは、留置所で頭冷やすどころか、余計に熱くしたらしい。もう、頭の血が沸騰するぐらい。
 ――自分がこんな情けない状態になったそもそもの原因は、ユウナが自分を捨てたからだ。全部、ユウナのせいだ。
 逆恨みが生み出した復讐に燃えたそいつは、警察から放免されると、その足で友人から無理矢理金を借り、それでレンタカーを借り、ユウナと店の両方に鉄槌を下すべく、店の近くでこっそり張り込んだ。
 ちなみにオトコが店で暴れて与えた損害の賠償は、ユウナが肩代わりした。
「カレに金なんてないしね」
 最後の情けよ。手切れ金だと思って払って、カレのことはすっぱり忘れるわ、と。なのに、逆恨みかよ。
 
 張り込むことしばし、遂に、帰る客を見送って外に出たキャバ嬢数人の中にターゲットのユウナの姿を認めたヤツは、車のアクセルを強く踏み込み――。
 車の激しいエンジン音に、みな、はっとして音のする方へ顔を向けた。猛スピードで迫ってくる車に、キャバ嬢たちは悲鳴もそこそこに逃げ惑う。言葉にすると結構長いが、ほんの一瞬のことだ。
 ヤツがロックオンしたユウナは、たまたま、あたしの隣にいた。だから、車はあたしたちを目がけて突っ込んで来た。あたしは、車を避けようとして、長いドレスの裾を踏んづけてしまい転けそうになって、逃げ足が遅れてしまう。
(ヤバイ!)
 半ば観念したその時、
「美咲さん!」
 望がどこからかすっ飛んできて、あたしを突き飛ばした。あとは……。
 あいつが、あたしの目の前に血まみれで転がっていた。あたしは、偶然、あたしの足元まで飛んできたあいつの眼鏡を、とっさに拾う。眼鏡は、レンズが粉々に砕けて、フレームだけの抜け殻になっていた。
 今日、あたしの顔を見るなり、あいつは眼鏡のフレームに手を触れて、そっと目配せした。黒に近い濃茶色のフレームのそれは、つい先日、あいつの誕生日にあたしが送った眼鏡ギフト券であつらえたものだ。
 あいつは、あたしのお薦めどおりのフレームをちゃんと選んだんだ。嬉しくなった。
(似合ってるじゃん)
 マゴにも衣装。あたしは、にやっと笑って、あいつにだけ見えるように腰の辺りで親指を立てて、合図した。

 警察からの聴取を終えた深夜。あたしは、ひとり、ひょろなが公園を歩いていた。
 真夜中の公園は、人っ子一人いない。所々に立つ外灯が必死に公園の中を照らしているが、根暗な侘しさは、その人口の光では消せない。公衆トイレの入口の灯は、目が痛いほど妙に明るく、薄汚れた壁を白く浮き立たせている。その嘘くさい明るさの白は、まるで虫を導く誘蛾灯のように、夜の不安を抱えた人間を誘っているが、怪しさだけが際立ってしまっている。逆に真っ暗闇の方が何も見えない分、侘しさも怪しさも黒く溶け込んで、眠ってしまうように思う。
 希を真ん中に挟んで三人が並んで座ったベンチは、外灯の灯から外れて、世界から忘れられたように暗がりにひっそりと沈んでいる。
(何にも匂わない)
 まるで舞台が反転するように、いつも花の香りが漂っていた世界が、今宵は無香の世界になっている。
 あたしは、この世にあるのにこの世からうち捨てられたベンチに座り、光も匂いもない世界から、外灯が照らしている光の恩恵が注ぐ世界をスクリーンでも眺めるようにぼんやりと見る。
 今日の出来事が頭の中に映る。まるでフィルムの中の世界のように現実感が乏しいが、それは現実だ。フィクションではなく、ノンフィクションだ。
(あいつ……)
 映画が好きだからって、この世から映画みたいな退場の仕方をしなくったって良いじゃないか。あんまりにベタ過ぎて、逆に嘘くさい。事務室にいるはずのあいつがタイミング良くあたしのピンチに駆けつけるなんて、映画の中のヒーローかっての。しかも、ベッタベタのベタ展開。もしかして洒落のつもりなの? 洒落になんてなってねぇって。ホントに、あいつは、要領が悪いっていうか、どっか間が抜けてるっていうか……。あたしは、頭、悪いから上手く言えないけど
(とにかく、違うだろ。そうじゃねぇだろ)
 あたしは、あいつに腹を立てながら――ちょっと違うな。こういうの、憤るって言うんだっけ。ムカついて腹立つのとは違う。誰かに対して怒ってるんじゃなくて、起こったこと、何だかよくわからないもの――例えば神様みたいな? ああ、理不尽とかいうやつだ。
 それに腹を立てていたら、ボロボロと涙がこぼれてきた。
(希はどうすんだよ)
 希はまだ子供だ。ひとりぼっちで、目も悪くて、どこを向いて、どう生きていったら良いかわからないじゃないか。
 誰もいないのをいいことに、遠慮せずにしゃくり上げて泣いた。
 たった一人残された希を思って、あたしは泣いた。
 年端のいかない妹をたった一人残して逝ったあいつの無念を思って、あたしは泣いた。
 もう、休日のささやかな癒やしはなくなった。

 あれから何日経っただろう。数日? 数週間? 何ヶ月? 時間の感覚がちょっとおかしい。
 ユウナは店を辞めた。それからどうなったのかは、よく知らない。地方のキャバクラにいるとか、水商売から足を洗ってブラック工場で働いているとか、実家に帰ったとかいう話を聞いたが、どれもよくよく聞いてみると「じゃないかなって思う」という噂にすらみたない想像でしかなかった。
 あたしは、今は系列の別の店にいる。あんなことがあったので、あの店は閉められた。そこにいたキャストもボーイも、みな散り散りになった。移籍の事情が事情なので、あたしの移籍に伴って、馴染み客のほとんども一緒に新しい店に流れてきた。正直、助かった。今のあたしの気力では、イチから新規に太客を掴むのはしんどい。
 本当は、仕事なんてしたくないんだけど、生きていかなきゃならないから。生きていく意味も気力も楽しさもないけど、生きていかなきゃって思う。なぜだかわからないけど。
(希……)
 希だって、生きているんだ。生きていかなきゃならないんだ。

 休日。スマホを操って営業業務をこなし、掃除をして、洗濯をして、通販で化粧品を注文して、その日のタスクを完了する。
 コンビニで弁当を買って来たが、食べる気がせず、無性に横になりたくなった。あたしは、何気なく枕元にあったあいつの残したフレームを顔に掛けて、ベッドの上に寝転んだ。

 映画館で映画を見ていた。物語が終わり、クレジットが流れる。ぼんやりとそれを眺めていて、あたしの名前をその中に認めて、そう言えば、この映画はあたしがメイクを担当したんだっけと思い出した。
(あ、そうだった。それで、監督は――)
 望の名前が流れてきた。何で忘れていたんだろう。
 と、次の瞬間、希の名前が流れてきた。
「あれ?」
 そう呟いたところで、自分の部屋のTVに向かって座っているのに気が付いた。映画館じゃなかったんだっけ。
「面白かったぁ」
 あたしの横で希が言った。相変わらずぐるぐる眼鏡を掛けていたが、あたしは
(良かった。希、目が治ったんだ)
 そう思った。
「特に、ラストのカメラワークが良かったね」
 希を挟んで反対側に座っている望が腕を伸ばして、例の指フレームをTVに向けながら言った。
「望? なんでいるの」
 怪訝な声で呟いたあたしに、兄妹は不思議そうな目を向ける。
 あたしは、あれは夢だったと気付いた。やだな。縁起でもないもんを見た。
「いやさ、あたし、変な夢を見ちゃって……」
 そう言ったところで目が覚めた。

 顔も洗わずに、パジャマ代わりのスウェットにダウンを引っ掛けて外に出た。掛けたまま寝てしまった眼鏡フレームもそのままだ。徐々に明るさを増していく空の下、ぶらぶらと歩いて、ひょろ長公園に辿り着く。
 寒い季節の早朝の公園は、人気が少なく、ようやく昇った朝日の光が木々の間を通り抜けて地に注いでいる。
 何の木か知らないが、数本の大きな木の枝を巧みにすり抜けた金の光が1本、まるでスポットライトのように黄色の小花が咲く低木を照らしている。光に導かれるように、あたしはその木に近付いた。
(ロウバイ……)
 その前の地面に差し込まれた小さなプレートに〈蝋梅 ロウバイ〉と書かれてあった。
 梅に似た形の小さく可憐な黄色い花。色気はないが、可愛らしい。華ではなく花。柔らかく優しく甘い香りは、石けんやベビーパウダーを思わせ、みずみずしく、清潔感がある。
(希みたいだ)
 近くのベンチに腰掛けてスマホで〈ロウバイ〉を検索する。花言葉は「奥ゆかしさ」「慈しみ」「慈愛」「先導」「先見」。
(慈しみか……)
 ますます希を連想する。慈愛には、兄の望の心を。
 望を思い出したあたしは、思わず眼鏡のフレームに触れた。
(先導……)
 頭の中に何かが閃いた。言葉にもならない、姿形もない何か。あたしは、レンズのないフレーム越しに、じっとロウバイの花を眺める。
 ――ギャバ嬢、引退したら、特殊メイクの仕事でもすっかな。
 ――美咲さんは、やっぱりメイクに注目しますよね。重視するっていうか……。
 ――案外、美咲さん、映像の仕事、向いているかも。
(先見……?)
 あたしは、指でフレームを作り、ロウバイに向けてフォーカスする。指フレームから覗くロウバイを見ながら、あたしはある決意をした。

希と望

 あたしは、売れっ子キャバ嬢だ。いや、「だった」だ。先週、辞めたから。
 キャバクラ勤めを続けながら、あたしは高校の卒業資格を取得した。勉強なんて慣れてないから、何度もくじけそうになったけど、そんなときは、レンズのない濃茶のフレームを掛けて、死に物狂いで頑張った。
「マゴって孫じゃなくて馬子だったんか」
 このフレームを掛けたあいつを見て、マゴにも衣装って思ったあの時は、不細工な孫でもカワイイ服を着せれば、雰囲気カワイイになるって意味だと思っていた。
 勉強すればするほど、自分の無知が嫌というほど知れて、誰もいない一人の部屋でも、恥ずかしさで居たたまれなくなったっけ。
 勉強してたからって、仕事の手も抜かなかった。お金を貯めなきゃならなかったから。そのために稼がなくちゃならない。
 仕事を辞めると、すぐに客から貰ったブランドバックもアクセサリーも、換金できるものはすべて売り払って現金に換えた。現金も欲しかったけど、もう後戻りしないって気合いも込めて。
 キャバ嬢なんて、いつまでもやってられないと思いつつ、それしかできなかったあたし。手に職もなく、特技らしい特技もないから、ウォーター業界に入るしかなかったんだから仕方がない。できることといったら、素顔がわからなくなるぐらいの盛り盛り詐欺メイクぐらい。
 だから、あの日、早朝のロウバイが香る公園で、あたしは決意した。いっそのこと、盛りに盛りまくる、作りに作りまくる特殊メイクアーティストになろうと。
 それに
 ――映画にも関われる。
 あいつがやりたかった仕事に携われる。それが、あたしの身代わりになったあいつへの贖罪にもなるような気もした。
 けど、わかっている。贖罪なんかじゃないんだ。本当は。あたしは、映画の仕事がしたかったと言っていたあいつに、少しでも近付きたいんだ。あいつを忘れたくないんだ。
 ――あいつと、人生を歩みたかったんだ。
 心の底にひっそりとあった叶う確率の低い、希な望み。今では、絶対に実現しない望み。希望は、絶望になってしまった。でも、そこにだって『望』の字はあるだろう? 頭悪いから、うまく説明できないけど、『望』はあるんだ。

 1ヶ月後には、カナダに渡る。バンクーバーにある映画の専門学校で特殊メイクを学ぶつもりだ。まずは、映像向けメイクを学べる専門学校への入学を目指して、語学学校に通う。英語なんてさっぱりわからないから、専門学校入学までもが、ゼロからの長い道のりだ。
 留学斡旋業者は、あたしのキャバ嬢しかないキャリアが風俗出稼ぎ目的と思われて、ビザが下りにくいかもと懸念したが、大丈夫だった。十分な留学資金があったためだろうという。
 日本の専門学校でも特殊メイクを学べるが、あたしは、イチからすべてをやり直したかった。うまく言えないが、より困難な道を選んだ方が、あたしの場合は、メンタル的に良いような気がするのだ。心の傷や辛さ、不安をほじくり出して浸る間もないくらい、必死で目標に向かって生きていた方がきっと良いと。

 兄を亡くし、ひとりぼっちになった希は、ある夫婦の里子となった。
 希の里親は、穏やかで良い人たちだった。もし、今後、良い人じゃなくなったら、あたしが許さない。
 本当は、あたしが希を引き取りたかったぐらいだが、あたしは独身だし、キャバ嬢だったから出来やしない。いや、出来たって、しない方が良いんだ。それは、あたしの自己満足に過ぎないから。希のためにはならない。
 
 今日は、3月1日。希の誕生日だ。去年の誕生日には、桃を中心にたくさんのフルーツがのったバースデーケーキを送った。里親には「約束していたので」と事前にバースデーケーキのことは伝えておいた。
 希に会いには行かなかった。希にはもう、誕生日を家で祝ってくれる新しい家族がいる。LINEで「おめでとう」とメッセージを送り、希からは「ありがとう」と返信があった。
 
 ベッドの上で、ぼんやりとTVの音を聴いていた希のイヤホンをあたしは外して、「来たよ」と告げる。希がぱっと頬を輝かせた。こちらへ顔を向けた希の顔には、例のぐるぐる眼鏡がなかった。見えない目を細めてそこにあるものを見ようとするのは、条件反射なんだろうか。若干視力のあった頃の癖が出てくるのだろうか。目元が兄の望にそっくりだった。兄妹の一番よく似たパーツが目元だったとは、知らなかった。
 希は、ちょっとだけ変わっていた。少し紅葉した頬は、以前よりほんの少しシャープになっている。ベットの上にいても、背が伸びたのがわかる。雛のデイジーちゃんは、少しずつだが着実に、形容詞の雛が取れたデイジーちゃんに向かって成長している。もっとも、胸は相変わらずペッタンだ。いや、微かな丸みがちょっとだけ感じられるか。
 希は、待望の目の手術を来週に控えている。
 手術に必要な費用は、あいつの――希の兄が残した僅かな貯金と保険金で、ほぼ賄った。あいつは、希を受取人にした生命保険に入っていた。両親が突然、事故で死んだから、自分に万が一があったらって考えたんだろう。そんな望の心情が切なくて、胸が痛い。僅かに足りない部分は、あたしが出した。手術費だけじゃなくて、入院費も必要だし、入院するのには、案外、いろいろと物入りだから。
 希は、あたしが費用を助けたことを知らない。里親に黙っていて欲しいと頼んだ。少なくとも、希が大人になるまでは。
 あたしは、ベッドの脇の椅子に座ると、希にココアのペットボトルを差し出した。
「ココアの匂い」
 ボトルのキャップを外し、希はうっとりとした。あたしは、自分のミルクティーのキャップを捻って、希の顔に近づける。
「あ、綾子さんはミルクティーだ。初めて会ったときと同じだね」
「そう」
 でも、ちょっと違う。あいつさえいれば、本当に同じだった。そんなに昔の話じゃないのに、遠い過去のように感じた。
 希と互いの近況を報告し合う。あたしは、店を辞めたこと、来月には旅立つことを伝える。
「そっか、いよいよだね」
「連絡するから。挫折しそうになったら励ましてよ」
 軽口を叩く。
 希には、兄の望が亡くなったときに、兄の仕事のことを教えた。話さざるを得なかった。勿論、あたしの仕事も知れた。希は驚くかと思えば、
「何となく、そうじゃないかって」
 兄が妹を慮って自分の仕事のことを告げなかったように、妹もまた薄らと気付きながら、兄を慮って黙っていたのだ。切ない。痛いような、哀しいような、愛しいような、何とも言えない気持ちだ。
 あたしは、望の眼鏡フレームをバックから取り出して、じっと見つめながら指でなぞる。突然、黙ったあたしに、希が小首を傾げた。
「綾子さん?」
 あたしは、希の手に、そっとレンズのない眼鏡フレームを握らせる。
「これ、お兄ちゃんの」
 希は、それを二、三度優しく撫でると、自分の顔に掛けた。少女の顔に大きいフレームは、それでも元の持ち主とよく似た目元に、しっくりと似合っていた。
 希は指フレームを作って、目の前に掲げた。望が映画の話をするときの、あの癖だ。
「何か見える?」
 言ってしまってから、馬鹿なことを聞いたと思ったが、希は微笑んで
「希望が、見えるよ」
 少し震えているが、明るい、力強い声だった。ぽつりと滴がひとつ、眼鏡のフレームを濡らした。そしてまた、ひとつ。また、ひとつ……。
 あたしは、思わず、希を強く抱きしめた。涙で濡れていく眼鏡のフレームごと――。

〈了〉
 


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