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フレーム(前半)

〈あらすじ〉

 売れっ子キャバ嬢のあたしは、ある日、公園で店のダサい黒縁眼鏡の冴えないボーイの望と目の悪い中学生の妹の希に偶然出会う。成り行きで望の会社・・の先輩を演じることになったあたしは、目の悪い分、鼻の利く希から公園で季節ごとに花の香りを教えて貰うようになる。それは、殺伐としたキャバクラ界で、不労所得生活を夢見て割り切って黙々と働く日々の、ささやかだが大切な癒やしになっていった。希を通して、映画好きで妹思いの望とも親しくなったあたしは、いつしか、兄妹との楽しい日々が細々と続いていく様を夢見るようになり……。だが、別れ話に逆上した同僚キャストのユウナのカレシが店で暴れ、それから――。


(本編)

 あたしは、滅多に載らない路線バスに揺られて郊外にある病院に向かっていた。
 あたしの手には、レンズの入っていない眼鏡のフレームがある。男物。黒に近い濃茶色の、レンズ枠は少し大きめだが、知的な印象のデザイン。鯖江ブランドだ。ある客が「鯖江は眼鏡の聖地。あそこの技術は世界トップだね」って言ってたから
 ――わざわざ選んでやったのに。
 馬鹿なあいつ。あいつは、たったの一度、掛けたっきりで、別れの挨拶もなしにいなくなった。
 ぽとりとフレームの上に一粒、滴が落ちた。
 ――好きだったんだ。
 今頃、気が付いた。いや、気付かないように気持ちに蓋をしていただけだったんだ。
 ――軽い同情だと、自分に思い込ませて。
 馬鹿なあたし。ぽとり……とまたフレームの上に滴が落ちる。あたしは、俯いて唇を噛みしめた。
 それでも、滴は落ちる。
 ――あいつは、どうだったんだろう。
 嫌われてはいなかった。好かれていたと思う。ただ、その好きがどういう好きだったのかは、わからない。
 ――あいつもきっと、わからなかったんだろう。
 あたしと同じで、蓋をしていたのかもしれない。思い込ませていたのかもしれない。生真面目なヤツだったから。
 あたしは、静かに泣いた。あたしの心を思って泣いた。あいつの心を思って泣いた。

 あたしはキャバクラのキャスト、つまりキャバ嬢。トップクラスの売れっ子だった。
 あいつは店のボーイ。どうしてキャバクラのボーイになんてなったのか不思議なぐらい、ダサくて要領が悪くて不器用な奴だった。でも、くそ真面目で、初心な奴だった。そこをキャストたちが、からかって楽しんでたっけ。あいつは、からかわれる度に言葉を詰まらせて、困った風にダサい黒縁眼鏡の奥の目をしばたいて、顔を伏せていた。
 あたしは、たまに、からかわれて困り果てているあいつを呼んで用事を言いつける。そうすれば、その場から抜けられるから。要領悪くて不器用なヤツでも、人間なんて、いつどこでどうひっくり返るかわからない。どこかで仕事のコツを掴んで偉くなったり、店を辞めた後に一山当てて、逆に客になったり、太客の紹介に繋がることがないとも限らない。だから、なつかれない程度にさりげなくフォローしておく。それから、からかわれ過ぎるとキレて、とんでもないことやるヤツっているじゃん。暴れたり、殴ったり蹴ったり、刺したり……。もし、実はこいつがそういうヤツだったら、ヤバイ。恩義ってほどではないけれど、ちょっと助けておけば、万が一のときも、あたしは目こぼしされるだろう。
 あと、弱い立場のヤツをおちょくるのは、あたし自身が何となくイケ好かないから。見てるとイラッとする。ムカつくんだ。

沈丁花、ココア、ミルクティー

 あれは、桜の見頃が終わった頃。前日までの花散らしの雨が去ったうららかな日曜日だった。〈花散らしの雨〉なんて言葉を教養のないあたしが知ってるのは、いつだったか客や店の同僚たちと花見に行ったときに、客の一人が教養あるところをみせようと教えてくれたから。
 その日、あたしは、どうにも働きたくなかった。
 休みの日でも、キャバ嬢は働いている。日本のリーマンは、会社休んで家で仕事してるっていうけど、日本のキャバ嬢も同じだ。
 客への営業LINEやメールに、える店でランチしてインスタに投稿、客のSNSアカウントに営業《いいね》したり、お返しコメントしたり。エステやネイルに行くこともある。メイク、ファッションの流行や最近の話題をネットで収集したりもする。
 最近は、ナチュラル風とかすっぴん風とかがじわじわと押してきてるが、キャバ界は、まだまだギャル風メイクが主流だ。それに
(ナチュラル風であって、薄化粧ってわけじゃないんだよね)
 ギャル風がナチュラル風になるだけで、盛り盛りの詐欺メイクには違いない。今後、ナチュラル風がキャバ界でも主流になったときのために、詐欺メイクの女神と呼ばれる『足の底ちゃん』のすっぴん風詐欺メイク動画をチェックしておく。
 それらは全部、仕事の一環。じゃなきゃ、あたしなんて、面倒くさいからメイクすらしないと思う。
 あとは、寝てる。これも仕事のうち。健康管理大切。じゃないと働けないから。
 キャバ嬢は、仕事柄、二日酔いに悩むことも多いが、あたしは、それはあんまりない。実は見かけによらず、あたしは酒が強くない。だから、最初から上手くセーブして飲んでいる。あたしの口は、酒を飲むためじゃなく、喋るためにある。芸がなくても若くて体力があると、ガンガン酒を飲んで、ハイテンションで盛り上げて客をのせて稼ぐコは多いけど、それじゃ、身が保たない。あたしも頭悪くて芸がないけど――だからキャバやってるってのはある――その芸のなさもひっくるめて、口先で客を転がして稼ぐ。
 休みだからって、遊びになんて行かない。たまに客とご飯に行ったり、客や同僚たちとグループでカラオケとか、ちょっと遊んだりくらいはあるけど、たとえカラオケでも、客と二人で個室に入るようなところには行かない。客に勘違いさせやすいんだよね。特定の客に深入りすると、揉め事の元になるから気を付けている。危機管理ってやつ? キャバ嬢と客って、あくまでもかりそめの恋愛ごっこなんだから。それを愉しむのがキャバクラなんだから。
 同僚のキャストには、カレシ持ちならカレシと、ホストに入れ込んでるなら推しホストと遊びに行ったりするコもいるけど、男に金使うなんて勿体ないだろ。第一、あたしらの仕事は、男に金を使わせる――払わせることなんだから。逆だろって思う。大体、キャバクラ勤めってのは、衣装やら美容やらで、必要経費がかさむから、無駄金なんて使ってられない。営業メールでもしてた方がマシ。だから、あたしは、休日もスマホ営業に勤しむんだ。
 なのに、その休日は、何もしたくなかった。営業LINEの一つもしたくない。理由はわからない。
 朝から部屋でゴロゴロし、昼過ぎに腹が減ったので、近所のコンビニに出掛けた。帰り道、この辺に公園があったなと、ふと思い出し、気まぐれに寄り道してみる。
 ひょろなが公園と呼ばれているそこは、東西は10メートルほどだが、南北は200メートルぐらいで、通称どおりひょろ長い。シーソーなどの遊具や小さな噴水があり、大小様々な樹木が植えられていて、花壇には四季折々、きれいな花が咲いている。
 おにぎりにサンドイッチ、コンビニスイーツ、菓子パン、チョコやポテトチップスなどなど、思いつくままに買い込んだものが詰め込まれたレジ袋を提げて、公園をブラブラと歩く。
 子どもたちが遊具の周りでわいわいと遊んでいる。噴水の前にはベビーカーを押した女性がいる。木陰のベンチでは、年寄りたちが座ってお喋りに花を咲かせている。何の匂いなのか、公園の中には、ほんのりと甘い香りが漂っている。甘いけれど、爽やかで甘ったるくはない。どこか懐かしい感じがする匂いだ。
(桜かな)
 そう思ったが、桜の花は、ほぼ散っていて、その残骸をあたしは踏みつけて歩いている。そもそも、桜の花に香りなんてあったっけ? 桜餅の匂いは知ってるけど、あれって、本当に桜の花のものなんだろうか。
「嘘くせえな」
 思わず呟いてしまった。
 ふと、妙な取り合わせの二人がベンチに座っているのが目に入った。20代前半と思しき男と小学校の4年生か5年生ぐらいの少女だ。まさか、連れ去りとか、ロリコン出会い系の類いじゃないだろうな。
 男があたしの視線に気付いたのか、こちらを見た。ダサい黒縁眼鏡の顔に見覚えがあった。まさか、あいつがロリコン出会い系の連れ去り? 
「……美咲さん?」
 源氏名で呼ばれた。店の、あの不器用なボーイだった。よくあたしだってわかったな。すっぴんなのに。おまけにくたびれたグレーのパーカースウェット上下だぜ。もう、別人28号ってやつ?
「何してんの?」
 あたしの問いに、あいつは言葉に詰まって口をパクパクさせてた。
「お兄ちゃん」
 隣の少女があいつの袖口を引っ張った。少女は、随分と強度の強い分厚いレンズの眼鏡を掛けていた。昔の漫画に出てくるような、ぐるぐるの渦巻き眼鏡だ。
「……会社の、人」
 あいつが少女に囁いた。
「美咲さん、これ、妹です」
「こんにちは。兄がいつもお世話になっています」
 少女がぺこりとお辞儀をした。行儀が良い。よく見れば、二人は、顔の輪郭とか、雰囲気とか、そこはかとなく似ている。
「こちらこそ、お世話になっています」
 少女に合わせて、あたしも行儀良く挨拶を返しながらも、瞬時に事情を察していた。何しろ、人気の売れっ子キャバ嬢だからね。事情ってのを察するのも仕事のうち。わかるってもんだ。
 あたしは、美人ってわけでもないし、ナイスバディってわけでもない。容姿が大して良いってわけじゃなく、色気がダダ漏れとかいうんでもないから、そういうところで他のコと差をつける。そうして客の心を掴んで、上手く転がすんだ。
 あいつは、キャバクラのボーイをしていることを家族――少なくとも妹には、知らせていない。そして、知られたくない。
普通・・の家か)
 水商売に良い印象を持っていない人間って、多い。あたしの周辺には、まあ、いないけど。面白いのは、家族や親族には水商売をさせたがらないのに、キャバクラに足繁く通ってくるおっさんも多いってこと。笑うよね。イラッともする。正直、ちょっとムカつく。
 けど、あたしは、あいつの言葉にのってやる。どうせ、もう、この妹とはこれっきりだろうから、わざわざ波風立てないよ。キャバ嬢だって、いや、トップクラスの売れっ子だから、それなりにプライドっていうか、仁義っていうか……よくわからないが、そういうもんがある。子供相手に大人げないことはしない。
 あいつの会社の先輩ということになったあたしは、適当に口裏を合わせる。
 妹の名は、まれといった。
「ミサキさんって、お名前なんですか? それとも苗字?」
「苗字。海の、断崖絶壁とかのある岬。名前は綾子。綾瀬はるかとか、綾小路きみまろの綾」
 まるっきり嘘ではない。綾子は本名だ。このちょっと古くさい名前は、どっちの親だったか忘れたけど、リスペクトしてた「超マブくて、カッケー、そんで頭も良かった」先輩の名前なんだと。でも、蛙の子は蛙。名前で子供がマブくも、カッケくも、頭良くもなるかっての。
 苗字の方は、とっさに思いついただけなんだけど、岬って漢字は、名はナントカを表すで、あたしにぴったりだ。あたしの人生、断崖絶壁みたいなもんだから。いつも、目の前に断崖絶壁がそびえているか、断崖絶壁の上にギリで立ってるかの二択しかない感じ。戸籍にある苗字より、ずっと自分にしっくりくる。よく思いついた、あたし。冴えてるじゃん。
「断崖絶壁! きみまろ! ふふふ、面白い」
 綾小路きみまろと言ったあと、子供に通じないかもと思ったが大丈夫だった。寮の先生がファンなんだって。あたしがきみまろを知っているのは、昭和オヤジ客からの仕入れ。
「でも、岬綾子って、綺麗な名前」
 希は、ころころと笑った。あたしが希も良い名前だと言うと、また嬉しそうに、ころころと笑った。
「俺の名前がのぞむだから、親が洒落半分に希ってつけたんです。俺たち兄妹、年が離れてるでしょ。こいつは、2人目はすっかり諦めたところに生まれた子だから、希有な子っていう意味もあって」
 希という漢字には、〈のぞむ〉とか〈こいこがれる〉っていう意味もあるのだと、あいつは言った。意外と教養があるんだな、お前。いや、親の方か。
 兄の望も、妹の希も、望まれて、恋い焦がれて生まれてきた子たちなんだ。
(あたしのところとは、違うんだな)
 ちょっと羨ましくなった。
 兄妹の両親は、2年前に自動車事故で他界した。目の悪い妹は、今春、中学生になったばかり。小柄で童顔、あんまりにも胸ペッタンだから、もっと幼いかと思った。兄妹は、今、一緒に暮らしていない。妹は盲学校の寮で暮らしていて、休みの日に兄と会うのだという。目の悪い、まだ子供の妹を一人で家に置いておけないもんな。
 希は、休みの日に兄とよく来るというこの公園を「いつも花の良い匂いがしてるから」好きだと言った。目が悪い分、鼻が利くのだろうか。
「これは、沈丁花の香り。爽やかな甘い匂い。昔、住んでた所の近所にもあったから、何だか懐かしくて好き。でも、もうすぐ終わり」
「あそこに咲いてますよ」
 望が右前方ある庭木を指す。垣根の際に、もっさりと枝を覆う濃いツヤツヤとした大ぶりの葉の間から、赤紫の縁取りのある白い花がそこかしこに顔を覗かせるている。公園を漂う香りの正体は、これだったのか。
 この公園なら、春の早い時期は梅。その後に沈丁花。
「今咲いている沈丁花は、ちょっと日陰にあるからまだ咲いているけど、大体が2月の終わり頃から咲き始めて、先月、とっくに咲き終わってる。沈丁花の盛りの後に桜が咲くけど、桜の花は、顔を近づけないと香りがわからない。葉はバニラみたいな香りがするんだけど」
 おいしそうだな。もしかして、その葉っぱの香りが桜餅か。いや、バニラって感じじゃない気がするが……。
「でも、沈丁花の香りが強いこの公園では、花はもちろん、葉っぱも、近付いてもわかりにくい」
 残念だな。
 桜が終わって、日陰の沈丁花が散ったら、薔薇、ライラック……。希は、続けて次々と花の名前を挙げていく。
「こんなに良い匂いの花の色や形が、もっとはっきり見えたら嬉しいんだけど」
 中学生は、個人差が大きい。まだガキのくせに大人の女の匂いをさせてるのもいるし、青臭いのもいる。小学生みたいに、まだ小便くさいのもいる。希は、体つきは幼いが、受け答えのしっかりした賢い子だ。だが、やっぱり
(子供の匂いがする)
 乳臭さがようやくとれた、小さな子を抱き上げたときの匂いだ。懐かしくて、切ない匂いだ。遠い遠い昔に、仕方なく置き去りにしてきた記憶が蘇りそうになる。
「何か飲もうか」
 あたしは、自販機を指差した。「俺が」という兄を制してあたしは立ち上がる。あたしは先輩なんだろ? 顔立てろよな。 
「希ちゃんは、何が良い? ココア?」
 希の頬がぱっと輝いた。
「すごい。岬さん、どうしてわたしがココアが好きってわかったの?」
 おっ。ビンゴか。兄貴の方は、「お茶で」。遠慮してんのか。じゃあ、デカいボトルにしてやる。
 希は、ココアのキャップを開けると、鼻をすんすんとさせて「ココアの匂いだ」とうっとりとした声で言った。
 あたしは思いついて、自分のボトルのキャップをひねり、希の鼻に近づける。
「これは何?」
「ミルクティー」
「正解」
「ミサキさん、ミルクティー、好きなの?」
「うん。そうだね」
「ミルクティーも、わたし好き」
「じゃあ、今度はミルクティーにしよう」
 あれ。今度って、次がまたあるみたいなことを言っちゃった。
 あたしは、レジ袋から、お菓子やパンを取り出して広げる。家族でピクニックしているみたいだ。少し照れくさい。でも、嫌じゃない。希も「ピクニックだ」と無邪気にはしゃいでいる。兄貴の方も盛んに恐縮しながら、けど屈託のない笑顔を見せている。初めて見るな、こいつのこんな晴れ晴れとした顔。いい顔じゃん。イケメンってことじゃなくて、良い表情って意味で。
「じゃあ、またね」
 兄妹と手を振って別れた。再会を約束する言葉を言って。別れ際に希は、バックから折り畳みの白い杖を取り出したて広げた。
(ホントによく見えていないんだ)
 改めてそう思った。
 そう言えば、あたしにも妹がいたっけ。二つ下の、生意気なちょいビッチ。どうしてるかな。あいつも、あたしのように家を出たかな。親たちの罵声が飛び交う家になんていたかねぇだろうし。そして、やっぱりお水でもやってんのかな。それとも、風の方かな。

春薔薇

 それからは、希が公園に来る休みの日には、あたしも公園に通うのが習慣になった。毎週ではなく、月に一回程度。その日は、兄妹と花の匂いの中、自販機やコンビニの飲み物とお菓子をお喋りのお供に、まったりと過ごす。
「綾子さんって、薔薇の香りのような声の響きだけど」
 薔薇。売れっ子キャバ嬢のあたしにぴったりじゃないか。横にいる兄も、うんうんと頷いてる。周囲には、近くの花壇に咲いている春薔薇の香りが漂っている。如何にも薔薇って感じで、大きくてゴージャスなショッキングピンクだ。希によると、春薔薇は大きくて明るい色合い、秋薔薇は小ぶりで濃い色合い。香りは、秋の方が強い。ふーん。それは今から秋が楽しみ。
「話していると、菖蒲かなって思ってきた。菖蒲のようにきりっとしていて、でも、爽やかな優しさがある声だなって感じる」
 菖蒲か。薔薇に比べたら地味だな。でも、嫌じゃない。メイク前のあたしが菖蒲で、メイク後が薔薇ってかな。でも、この子はあたしの顔が見えてないんだっけ。人間の顔がそこにあるぐらいしか。
「お兄ちゃんの声は?」
 希に聞いてみる。
「うーん。花っていうより、葉っぱ」
「葉っぱ!」
 つい、笑ってしまう。当の兄貴は、どう解釈したら良いのか困っているらしく、眼鏡の奥の目を瞬かせている。
「暑いときは、日陰になってくれて、雨のときは、雨宿りさせてくれる木の枝の葉っぱ」
 ああ、納得だ。希にとって、あいつはそんな存在なのだ。
「あっ」
 希が短く声を上げて、「しまった」とでも言うように頭を押さえた。
「菖蒲の香りって、葉っぱの方だった」
 おいおい、あたしも葉っぱかよ。望みが「ぷっ」と小さく笑ったので、あたしはヤツに向かってパンチする真似をする。希は、あたしが何か兄に向かってアクションをしたことはわかったらしく、兄とあたしと交互にキョロキョロと渦巻き眼鏡の顔を振った。あたしたちは、その愛らしくもコミカルな様子に
「あははは」
 揃って笑い声を上げた。もう、いいよ。おまえら、許す。あたしが葉っぱでも許してやるよ。
「じゃあ、自分はどう?」
 笑いを収めたあたしは、希に聞いた。希は自分自身の声をどう思っているのだろう。
「ううーん……わからない。自分のことを一番知っているのは自分のはずなのに、よくわからないこともある。どうしてだろ」
 そうだな。それ、何となくわかるワ。
「あたしは花の匂いには詳しくないけど、見た感じでなら……そうだねぇ、マーガレットとか、スズラン、ヒナギク――デイジーっていうんだっけ、とかかな」
 まだ雛の『マーガレットちゃん』って感じだからさ。
「デイジー、わたし、大好き」
 希が嬉しそうにコロコロと笑った。
「デイジーの花言葉、知ってる?」
「いや、知らないな」
「希望」
 マジかよ。
「綾子さんって凄い。いつも、わたしの好きを当てる」
 横で兄の望が「へえ、希望なんだ」と呟いた。知らなかったんだな。デイジーの花言葉、ちゃんと覚えとけよ。お前ら兄妹の名前なんだから。
 希と――望と希の兄妹と過ごすのは楽しい。派手に遊び回ってるわけでもないし、特別なことは何もしていないのに楽しい。心地良い。なぜなんだろう。
 オンのあたしは、計算高いキャバ嬢。ギラギラとしたド派手な姿で、この内にギラついたナイフのような心があるのだとチラつかせて。オフのすっぴんのあたしは、どんな人間なんだろう。どんな風に見えているんだろう。別にどうでもいいことだから、考えたこともなかった。すれていなくて、まだ子供の匂いのする中学生と、ダサくて冴えないけど、人の良いその兄と過ごすのが快いなんて、すっぴんのあたしの心は、どうなっているのだろう。
 
 それから、あたしは、仕事の合間に兄の望とぽつぽつと話すようになった。今日は客が多いとか暇だとか、天気が良いとか悪いとか、他愛のない話をぎこちなくする。あと、希の話。
「希とは一回りひとまわり近く離れているから」
 10歳ぐらい離れてんのか。
「いや、歳が一回りっていうのは、干支が一回り。12年です」
 えっ。そうなの。知らなかった。
「年配の人でも、勘違いしてる人いるから」
 気にしなくっていいと、賢明にフォローする。そういう気遣いを仕事でもしろよと思うが、気遣いが真面目すぎて上手くいかないんだよな、こいつは。
(下ネタ苦手だし)
 やっぱ、なんでキャバクラのボーイなんてしてんだ。公務員とか、リーマンの、よくわからないけど、金の勘定とかする経理だっけ、そういう仕事の方が向いてる、きっと。
 希の話になると、あいつの不器用な舌が滑らかになる。
「妹は、元々、明るくて人なつっこいんですけど、あんなに楽しそうに自分からたくさん話すの、あまり見たことないんです」
 ニコニコしながらも、どこか遠慮がある。
「遠慮があるから、楽しそうにするっていうんですか」
 ああ、それは、あたしにもわかるな。ちょっと違うけど、あたしだってそうだから。キャバ嬢なんて、みんなそうだよ。営業スマイルって言えば、それまでだけどさ、必死なんだよ。好かれるために。嫌われないために。稼ぐために。生きるために。
「産まれたときから妹をずっと見ているから、何となくわかるんですよね」
 言葉では上手く言い表せない機微がある。それも、何となくわかるかな。

「美咲さんって、どうしてオジサンの機微がわかるんですか」
 ロッカー室で着替え中に、あんまり売れてないコに聞かれたことがある。確かシオンって言った。
「昭和ネタとか詳しいし」
「仕事している間に、自然に知識ついてきた感じ?」
 昭和オヤジの客も多いから、話し合わせているうちに、そこそこ昭和ネタに詳しくなっちまったのだよ。
 世間では、昭和オヤジは煙たがられてるけど、案外と気持ちをくすぐってやるツボがわかりやすいから、コツさえ掴めば、まあ、転がしやすい客。太客かどうかは、また別だけど。
 昭和バブリーで、ハブリーなオヤジは、ヤツらが言うところのザギンに向かうから、あたしらの店のようなキャバクラに来るのは、しょっぱいのが多い。最初から最後まで、しょっぱい細客もいるけど、最初は景気よく積んでくれて、あと打ち上げ花火みたいにぱっと散って消えるタイプが割といる。金持ちじゃないのに無理して、すぐ軍資金が底をつくんだろうな。
 そんな細客や一発芸人みたいな客でも、知り合いのデカいのを引っ張ってくることがたまにだけどある。ミミズで鯛を釣るってとこか。だから、入れ込まれすぎない程度、他に持って行かれない程度に緩くぼんやりと繋いでおく。
「ええー、あたしはいつまで経っても、オジサンたちの話についていけない」
 たぶん、ついていけないんじゃなくて、ついていきたくないんじゃない? 本来、興味ないから。あたしだって、本音を言えばそうだけど。
「ああっ」
 新人の悲痛な声が聞こえてきて、あたしたちは会話を中断する。見ると、頭から胸の辺りまでドレスの布地に覆われた新人が万歳の格好で進退窮まっていた。「セットが」と切羽詰まった声がドレスに隠れた顔の辺りから聞こえる。
 ドレスを四苦八苦して体に収めた新人は
「安かったんですぅ」
 必死に髪のセットの修復を試みながら、嘆いた。ピヨピヨの新人はこれだから。
「だから、被りのドレスはやめとけっていったでしょ」
 せっかく美容院でセットしてきたヘアが台無しだ。安きゃいいってもんじゃない。身支度の優先順とトータルコスパを考えて、モノは選ばなきゃ。
 あたしは、ポーチの中身を確認するとロッカーを閉め、シオンの肩をポンと叩いて、中断された会話を締める。
「ま、金のためって思うしかないわよ」
 そう思えば、頑張れる。思えなければキャバ嬢商売そのものが向いていない。
 シオンがため息を吐いた。
(瀬戸際だな、このコ)
 これで頭を切り替えて一皮むけるか、切り替えられなくてキャバ嬢廃業か。本人次第だ。
 

ジャスミン茶、くちなし

 薄曇りの空。梅雨入りは、まだ聞かないけど、最近、こんなどんよりした天気が続いている。加えて、今日は、ムシムシしていて、梅雨って言っていいんじゃないかと思えてしまう。
「ジャスミンも今頃の時期なんだけど、この公園にはないのが残念」
「お茶の香りで我慢だね」
 あたしは希に言った。あたしたちは、いつものベンチに腰掛けて、ジャスミン茶を飲んでいた。
「くちなしは、日時計の近くで咲いてるよ」
 兄の言葉に
「うん。そうみたい。香りがする」
 希が頷いた。くちなしって、どれだ?
「ほら、あの白い花です」
 望が日時計のぐるりと取り囲む通路の脇にある白い花を付けた樹木を指差した。あれがくちなしか。くちなしなのに、むしろ白い花びらの口をぱっと広げたみたいな形だ。匂いはというと
「……ダメだ。わからない。ジャスミン茶の匂いが鼻についてて」
「くちなしは、ジャスミンに似た匂いだから」
「ジャスミンも白い花で、姿も似てますよ」
 そうなのか。あたしは、すんすんと鼻を働かせる。
「あ、これか。ジャスミン茶と同じような匂いだけど、ジャスミン茶より甘さが強いような……ジャスミン茶の方はこれより爽やかっぽいかな」
「そう、それ」
 希が嬉しそうに手を叩きながら、ベンチから腰をぴょんと小さく跳ねさせた。

 梅雨の季節は、どうも客入りが減る。ヘアのセットも崩れやすいし、化粧も崩れやすいから余計に気が滅入る。
 こういうときに頼りになるのは、常連客だ。
「天気がどんよりして気が重いから、美咲ちゃんの顔見て元気になりに来たよ」
 なんて店に寄ってくれる客は、ありがたい。天気のせいで鬱々していても盛り上げてあげようって思う。こっちも稼がなくちゃだし。
 大して売り上げにならなくても、ボトルをキープしてると、「飲まなきゃ勿体ない」って、客はある程度足を運んでくれる。ボトルキープは、客入りの減る季節の客キープのためでもある。上手く客の心を掴んでボトルをキープして貰うのは、常連客作りの基本だ。
 だから、日頃から客の心と財布をガッチリと掴んでおかなくちゃ。
 でも、心を掴みすぎてもよくない。心の四割か五割ぐらい掴んどけば良い。 多くても七割までだね。
 財布もそれくらい。全部、剥ぎ取る必要はない。
 心を全部掴んじまうと、財布も全部捧げてくる客もいる。そういうのは、後々、とんでもない面倒の元になるんだ。
 あたしは、前の店で、それは懲りたよ。店どころか、土地まで移ることになったからね。
 客を上手く掴むコツっていうのは、ありきたりなんだけど、店での接客のほかに、オフでも日夜、営業にも励む。マメにLINEやメールを送り、客のSNSにもコメントしたり、客があたしのアカウントにコメントしてきたら、それにも良いタイミングで返しする。それがそのまま、掴んだ客を離さないようにするコツでもある。
 でも、こういうのは、マメすぎてもいけない。
 相手によるけど、ときに、ちょっと距離を置いて、客から寄ってくるように仕向ける。毎日、メッセージ送ってたのをぷつりと断つ。追いかけられるより、追いかけたいタイプの客には結構有効な手段だ。その客がすぐに店に来たり、〈どうしてる?〉と連絡してくるのであれば、もう、そいつはこっちの手の中にある。
 2、3日断って、連絡もなく、店にも来ないのであれば、こちらから〈ごめん、具合悪くて……〉とか、さも事情があった風な連絡を入れる。それですぐに来店するなり、連絡が来るなりすれば、脈がないわけではないから、とりあえず付かず離れずにキープしておく。何のアクションもないのは、脈なしだから、さっさと切り捨てる。時間と労力の無駄。随分と経ってから、思い出したようにアクションがあった場合は、切り捨てず、だが、期待もせず、適当に転がしておく。たまに、徐々になびいてきて、馴染みになることもあるから。
 客同士が張り合うようにうまく仕込むこともある。
「○○さんは、誕生日に×××開けてくれたよ?」
「昨日、新しいボトル入れてくれたよ?」
 とか。そうやって客の競争心を煽る。
 ただし、あんまり客の財布事情からかけ離れた酒を煽りネタにすると、逆に「敵わん」ってなって撤退される危険があるから注意する。煽りネタは、酒に限らない。客の性格や嗜好、太さに応じて、ネタは変えるし、物なら金額も上下させる。例えば、酒なら、ちょっと年収の良いリーマンあたりなら、ドンペリ。ホントの金持ちなら、クリスタル・ロゼとかアルマンド。ウチの顧客じゃ、滅多にないけどね。

 小雨がダラダラと降り続いていたある日、指名を受けて席に着くと、しばらくご無沙汰の客だった。
「久しぶり。もう、美咲のことなんて忘れちゃったのかと思ってた」
 ちょっと拗ねた風を装うと、客はごめん、ごめんと謝りながら
「仕方なかったんだよ。運気上げるために風水してたから」
 妙なことを言った。
「どういうこと? 風水って財布を黄色や金色にするとかいうやつでしょ」
「ここしばらく、風の方に通ってたってこと。水とバランスとらなきゃ」
 ますます、意味がわからない。
(思い出したわ。こいつ、妙な拘りのあるヤツだった)
「あたし、頭良くないから、ちゃんと説明して」
 客の腕に手を回して、頬を膨らませて駄々っ子のように振り回す。わかった、わかったと客は、参ったように、でもニヤけながら、
「これは、俺が風水をやってみて、気が付いた究極の方法なんだけどね」
 解説を始めた。
 風水とは風と水と書く。運気を上げるには、風と水の両方のバランスを取って生活することが肝心である。家ならば、風通しや水回り。他にもいろいろと気を配るべき所はあるが、まずはこれが一番重要。仕事なら、風通しの良いオープンな人間関係、清流のように流れの良いやり方。店なら風通しや水の流れの良い状態と言えば、客の回転や資金の回転が良いこと。プライベートなら、風水のバランス良く遊ぶこと。
「だから、ここしばらくは、風の方に通ってたんだよ。で、今度は、水の方」
 あ、理解。ヘルプのコは首を傾げていたけど、あたしはわかった。つまり、風俗にしばらく通い詰めてたんだ。それで、今度は水商売のキャバクラに来てるってことか。
(すげー、こじつけ)
「そうそう、以前に風水的に金運が良くなるってことで、黄色い財布が流行ったでしょ。それで思ったんだけど――君たち、知ってる? 昔、アメリカのスラングで日本人の女のことをイエローキャブって言ってたんだ。向こうのタクシーって黄色い車体だから、誰でも乗せるっていう意味で。だとすると、風水的に言うと風俗嬢はイエローウォレットだよね。黄色い財布」
「ウォシュレット? トイレ?」とヘルプのコ。
「あははは、トイレ、あれも尻をのっけるから黄色いトイレでもいいか」
 ゴールドな水を出して流すところだしと、客の話は、突っ込みようのない下の方にどんどん流れていく。
「じゃあ」
 あたしは、ここで一発、こっちに有利な方向へ流れを変えてやる。
「水のお店で風水の開運するなら、ゴールドな飲み物じゃなくっちゃ、じゃない?」
 暗にシャンパン注文しろよと促す。
「やられたなぁ」
 客は、ご機嫌でそこそこのシャンパンの名を口にした。
「やったー、嬉しい!」
 あたしは、大げさにはしゃいでみせる。
(でも)
 こいつは、痛客ボーダーラインになる予感がするな。占いだの神様だのに凝りすぎてるヤツは、キャストにしろ、客にしろ、おかしな方向に行ってしまいがちだ。
 占い師に開運するって言われて、仏像みたいな括弧眉にしたコがいたけど、その眉毛のせいで客が引いていって、むしろ逆効果。だって、老けて見えて、婆くせぇもん。しばらくすると「店の方角が良くないって」占い師のセンセイが言うからと、移籍してったっけ。その後、どうなったんだろ。
 占いとか神様とかに凝った挙句、自分が占い師とかスピッツリスト? スピリリスト? とかっていうのになるのは、客にもキャストにもいる。信者を増やして稼ごうっていうのだろうけど、布教がうるせぇのなんの。そのうち話が飛躍しすぎて、扱いにくくなる。いや、扱えなくなる。ボーダーラインを超えちゃう。
 こっちも商売だから、客なら転がせるうちは転がして、ボーダーライン越えてきたって感じたら、徐々に距離を置いて自然消滅させる。キャストなら、大体、自然淘汰される。だって、客にドン引かれて稼げなくなるから。そういうのが好きな客もいるけど、限度ってもんがある。行き過ぎたのは、客だろうとキャストだろうと、周囲とかみ合わなくなって、消えていく。キャバクラだって、この世のもんだからさ。
 風水客は、ご機嫌で風水のうんちくを延々と垂れ流している。その声を聞いていると、風通しも水の流れも滞った梅雨の空気の臭いが鼻についてくる。
(この客、黴びるな)
 そんな予感がした。きっと、こいつはそのうち消える。

線香、ミント、百合

 梅雨明けと共に、店のロッカー室では今度、客と、カレシと、推しと海に行くとか、バーベキューするとかいう話が湧いてくる。ふと、もうすぐ学校は夏休みだと思って、希はどうするのか気になった。
 ちょうど接客していた客が帰り、化粧直しにトイレに向かったところ、通路で休憩に入ったあいつと会った。周囲には誰もいなかったので、希の夏休みのことを聞いた。
「お盆は、俺も休みなんで、一緒に過ごします」
 旧盆の期間中は、キャバクラも休みなところがほとんどだ。客の多数派であるリーマンが休みだからだ。会社に行って、その帰りに店に来るのだから、会社が休みなら店にも来ない。だから、土日祝日が休みなキャバクラは多い。長期の休みなら、客たちも実家に帰ったり、家族サービスしたりもするから、客入りは見込めない。店を開けていても経費だけが出ていく。ゴールデンウィークも客入りは減るが、なぜか盆暮れよりはマシである。旅行に行かない、あるいは行けない、ぼっちな客が暇を持て余し、侘しさを持て余し、店に来るからだ。
「旅行でもするの?」
 あいつは頭を振った。目が悪いと、人混みは危険が多い。夏休みは、どこもかしこも観光地は人集りだから。避暑地の別荘や高級リゾートだと良いのだろうけれど、そんな金はない。
「両親の墓参りぐらいです。あとは、俺の狭くて古いアパートで、ごろごろしてます」
 兄妹が仲良く、カップメンや西瓜なんて食ってる姿が浮かぶ。
「兄妹水入らず、いいじゃない」
「まあ、今は良いんですけど……」
 希がまだ子供のうちは、狭い一部屋のアパートで過ごすのも良いけれど、年頃になったら
「嫌がるかなあって」
 娘に嫌われるのを恐れる中年親父みたいなことを言う。確かに、女の子は成長するにつれ、男にはないデリケートな問題が発生してくる。
(ん? ということは、希はまだ初潮が来ていないのかな)
 学校や寮にいれば、先生や寮母さんなんかが対応してくれるのだろうけれど、その外でその時が来てしまったら……。
「んー、ま、そうなったら、近くに住んでる女一人のあたしんところに来るか?」
 希だけな。
「したら、あたし、引っ越しできんか。この店からも移れないし、キャバ嬢も卒業できなくね?」
 だから、あんた、早く出世して広くて便利なところに住めと、あたしが戯けると
「だから、早く希の目を治してやりたいんですけど」
 あいつは、黒縁眼鏡をそっと伏せて、真摯な声でそう言った。

 どこからか線香の匂いが漂ってくる。
(お盆だもんな)
 望と希の兄妹に会うために、ひょろなが公園に向かっていたあたしは、線香の匂いに、墓参りなんてしたのは何年前だったろうかと思う。休み前に聞いていた話どおりなら、望と希は、昨日、墓参りに行ったはずだ。

 あいつはボーイを始めてから、結構、経つんだろうに、未だにどこか自信なげに働いている。接客の笑顔が相変わらずぎこちない。そんなんだったら、いっそ事務方の仕事だけさせとけばいいのにって思うけど、慢性的に人手不足だからそういうわけにもいかないか。キャストはもちろん、ボーイもすぐに人が入れ替わる。大学生バイトのキャストなんて、短期で辞めるコも多いし、ボーイも試験の時とか休むし、人手の波もある。
 あいつに、なんでキャバクラのボーイなんかしているのか尋ねたことがある。
 始まりは、就活中のバイトとして選んだことから。それはよくある話だ。キャストでもボーイでも、大学生のバイトはいるし、特にキャストは、会社辞めて次が決まるまでとか、夏休みだけとか働く短期のヘルプのコもいる。
「昼間の時間は、就職活動のために空けておきたかったし」
 昼間に時間のとれる仕事は、居酒屋とか、コンビニとか、他にもあったが
「時給が高かったんです」
 結局、就活はなかなか上手くいかず、未だキャバクラのボーイだ。
「実は、事務方の方で、正社員にならないかって話があるんです」
 ボーイの素質はないが、事務の素質はあるんだ、こいつ。事務仕事担当が急に辞めてしまって、困っていた店長がふと思いついて、こいつに事務の仕事を手伝わせたら、結構、使えることが判明した。
 店長は、くそ忙しい。客にもキャストにも気を配らなくちゃならないし、書類を書いたり作ったり、計算したりっていう事務の仕事にも目を配らなきゃならない。何なら、店長自ら、そういう仕事もする。事務の仕事って、よくわかんないけど、面倒臭そうだもんね。噂では、その面倒臭い事務の仕事を任せてたヤツが店の売り上げくすねて飛んだって話で――キャバ嬢の話って、見てくれと一緒で盛られてるから信憑性は眉唾だけど。まあ、噂話ってのは、キャバじゃなくても盛るか――だから、あいつは安心安全だと思ったんだろう。ダサすぎて真面目すぎて、商品キャストにも、金にも手を付けることもないって。
 結構、ウチの店長、安全第一っていうか、事なかれっていうか、水商売の人間にしてはパリピ部分が薄いっていうか……。たぶんだけど、管理職や経営者ってなると、キャバクラ商売でも手堅い考え方になるんじゃないかな。会社員とキャバクラ勤めの二足わらじを履いている梨菜が「管理職や役員になると、考え方がヒラのときとは違ってくる」って言ってたから、そうなんだろう。きっと。
 正社員の話は、あいつにとっても悪くない話だ。しかも、事務の仕事なら、夜商売でも、割と普通っぽい仕事な気もするし。
 あいつは、妹を気遣って、普通の仕事と嘘ついてまで、キャバクラで働いているのは、やっぱり、その妹のためだ。
 両親が亡くなってから、借金があることがわかった。知人の借金の保証人になって、その知人が借金をそのままに蓄電したからだ。お人好しかよ。
 両親の死の原因である自動車事故も、雨の日に、飛び出してきた猫を避けようとして、激しく電柱にぶつかったからだというから、やっぱり、人が良かったんだろう。お人好しってのは、この世知辛い世の中で生き残りにくいんだろうな。
 両親の保険金は、借金の返済にすべて充てられて、1円も残らなかったという。あいつは大学を中退し、働き出したが、中退っていうのは、大学でも良い職にありつくのは大変らしい。
 あたしは、昼間の普通の仕事なんてしたことないからよくわかんないけど、昼間の仕事でも、ブラックとか、低賃金とか、下手するとキャバクラなんて屁でもないほどヤバイ仕事とかがあるのかもしれない。極端な話、振り込め詐欺とか? すると、キャバクラなんて、収入でも仕事内容でも、まだマシってことになるのかも。
「金貯めて、妹の目をなんとかしてやりたくて」
 今は、ようやく何かがいるぐらいには見えている希の目は、そのうち全く暗闇になるのだという。手術すれば、日常生活なら何とか困らない程度には、見えるようになる。あいつは、そう言っていたっけ。
「だから、正社員の話を受けることにしたんです」
 夜の仕事からは抜けられないが、バイトより収入も良くなって、安定するからって。
「良かったじゃん」
 あたしも喜んだ。こいつには、ボーイ仕事よりサラリーマンみたいな事務仕事の方がきっと向いている。おまけに収入も良くなる。そして
(この店で働き続けるんだ)
 そのことに、不思議なほど安堵した。

 ギラついた太陽の勢いが落ちた夕方の公園で、あたしたちは無言でチョコミントアイスを囓る。温暖化の昨今、真っ昼間より夕方は涼しいとはいえ、気温は相変わらず高いのだ。早く食べないと溶けてしまう。
 ミントの香りは、あたしにとって夏の匂いだ。子供の頃も、夏にはミントアイスをよく食べた。あたしがミントアイスを食べているのを見つけると、妹は必ず「ちょっと頂戴」とねだってきたっけ。
(あたしが買っといたミントアイス、よくあいつにこっそり食われたな)
 自分はこれが良いって、別の種類のアイスを買ったくせに。なのに、あたしのをくすねる。欲しがる。だったら、お前もミントアイス買えよと思うが、姉のを貰えばいいやと考えるのか、アイスに限らす、ヤツは、必ずあたしとは別のものを選ぶのだ。ちゃっかりしてんだよ。
 あたしが「あたしのアイス、食っただろう」と妹を問い詰めると、「知らない」と言い張る。
「証拠ないじゃん」
 澄ました顔で否定するが、妹が口を開く度に漂うミントの匂いは、「自分が犯人です」としっかりと告げている。第一、親たちはミントアイスが好きじゃなかったから、家であたし以外にそれを食うのは、お前しかおらんのだよ。毎度、このパターンだ。
(いくら子供と言えども、バカだったな、アイツ)
 全然、学習しない。あたしもバカだったけど、アイツもバカだった。種類の違うバカだったが、やっぱりバカだった。そこだけは、あたしたち姉妹は、よく似ていた。

 ミントアイスを食べ終えた後の口には、しばらくミントの余韻が残る。あたしの鼻は、口に残ったミントの香りの強さに嗅覚が完全支配されていてさっぱりだったが、希の鋭敏な鼻は、いち早く他の匂いに気が付いた。
「百合の匂いがするんだけど」
 見渡すと、ドヤ顔で花壇に咲いているひまわりたちの隣にラッパみたいに尖った白い花と、花びらに黒いポツポツのあるド派手な朱色というかオレンジの花が並んでいた。白い方はちょっと盛りを過ぎたのか、首をかっくりと垂れているものが多かった。白い方は鉄砲百合、オレンジの方は鬼百合って言うんだと。周囲を漂っている香りは、その百合のものか。同僚の琉花が付けてる香水の香りに似てる。あれは、百合の香りだったのか。
 琉花は、何かというと鉄砲みたいに唇を尖らせる仕草をして、「鬼カワイイ」「鬼ウザ」と、鬼を枕詞のようにくっ付けて言葉を発する。あたしは、それを思い出して吹き出しそうになった。狙ったみたいに匂いと被っていて、ウケるんですけど。
 思わず、そのことを口走りそうになって
(おっと、ヤバイ)
 あたしは口を締める。希にキャバクラ仕事のことは知られてはならない。うまいこと脚色して話そうかともちらりと思ったが、どこで墓穴を掘るかわからない。こういうの、決まり文句みたいな言葉があったなぁ。ナントカ足っていう。あたしは、こっそりとスマホで検索する。あった、あった。
(馬脚を現す、か)
 ちょっと賢くなった。忘れなければ、だけど。

「本当は、映画に関わる仕事がしたかったんですけど」
 いつだったか、あいつが言ったっけ。
 
 映画というと思い出すのが、自主映画を趣味で作っているという、そこそこ太かった客のことだ。お愛想で、ショートムービー投稿サイトのそいつのアカウントを覗いたけれど、転んだ男からカツラが落ちるとか、顔にクリームパイをぶつけられた男がクリームまみれの顔を犬になめまくられるとか、映画というより一発芸動画。しかも、面白くない。
「美咲ちゃん、今度、女優として俺の作品に出てくれないかな」
 なんて、ねっとりとした目付きで言ってきてたけど、何の女優だ。下心が見え見えなんだよ。
「やだぁ、あたし、顔にパイぶつけられたくなーい。ワンコになめられたくなーい」
 あたしは、大げさに騒いで拒否する。
「あれぇ、俺の作品、見てくれた?」
 客は、ちょっとご機嫌になる。あたしは「もちろん、××さんのだもん、××さんのこと、知りたいから見るよ」とお愛想。すると、ますますご機嫌になって、ついでに調子こいて、あたしの肩を抱いて
「美咲ちゃんなら、犬じゃなくて、俺がなめちゃうよお」
 犬になめられるより、気色悪いっつうの。
「ええ、やだもう。そんなの恥ずかしいから、やだ。意地悪。嫌い」
 ここは、ブリブリのぶりっ子モードのふくれっ面で不機嫌を思いっきり作って、客を軽く突き飛ばして引き離す。
「ごめん、ごめんって」
 なんとかこの話題からも引き離す。
(そろそろ、こいつ自身も引き離すか)
 この客は、最近は腹も細ってきてるから、太客から痛客になりつつある。潮時かな。ちょうど、ヘルプのコが「ワンワンなら好きだから、ななるん、いいかな」と小首を傾げて呟いたので
(こいつに下げ渡すか)
 そう決めて
「ななるん、ワンコならいいんだぁ」
 話を振った。
 ちなみに、この変な源氏名の前職は、オタクの聖地でメイドさん。あくまであたしの中でだけど、名前に〈るん〉とか〈ぴょん〉とか入ってくるヤツは、メイドとか地下アイドルとかのアキバ系女で、一時、めっちゃ流行ってた〈めろ〉が入ってんのは、擬態ギャル系って感じ。
 このアキバ系列のななるんは、ステップアップ……じゃない、グレードアップ? それともバージョンアップだっけ? そういうのを狙ってキャバクラに転職してきたんだと。マジもんか養殖かわからないけど、この天然ぶりに、(自称)自主映画監督の客を下げ渡したっけ。そう言えば、最近、二人とも見ないな。
 ふと、思い出して、待機部屋にいるときに、隣にいた美羅に「最近、ななるん、見ないんだけど」と聞いてみた。
「辞めたよ」
「何で?」
「男じゃない? 男」
 珠里が横から口を挟んできた。
「男? 客とか?」
「さあ、知らないけど。たぶん」
 お前の想像か。珠里はいつも、見聞きしたとかじゃなくて、自分の想像とか妄想で噂を流す癖がある。またホラかと思ったが、キャバ嬢の抱える問題は、金以外なら、客であろうとなかろうと、男絡みであることは多い。というか、金絡みも、そもそもの発端の大半がそう。
 ここに来る前にいた店で一緒だった麻鈴は、ボーイとデキちまって、辞めてったっけ。商品のキャストに手をだしたボーイが辞めさせられるのは当たり前だけど、商品の方だって居づらくはなるわな。別の店で働いていたけど、またボーイとデキて辞めたって噂で聞いたけど、何で同じ下手へた、繰り返すかな。麻鈴の男癖なのかな。
 その前の前の店だったかと思うんだけど、そこの古株のアリサさんは、うまく立ち回ったつもりで、最後の最後でしくじった。キャバ嬢生活に飽いてきて、太客との結婚を目論んだ。これと目星を付けた独身で馴染みの太客の子を妊娠して、「よし、結婚」って意気込んだけど、その客は、半信半疑……というより、完全に疑った。
「それ、俺の子?」
 他の客とも、当たり前のように寝てるんだと思ってたみたい。確かに、彼女、他の客とも寝てたからね。三股ぐらいかけてたんじゃないかな。保険ってやつ。本人は、
「タイミング計って、計画的に孕むようにしたから、間違いなくあの人の子なんだけど」
 って言ってたけど、本当のところはどうなんだろう。
 結局、アリサさんは、その太客に費用を出してもらって、子供を始末した。そして、店を移ってった。今頃、どうしてんだろ。まだ、キャバ嬢してんのかな。アリサさんも、他の仕事ができそうにないし。それとも今度こそ、誰かとうまいこと結婚退職したんかな。

「美咲さんは、映画なんて見ます?」
 話題のものなら、ネタとしてたまにな。ほとんどダイジェストか、倍速でだけど。シアターには行かない。時間ないし。
「最近、ゾンビ映画見たかな。数年前のものだったけど」
 TVを点けっぱなしてたら、いつの間にか始まっていて、何となく見てしまった。コメディータッチだったから、全然怖くなかった。
「あ、それ、俺も見ました。確かに怖くなかったですね」
 そして、両手の親指と人差し指をL字にして四角い枠を作り、目の高さに掲げて「でもまあ、そこそこ面白かったかな」と呟いた。
「あたしはさ、ゾンビの特殊メイクに、盛りに盛って、作り込みに作り込んだキャバ嬢メイクを思い出した」
 あたしらのメイクって、あのレベルだな。
「もう詐欺だもんな。経歴詐称ってあるけど、顔面詐称? ギャバ嬢、引退したら、特殊メイクの仕事でもすっかな」
「あはははは、確かに……あ、すみません」
 思いっきり笑ったあとに、あいつ、慌てて謝ったっけ。正直なんだか、うっかりなんだか、ホントに不器用な奴だ。

アベリア、金木犀、アロマオイル

 9月に入ってすぐの休日。本日は、ちょっとジャスミン茶っぽい香りが微かに公園に漂っている。香りの元は、アベリアという花だ。小さな葉がもしゃっと生い茂る中に、くすんだ白っぽいピンクの小さな花がこれもまた、もっしゃりと咲いている。
「もうちょっとしたら、金木犀が咲くんだけど」
 キンモクセイ。トイレの芳香剤によくあるやつか?
「トイレの芳香剤によくある香りですね」
「もう、お兄ちゃん」
 兄の風情も情緒もへったくれもない解説を希が咎める。すまん、希。あたしも同じことを思った。
 ごめん、ごめんと謝りながら、希の頭を撫でる望の指に貼られたカットバンに、あたしは3日前のことを思い出す。
 
 3日前、同僚キャストのユウナのオトコが店に乗り込んできて大暴れ、警察沙汰になった。
 八月に入ってからだったろうか。夏だというのに、ユウナが露出の少ない長袖のドレスを着てばかりいることに、あたしは気が付いた。着替えの時に何気なくユウナを観察すると、腕にところどころ痣がある。
「どうしたの、それ」
「ちょっとね」
 言葉を濁すということは
「オトコ?」
「……」
 黙るということは
「そうなんだ」
 ユウナは観念して、打ち明けた。
 数ヶ月前から付き合い始めたそのオトコは、付き合いだして間もなく、仕事を辞めた。すぐに金に困って、ユウナの部屋に転がり込んできた。仕事を辞めた理由は定かではないが、盛んに「あいつら頭悪いんだよ」「クソ」「クズ」「カス」と愚痴っていたから、人間関係だろう。ただし、上司や同僚と上手くいかなかった原因もわからないから、彼自身に問題があってのことかもしれない。
 当初は、新しい仕事を探している素振りは見せていたが、直に「俺には合わない」「くだらねぇ」「見る目がない」「良い仕事がない」などと言って、探さなくなった。どうも、最初に1、2社落とされて、それから拗ねてしまったようだ。ユウナは、オトコを励まして仕事を探させようとするが、ヤツはそれが面白くない。今度はユウナに「上から目線で説教」「男と女は違うんだよ」「女は男に媚び売れば金になるから良いよな」「昼間の仕事なんてできねぇくせに」と逆ギレするようになった。
「もう、こっちが心砕けそうで」
 とうとう別れ話を持ち出したら、「バカにしやがって」と暴力を振るうようになった。
「最初は、痣になるほどひどくはなかったんだけど」
 やがて服に隠れて見えない部分を強く殴ったり蹴ったりするようになって
「今は、顔以外は攻撃してくる」
 顔にダメージがあると、キャバ嬢は仕事に支障をきたすから、そこは避けているのだ。クソだな。
 こっそり自分だけ部屋を出て、店も移ればと考えたが、オトコは、ずっと部屋でごろごろしているから難しい。せいぜい、コンビニに行くぐらいの短時間しか外出しない。
「もう、警察、行っちゃえば」
「やっぱり、それしかないか」
 ユウナは重くて長いため息を吐いた。

 それから、しばらく、あたしは指名が快調で、ひっきりなしに途切れずに入り――それはそれで喜ばしいんだけど――忙しくてユウナとあまり話す機会がなかった。オトコのことがどうなったのか気になってはいて、ユウナに尋ねる機会を窺っていたら、3日前の事件だ。
 ユウナとオトコの間に、どういうやり取りがあって、オトコが暴挙に至ったのかはわからない。大したトラブルもなく、突然、スイッチが入ったのかもしれない。そういうヤツっているから。男でも女でも。
 その日、開店して客がボチボチ入り始めたところで、ユウナのオトコがふらりとやって来た。あたしは接客中で、ユウナはちょうど指名が入って、待機部屋からフロアに出て来たところだった。
 オトコは、ユウナの姿を見つけると、「お前」と呟いて掴みかかった。驚いたボーイが止めに入ると
「みんな、バカにしやがって!」
 手近にあったアイスペールを引っ掴み、氷をぶちまけた。客あしらいに慣れていない新人ヘルプのコの悲鳴が響き渡った。
 それからは、ヤツはただひたすら大暴れだ。テーブルをひっくり返し、キャストでもボーイでも客でも、手当たり次第に蹴飛ばし、フロアの端にあった消化器を見つけると、それを振り回した。
 駆けつけた警官にヤツがしょっ引かれていったあとの店は、もう滅茶苦茶で、その日は急遽、臨時休業となった。
 客のいなくなったフロアで、ユウナは、呆けた顔で座り込んでいる。セットした髪が無残に崩れ、乱れている。あたしは思わずため息が出た。
 男なんて、これだからやっかいだ。キャバ嬢には、どうして碌な男がつかないんだろう。
 ユウナの前のオトコは、確かギャンブル癖のあるヒモ男。心はギャンブルに依存して、生活は女に依存する。どうしようもない奴。今回のはDV男。で、やっぱりヒモ。そもそも、ユウナがキャバクラで働くことになった切っ掛けも男だ。ホストに入れ込んで、ツケが膨れ上がったからだ。
 ホスト絡みでキャバクラ勤めを始めるコは多い。壁際にいる、涙ぐみながら手を取り合って震えている真凜とありすもそうだ。ありすなんて、推し活のなれの果てでキャバ嬢してる。推しのメンズ地下アイドルがホストに転身し、それを追いかけてホスト沼にドボン。担当ホストの被りが飛ばした売掛金も、言葉巧みに肩代わりさせられた。風業界に売り飛ばされなかっただけでもマシだが、もういい加減、男なんて懲りろよ。
 ユウナに向かって「いい迷惑!」とギャーギャー喚いている珠里だって、太客になると見込んだ男と寝たために、すったもんだしただろう。そいつが細って、珠里が他の客に乗り換えたから。しかも、他のコの客を寝取った。
 体を使ってゲットした太客は、真の太客じゃない。やたら体の関係を求めて来る奴も、太客にはならない。そういう奴は、最初は羽振りが良さげでも、段々、細ってくる。細ってくるだけならまだいいが、そのうちカレシ面して拘束してきたり、部屋に転がり込んできてヒモに成り下がる奴だっている。そういうのは、キャバ嬢が体を使って男をゲットしたと思っているように、男も体でキャバ嬢を支配していると思い込んでいる。
 ――客にならない男はいらない。金にならない客はいらない。
 客は、体じゃなく懐(ふところ)を掴むんだ。心と財布っていう懐をね。
 ――男は裏切るし、客は寝返るが、金は裏切らないし、寝返らない。
 あたしは、二十数年の人生で、それを嫌と言うほど学んだよ。
 めちゃくちゃになった店内の片付けを手伝っている望が目に入った。グラスの破片で手を切ったのか、顔をしかめた。性格が良い奴は、どうして要領が悪いのだろう。ぱっとしないんだろう。あたしは、カットバンを探して事務室に向かった。

 ぼんやりと3日前のことを思い起こしていたあたしに、希がピンクのリボンのついた小箱を差し出した。
「ちょっと遅くなっちゃったけど、誕生日だって聞いたから」
 先日の9月1日は、あたしの誕生日だ。防災の日。
 何年か前、博学自慢の客が「二百十日にひゃくとうかだね」って言うから、どういう意味か尋ねたら
「立春から数えて210日目に当たる日のことで、今年は今日がその日。大体、9月1日前後に当たることが多いね。台風が襲来することが多くて、農家にとって厄日ってされてる。その辺りの時期って、稲の花が咲いて穂が実ってくるころだから、それが台風でやられちゃったら困るだろう。だから、余計に良くない日なんだろうね」
 そいつは、ドヤ顔で教えてくれたが、厄日生まれと言われて嬉しいヤツなんているかよ。
「えー、あたし、厄日生まれの女ってこと? やだー、傷つくぅ」
 大げさに嘆いてふてくされて見せたら、シャンパン入れてくれたから、あたしにとっては、逆にラッキーデーになった。
 それからは、厄日生まれを逆手にとって、
「今日、あたしの誕生日。二百十日の厄日なんだってぇ。厄落としに、ぱーっとしたい」
 なーんて言って、シャンパン開けさせる。客が指定した酒が思ったより安かったら、
「えー、コレなのぉ」
 眉を八の字にして頬膨らませ、可愛くごねる。
 誕生日の前に、「もうすぐ誕生日なんだ」と同伴をねだるのは、みんなやってることだけど、あたしは馴染みの太客なら、そのときも二百十日ネタを使って、店に行く前にブランドバックや靴、アクセサリーなんかを厄落としと称してプレゼントして貰う。
 もし、あたしの二百十日ネタを客が逆手に取ってきて
「じゃあ、厄落としにアフター」
 とか言ってきたら、そこであたしは客を振り分ける。ヤリたい下心しかないヤツは、完全アウト。
「このあと、女の子たちだけでバースデーパーティーだから」
 などと客が逆乗りできないような理由を見繕って、完全撤退させる。あわよくばっていう下心半分のヤツで、誘いを断り切れない相手に対しては、グループに持ち込む。
 そもそも、アフターは現金にならないから、基本、あたしは適当に断ることが多い。たまにサービスで行くときは、できるだけ他の子たちと一緒に持ち込む。「○○ちゃん、××さんがアフターだって。一緒に行くぅ?」なんてね。売れてなくて金欠なコならまずついてくるし、そうじゃなくても、キャスト同士、その辺は察し合ってフォローし合う。グループなら示し合わせて、さりげなくシモ客――あたしは、そういう下心客を勝手にそう呼んでいる――の欲望を萎びさせることも、そいつから逃げることもしやすい。

 希から渡された小箱を開けて見ると、小瓶が3つ。アロマオイルっていうやつだ。グレープフルーツ、ラベンダー、ベルガモットとそれぞれに書かれている。それから4、5センチほどの平たい白い石灰のような石が3つ。それぞれシンプルな平たい丸、星、花の形をしている。使い方の説明が書かれた用紙も入っている。ショップのロゴが入った手作りっぽいカラフルできれいな紙。
「岬さん、朝が弱いって言ってたから」
 睡眠と目覚めに効くものを選んだと言った。ラベンダーは安眠に、グレープフルーツとベルガモットは、両方とも目覚めに効くが、ストレスや疲れが溜まってるときの朝にはベルガモット、とにかくしゃっきりしたいときはグレープフルーツが良いのだと。
「グレープフルーツは、時差ボケなんかの時も良いんだそうです。時差ボケがどういうものかよくわかならいですけど」
 兄貴がちょっとボケた解説を付け加える。
「どれも、ブレンドして使っても良いんだって。お店の人から聞いたの。それから、名刺に香りを付ける人もいるんだって」
 営業の仕事の人なら、ベルガモットがお勧め。ベルガモットは、紅茶のアールグレーの香り付けにも使われる割と万人ウケする香りで、爽やかで上品な香りだから、人当たりが良くて知的な印象を与えるとか。
 希には、あたしたちは、会社で営業の仕事をしていると言ってある。営業は人と接する仕事だから、あながち嘘でもない。あたしは、客に営業LINEやメールをするしな。「すごく嬉しいな。ありがとう」
 本当に嬉しいサプライズだ。純粋にあたしのためを思って、一生懸命、考えて選んでくれたってわかる。駆け引き半分の、何なら駆け引き百パーセントの、客からプレゼントを貰うのとは全然違う。
「希の誕生日はいつ?」
 尋ねると希が「ふふふ」と笑った。兄貴もふっと笑う。
「あのね、3月1日なの」
 ちょうどあたしの半年後か。3月生まれだから、希は同学年の子より小さくて幼い感じがするのかな。
「何の日かな。あたしのは、防災の日だけど……」
 スマホで検索すると、出るわ、出るわ……。
「随分、いろんな日になってる。マーチの日、マヨネーズの日、デコポンの日」
 エイズ差別ゼロの日なんてのもあったけど、これは純朴JCには言えないから無視して
「あと、防災用品点検の日だって」
 マジか。これは笑うわ。望が吹き出した。希なんて、例のごとく、据わったままぴょんと跳ねて手を叩いている。この子が大ウケしているときの癖だ。
「じゃあ、誕生日には、保存の利く桃缶をプレゼントしようかな」
 冗談でそういうと、
「桃缶、大好き」
 希は大喜びだ。兄貴は兄貴で「桃缶、結構、高いですよね」とマジ顔で言う。
(こりゃ、本当に桃缶にした方が良いのか? 桃缶の詰め合わせとか? それじゃお歳暮とか、お中元だっつうの)
 あたしも、つい、マジに考えてしまって、桃が沢山のったバースデーケーキにしようと思いついた。
(どこの店がいいかな)
 あたしの知ってるパティスリーをいくつか思い浮かべる。
(あ、でも、どこで食べる? このベンチは無理だろう。じゃあ、ホテルのバースデープランとかが良い? びびって遠慮するか。持ち込み可のカラオケ個室は?)
 あれやこれやと考える。なんだかウキウキしてきた。つきさっきまで思い出していた3日前の憂鬱な出来事なんて、綺麗さっぱり頭から消えていた。

 9月は、季節の変わり目だ。体調を崩す人も多い。
 あたしは、季節の変わり目に寝付きが悪くなる。だからなのか、寝覚めも更に悪くなる。だが、今年は、例年よりはマシな気がする。枕元にラベンダーのアロマオイルを垂らしたストーンを置いているからかもしれない。起きたらグレープフルーツのアロマを嗅ぐ。痛客に振り回された日は、ベルガモット。
 それから、名刺にもベルガモットの香り付けをしている。アロマセットに付いていた説明書に従って、化粧用コットンにアロマを垂らしてジップ袋に名刺と一緒に入れる。名刺がアロマオイルに直接触れると変色してしまうから、コットンと名刺がくっ付かないように袋の中に並べて入れるようにする。
 翌日、あたしは、周囲に人がいないときを見計らって、あいつに忍びより
「これ」
 面前に香りの付いた名刺をあいつの顔面に、にゅっと突き出して、ひらひらと振った。
「あ、これって……」
「希にお礼を言っといてね。最近は、寝付きも良い感じだし」
「良かった。役に立ってるんですね」
 良い表情であいつは笑った。
 9月はまた、人の替わり目でもある。年度替わりの3月、4月ほどではないが、リーマンは異動のシーズンだ。客の顔ぶれが幾ばくか替わる。地方に行っちゃう客もいるから。だから逆に、しばらくご無沙汰だった顔がひょっこり戻ってくることもある。
 ユウナは、オトコが警察に留置されている間に素早く引っ越した。店も移るつもりでいたが、そもそもキャバ嬢暮しに疲れてきていたから、移籍するのも面倒だった。考えた末に、住まいを引き払えば、店だって移籍しているとオトコは思うだろうし、区切りの良いときまでこの店にいて、これを最後にキャバ嬢は引退しようと決めた。
「それに、カレ、警戒されてる店にまたしても乗り込んでくるほどバカじゃないと思うんだ」
 ユウナに暴力振るうにしても、服で隠れる部分にしか攻撃してこなかった狡猾さのある男だ。そのくらいの計算はするだろう。
「養ってたカレシもいなくなったし、もうちょっと頑張って、お金貯めたら、昼間の仕事に戻る」
 だから、お金バックと元彼避け、新たなクソ男避けを兼ねて同伴頑張ろうと思ってると、ユウナは案外サバサバした顔で言った。

〈つづく〉

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