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ガチ世間 言い訳だけは柔軟で

『メアリーの統べて』という映画を見た。もちろん GYAO!無料で(笑)。3月でGYAO!サービス終了なので、今のうちじゃ、と見まくっているわけです。

 小説『フランケンシュタイン』の作者メアリー・シェリーが主人公で、実話を元にした作品だ。
 実は、この作品は、ずっと観たかったのだ。劇場公開当時の予告を見て、メアリーの姿に心に迫るものがあったから。
 結果。正直、前半は平たんな流れで退屈なのだが、後半からドラマチックに巻き返してくる。最後は妙にきれいにサクッとまとめちゃって、ちょっと物足りない感があるのだが、仕方ないか。すでに結構尺が長いから、見てる方も疲れてくるし。

 ラスト近く、メアリーが『フランケンシュタイン』を出版してくれる出版社を求めて奔走するのだが、どこからも拒絶される。
断りの決まり文句は
「若い女性が書くものではない。読者は受け入れない」。
だが、彼らは果たしてメアリーが「若い女性」ではなかったら、受け入れてくれたのだろうか?
 もし、彼女が18歳ではなく、30、40代の女性だったら?――今風の言葉で言えば
「これは子育て世代の女性が書くものではない。読者(世間、社会)は受け入れない」
 と言っただろう。
 もし、50、60代の女性だったら?
「BBAが書くものではない。読者(世間、社会)は受け入れない」
 と言っただろう。
 たぶん、彼らがイメージしている「こういう小説を書きそうな人物」でなければ、どんな人物であれ、受け入れなかっただろう。

 メアリーの時代ほどではないが、今もまだそういう風潮はないだろうか? 性別や年齢だけではなく、見た感じや肩書き、家柄などなど……。
 男性だって、例えば編み物や裁縫が趣味の男性がいたとして、「男のくせに」「おかまじゃねぇの?」と嗤う人は多いだろう。だが、趣味ではなくテイラーであるとか、デザイナーであるとか、趣味であっても編み物で前衛アート作品を作っているとかならオカシイと嗤わないだろう。
 小柄で虚弱な印象の、運動音痴の女の子がいたとして、親が選手やコーチでもないのにウェイトリフティングやると言ったら、バカじゃねぇのと、呆れる人が多いのではないだろうか。口先では「頑張って」などど言っいながら、巧みに意気消沈させて止めさせる方向に持っていく。
 そんなケース、よくあるでしょ。

 まあ、初対面の人に対して下手な対応をしたくないから、人は、その相手に対して見た感じから判断した常識的な規準で対応しがちである。私だってそうだ。
 だが、「そうではない」とわかったとき、自分が思った「規格」「レッテル」「規準」「振り分け」から外れていることを許せない人がいる。なぜ、自分が――あるいは世間が――イメージしたとおりではないのかと憤慨し、非難し、自分のイメージどおりであるべきと諭す。
 別に社会秩序を乱しているわけでも、法を犯しているわけでも、仕事に支障をきたすわけでも、誰かを傷つける行為をしているわけでもないのに、「自分のイメージ規準から外れている」というだけで。
 でも、中には発達障害とか、何かしら精神的な問題を抱えていて、その人にはそれが「どうしても許せない」項目に該当してしまって、「規準」から外れた人がいるということで、その人が傷つくこともあるかもしれないから、こういう問題も、どこまでどう言っていいのやら難しい。

 まあ、それがマウンティング行為やモラハラの一種である場合も多くある。大体、相手が自分より立場など力関係が上だと、執拗に糾弾してこないから。下だ、弱いと思っているから強要してくる。その場合、「自分のイメージ規準から外れている」ということは、ハラスメント材料のネタ的なものの一つであって、規準通りなら規準通りで別にハラスメント材料をそこからひねくりだしてくるだけだから、世間や社会一般云々以前の論外であるが。

 随分と映画の感想から話がズレてしまった。
 ネタバレになるが、メアリーの『フランケンシュタイン』にインスパイアーを与えたポリドリは、『吸血鬼』という小説を書いたが、無名であったがため、版元から勝手に世間に名の知れた詩人のバイロンの作とされてしまって、メアリーと同様の口惜しい目にあう。
 いつの時代も、どこの国や場所でも、未だにそういうことがあるのを示唆しているようで、何とも言えない気分になった。

 ともあれ、前半はかったるいが、後半は今の時代でも未だに被る事どもが多くて、「人間ってのは、しょうもねぇ」と考えさせられる作品であったので、暇なら見ても良いでしょう。

 余談ですが、画像に使用させて頂いたフランケンの横に出てる博士の顔が心なしポリドリに似ているような気がしている……。

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