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生きた証 沖縄遺骨収集

遺骨収集活動というものを皆さん知っているでしょうか。先日5泊6日に渡り初めて参加したので考えた事、感じた事を書きたいと思い書いています。

ボランティア団体に入り初めての夏、学生の時にしか出来ない事がしたいと思いなんとなく、沖縄県戦没者遺骨収集活動に参加しました。

実際の遺骨収集活動は想像していたものとは違いました。ご遺骨を探すためにまず、道を確保したり、カンを収集したりと、暑い中大変な活動でした。ガマと言われる岩が重なり合った洞窟のようなところは暗く、電気をつけないと殆ど見えないような場所でした。

次の日、平和学習として佐喜眞美術館、旧海軍司令部壕、平和記念資料館を訪れました。

佐喜眞美術館
 ここにはアートで戦争、平和について考えることのできる施設でした。また、元々美術館の土地は、普天間基地であり、すぐそこがガードフェンスがあり初めて目の前で基地の存在を認識しました。「沖縄戦の図」は言葉にならない悲惨な戦争の様相を表現されていました。米軍の艦隊、血で染まった海、海に沈んでいく人々
特に印象に残ったのは、「集団自決」(強制集団死)という言葉の意味です。今まで言葉自体は知っていました。けれども、学芸員の方はこうおっしゃっていました。「自決というのは自ら決めると書くが当時の人々は、追い詰められ相手に殺される前に死ぬという選択肢しか残っていなかった」この言葉を聞き、私は今まで表面上の事実、言葉しか考えてこなかったのだと感じました。想像してもしきれないような当時の様子がそこにはありました。

旧海軍司令部壕
 第二次世界大戦中末期に日本海軍の司令部壕が置かれ、激しい戦場となった所でした。当時の壕は450mあり、現在は約300m公開されていました。残りの150mは今後遺骨収集が行われるそうです。長い階段を下り少しひんやりとしていました。現在は電気がありましたが、当時はもっと暗かったと想像できました。壕内には作戦室、司令官室、出撃口などが当時のままそこにはありました。兵士の殆どは武器らしい武器もなく、沖縄戦を戦い、本土決戦の時間稼ぎと言われる中、どんな思いで、壕をほり、戦っていたのか、もし自分が同じ状況だったら、など考えると胸が苦しくなりました。

平和祈念資料館
 今回遺骨収集活動した場所の公園内にありました。資料館には沖縄戦前後の歴史や生活の実相、悲惨な写真などが展示されていました。中でも戦争当時の証言が多く展示されていて、生々しい実情が残されていました。ここで感じたことは、今、私たちが生きていて、生活していたように、沖縄の当時の人々も生きていて、それぞれの生活がそこには存在していたという事を、改めて認識することができました。

展示室から出るとこの景色が待っていました。沖縄の人々は、本土からの助けがない中戦い、最後はこの海に追い詰められていったということでしょうか。しかし、現在と同様に当時の沖縄の人々もこの海が好きだったとおもいます。この海を見てそれぞれが考えることは違うと思いますが、想いを馳せて考え続ける事が大事だと感じました。

その後の遺骨収集活動は平和学習を通して改めて、亡くなった方の「生きた証」を見つけたい、そんな想いを持って行うことが出来ました。

私はこの期間、初めて会う同じ学生と多くの考え、思いを話し合い、学び、遺骨収集活動を行いました。ここで語りきれない、新たな発見、体験がありました。

先の大戦で亡くなった方の思いは今を生きている私たちが受け継いでいくものであり、さらに、その先の未来のために伝え続けないといけない。そんな想いを持ちました。現在も戦争が世界で行われ、平和の尊さが再確認されています。この活動で学んだ、人と人々が自らの考えを持って、伝え合い、互いを受け入れて平和を祈念し続ける、このことこそが平和であり続けるための一つの手段であると考えます。

ここまで読んでくださり、感謝致します。

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