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勇気は1秒だけど後悔は一生

今回のインタビューは原太陽さんです。

ご出身やどんな生い立ちでしたか?

2歳まで静岡県に住んでいましたが、生まれは東京で15歳まで東京にて育ちましたが高校から島根県へまさかの島留学しました。島根県立隠岐島前高等学校という高校です。母親の囲碁関係の方からの話でこの高校の存在を知った母親が「ここしかない」と思ったらしく、自分からしたら都立高で野球でもやろうかなと思っていたので「何がここしかない」なのか分からないが本音でした。

島留学は当時嫌だったのですが、まずは行ってみようと母親から勧められた島で開催している子供向けのサバイバルキャンプに参加することにしました。トイレも自分で掘る自給自足のサバイバル生活の中で島の子供達と触れ合い、その逞しい心根を素晴らしいと感じる事が出来て島が良い所と感じてキャンプから戻ってきました。ですが完全に島留学を決めたわけでは無かったのですが母親の意思が強かったのと、高校に入ってやりたかった野球も母親から「そんだけやりたいと思えるなら島で野球部を創ったらいいじゃん」と説得されて島留学する事になりました。ただ何故母親がこんなにも島留学して高校に入ってほしかったのかを後から知るのですが、中学で両親が離婚して、母親が女手一つで育ててくれましたが母親は経済格差がそのまま教育格差に繋がるのが悔しかったそうです。なので都内の子と違う体験をという想いと当時の島の町長の山内道雄さんなどが凄く良い方で話で感銘を受けたのが決め手だったとの事です。

高校で一番の印象に残るエピソードは野球部を立ち上げた事です。そもそも人口が少なかったですが一年目は既に皆他の部に島留学時に入部していたので何もできませんでした。二年目からは野球をやっていた地元の中学生や県外の中学生が新入生として入学してくるので今しかないと立ち上げ活動に励みました。2年生の春から3年生の春になるまでに、全校の男子生徒の5分の1程度を部員にすることに奔走。部員が揃い野球部が発足。ただ、発足が3年生の春でそれまでは監督もおらず自分が監督兼主将兼選手をしてました。2塁まで自分で進んでベース上でサインを出したり。進学は島に大学がないので国公立受験の為に猛勉強して高知大学に推薦で社会経済学科に入学。教育に興味があったので大学で社会科の教員免許も取得しました。


インタビュー風景

お仕事は?

順当にいけば教師になる予定でしたが教員採用試験の枠に囚われたくなかったのと学校教育で出来る事は限られていると思い別の様々な職を経験。金融機関、人材営業などを経験。新卒時代の仕事を選ぶ基準としては、ガッツがあるけどお金のやりくりに困っていた母親を見ていてファイナンシャルリテラシーが必要だと思いファイナンシャルプランナーの2級を大学時代に取得しました。資格を活かして社会人一年目は四国ろうきんに入社。1年8ヶ月で安定企業に入るもなかなか自分のやりたい事が出来ない事やルートセールスばかりで転職や起業を見据えた場合は、この業界以外では通用しなくなるのではと危惧して転職を決意。転職を決意したのが24歳で新規開拓がメインでゴリゴリの営業職を探すも希望に合う職が無かったがリクルートジョブズやリクルート系の応募ができる事を知ってリクルートジョブズを応募したら受かった為、営業力を身に付ける為に入社。2年半ほど勤務したのち、現在は個人で営業代行、美容関係の代理店営業と体験型の教育事業などを展開しています。

趣味やハマったことはありますか?

サウナに入って整えるのがハマっていますね。サウナ後の水風呂に入ると足のふくらはぎが次の日の朝軽くなる体感あります。また裸の付き合いで親父や先輩、友人、初対面の方ともコミュニケーションが取れるのが良いです。2週間に1回程度のペースで行きます。
あとは球技や囲碁など、多趣味です。

何にお金を使いますか?

将来より形にしたい教育事業の資金として今は資金作りと、将来的には家の庭にサウナを作ったり未来の奥さんや家族との体験に使いたいですね。
人生の価値観が合う人たちと、将来は家族同士で海外に行ったりバーベキューをしたり。
そんな会話が最近は友人、先輩、後輩などともできていて話しながらお互いワクワクしています。

将来への野望、今燃えている事はありますか?

自分自身の人生観に対して素直に生きれる人を増やしたい。
もっと視野が拡がるお手伝いがしたい。
そのために自分が切り拓き、様々な経験を積んで視野を拡げ続け、幅のある人間でいます。

最後に同じ20代へ一言

b。自分が勇気を出した先に何か成果が生まれることが多いなと実感しています。

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