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三石巌全業績-17 老化への挑戦-4

三石巌の書籍で、現在絶版して読むことができない物の中から、その内容を少しずつですが皆様にご紹介させていただきます。


三人の迷子の話

 転の段階のたけなわになる頃、老いを気にする人がふえてくる。われわれ高齢者ともなれば、それは脅威というよりは恐怖である。
足腰の不自由も哀れだが、脳の機能低下も哀れだ。
 頭を使う人はボケない、と私にいった人がいる。私を、頭を使う人とみて慰めてくれたのだろう。はたしてこれは本当だろうか。私は、この根拠は怪しいと思っていた。
 戦時中文部省は、勝つためには女子の専門学校に理科を設置する必要があると考えた。
そこで、多くの学科が理科を開設した。そのあおりを食って、私もある学校に招聘された。
 1987年6月、その学校の第1回生の卒業40周年記念の同窓会が催された。
卒業生はすでに還暦、教職員はすでに70歳、80歳、右を向いても左を向いても、しわや白髪ばかりが目につく。
まさに高齢化社会の風景である。話題にもそれがあらわれていた。ある卒業生は私にいった。なんとか苦しまずに死ぬ方法はないものか、と。
 私はかつての同僚で、研究や著作で名の知れた新鋭の物理学者S博士をつかまえて、オパーリンのことをたずねた。
オパーリンといえば、生命の起源についての独創的な研究者である。S氏が彼と論議をするためにソ連に出向いたということを、何年か前の年賀状で知っていたからだ。
 私の期待を裏切って、彼の対応は、けんもほろろであった。
生命の起源などという問題に全く興味ない、というご託宣である。取りつくしまがない。
 S氏は私より5つほど年下である。次に私は、3つほど年長の車椅子の夫人に声をかけた。お元気ですかと。
私が顔をのぞきこむと、彼女は何やら口を動かした。しかし、ことばがよくわからない。
 そんなわけで、私は高齢化社会の雰囲気を満喫させられることになった。
 ここまでは、まず、めでたしめでたしといえるだろうが、あとがいけなかった。幹事から聞いた数日談だが、帰り途で迷子になった人が3人もでたために、大変な騒ぎがおきたという。参加した教師側は12、3人はいた。そのうち3人が迷子になった。
付添いのある元教師が2人いたが、これもひとりで帰ったら迷子になったかもしれないと思うと、頭を使う人はボケないという説は全く信用できない、といえそうだ。
迷子の3人は、物理学者・数学者・憲法学者であって、いずれも頭を使う人たちだった。それがボケたのである。
 ここで、ボケとは何かを考えてみると、この場合は合目的性の喪失ということにしてよいだろう。というのは、校門を出たとき、彼らは家路をたどることを目的にした。
その目的が達せられなかったことになる。その家路は昔のままなのだ。会場は、学校の学生ホールだったのだから。
 読者諸君はウォルター・ブラテインの名をご存知だろうか。この人は私と同年の1901年生まれのアメリカ人で、半導体の研究とトランジスターの発明とによって、現代をエレクトロニクス時代にのせた恩人である。そして1956年度ノーベル物理学賞をうけた人だ。彼こそは、かけねなしに頭を使った人といえるだろう。
 先日の新聞は、彼がアルツハイマー型認知症で亡くなったことを報じた。麒麟も老いれば駑馬にしかずという古語が思い出される。この英才も、ひとりで外に出たら迷子になったことだろう。
 この3人の迷子たちにどのような未来があるのだろうか。それは少なくとも一面において、われわれすべての未来を暗示するものなのだろうか。

認知症と物忘れ

 認知症と物忘れとは不可分の関係にあるようだ。合目的性の喪失も、3人の迷子の場合、結局は順路を忘れたことからくる。そのうちの1人の自宅は、学校から徒歩で20分ほどの距離にある。ところがその人は、反対の方向に歩いていったのだった。
 私が聞いたところによると、その人は白内障をわずらっていて、週に1回は眼医者に通っているという。彼は自分が白内障であることを忘れていないわけだ。医者への往復は、恐らく夫人の付添いを要するだろう。
それにしても、記憶が全部パアになってはいないのである。
 新しいことは覚えられないが昔のことはよく覚えているものだ、という話があるけれど、これも怪しいものだ。というのは、彼の場合、40年前に通った道を忘れているからだ。じつをいうと、<記憶>というありふれた現象について、多くの人が納得するような理論はまだどこにもない。したがって、私は私の仮説で押しまくらざるをえなくなる。
 私の仮説では、ことばや記号は二進法によって暗号化され、<ニューロン>のDNAにおさめられる。二進法とは、コンピューターの記憶に利用されている方法であって、スイッチのオンとオフと二つの要素の組合わせで暗号を構成するというものである。
オンを1、オフを0とすれば、11とか101とか111とかを、記憶すべきものの暗号にすることになる。コンピューターでは、1とか0とか単位を<ビット>という。
 この仮説でいくと、あとになるほど記憶がおっくうになるという原則がでてくる。人間は、世に出る以前から何かの記憶をしているはずだが、最初のうちは、ビット数が少なく桁数が少ないから記憶はたやすい。
新しいことばを記憶するとき、すでに使用ずみの暗号を使うわけにはいかない。つまり、新しい暗号をつくらなければならないわけだ。それで、桁数もふえビット数もふえるから、おっくうになる。
 記憶は、<瞬間記憶>・<短期記憶>・<長期記憶>の3つに分類されるが、ここにいうのは長期記憶の場合である。これをさして<記銘>ということもある。
 こんなわけだから、記憶量が少ないほど、新しい記憶がたやすいというおもしろい法則が、私の仮説から導かれる。だから、別に新しい記憶をしようなどと思わない人は、何も気にすることはない。しかし、新しいことを覚えたいと思う人は、余計なことを記憶しないほうがとく、という論理になる。
 じつは私の感じでは、物覚えが悪いといっている人は、覚えようとしていないようだ。ビット数や桁数をふやすのはおっくうだからやめにするという態度は、記憶が悪いのではなく、記憶をしようとしないことになる。これを物忘れがひどいなどというのは見当ちがいではないか。
 2個のニューロン(神経細胞)の間は、<軸索>あるいは<樹状突起>でつながれている。その状態は、軸索の先端から分れた枝の先の<終末ボタン>が、別のニューロンの樹状突起とのあいだに<シナプス>を形成した形だ。終末ボタンに蓄えられた<神経伝達物質>が、そこから放出され、シナプスのギャップを飛びこえて隣のニューロンの樹状突起に吸いこまれるのである。
 脳の活動というのはニューロンからニューロンへの電気信号の伝達にほかならない。ただし、電気信号は軸索を伝わって終末ボタンに到着すると、神経伝達物質とよばれる化学物質の分子を情報の伝達者に仕立てるのである。
 神経伝達物質は種類が40種をこえていて、それぞれが厄介な問題を抱えている。認知症とよばれる現象にはいろいろなタイプがあるけれど、そのうちのあるものは神経伝達物質の面からとらえることができるといってよい。
 私の仮説のように、記憶がDNAにあるとすると、その安定性からして、いったん固定した情報は、原則として消えないことになる。それは、<永久記憶説>といってよいだろう。この記憶にとどめた情報が利用されるためには、そこで神経伝達物質が合成され、それが終末ボタンにまで送りつけられなければならない。もしそれの終末ボタンへの輸送が妨げられたり、あるいは、終末ボタンに、それを収容する<シナプス小胞>が用意されていなかったり、相手のニューロンの樹状突起に神経伝達物質のレセプター(受容体)が欠如していたり、異状になっていたりすれば、せっかくの記憶が活用されないことになってしまう。
 このようなとき、仮に記憶が成立していても、それが出てこられないわけだから、結局は物忘れという状態になる。ここで神経伝達の条件が回復すれば、物忘れもなくなるというものだ。

頭を使うとどうなるか

 ニューロン接続を見ると、樹状突起にくっつくはずの終末ボタンのいつくかは宙ぶらりんになっている。新しいことを覚えてそれを使おうとするとき、この終末ボタンが動いて、しかるべき樹状突起のところまでのびて、そこにシナプスをつくることになる。こうして、ニューロンのネットワークは、物事を記憶するたびに、密になり複雑になってゆくのである。
 脳ではよく、ニューロンの<回路>ということばを使う。電池の回路というと、例えば、電池とフラッシランプの場合、電池のプラスとマイナスが、そのソケットにつながれていて、スイッチオンにすれば、電流が、電池・導線・ランプをぐるりとまわる。この循環路が回路である。
ところが、ニューロンの場合、ぐるりとまわる必要はない。
一つ一つのニューロンに発電装置がついているからだ。
 頭を使うということは、ニューロンの回路を使うことである。このとき、回路に配置された終末ボタンが大きくなることが知られている。
その事実から、記憶のありかを終末ボタンに、つまりシナプスにあると考える人が少なくない。
私はそれとちがって、記憶のありかを、細胞体のなか、それも核のなかのDNA分子としている。
私の仮説の名称を<DNA延長説>とする根拠はその辺にあったのだ。
 脳生理学では、<学習>ということばがよく用いられているが、これは「頭を使う」ことの一面である。
動物実験では、ネズミに迷路を覚えさせたりするが、学習とはこのような過程をさす。
迷路が記憶されたとき、学習は成立し、それに対応する回路が結成される。このとき、その回路に組みこまれたシナプスは大きくなっている。この事実を表現するのには、<シナプス荷重>が大きくなったという。学習によって、シナプスは大きくなり、シナプス荷重は大きくなるのである。これは、われわれ人間についてもいえるだろう。
 ところが、頭を使わないでいると、つまり、その回路を使わずにいると、シナプスはしぼみ、シナプス荷重は小さくなる。
この事実を<ヘッブの法則>という。発見者ヘッブの名にちなんでの命名である。
 いまあなたがヘッブの法則を新しく学習したとしよう。すると、そこには新しい回路ができたはずである。
そして、その回路に組みこまれたニューロンのシナプスは大きくなった。もし、この回路を、短期間に2度3度と使えば、それに応じてシナプス荷重は大きくなる。
 シナプスが大きくなれば、そこに蓄えられる神経伝達物質の量も多い。したがって、その回路の活性が高いことになる。活性の高い回路は、要求があればすぐに働きだすだろう。この事実をさして、ヘッブの法則に関してその人の頭はよい、ということができる。毎日マージャンをやっている人は、マージャンに関して頭がよくなる。しかし、カントの哲学に関して頭がよいかどうかはわからない。
 その人がマージャンから遠のけば、マージャン回路のシナプスは次第にしぼみ、その活性は低下する。
そしてその人のマージャンに関する頭は悪くなる。
 それなら、老化が始まったら、シナプスはだんだんしぼむだろうか。また、シナプスをふくらますことはできなくなるのだろうか。
答えはノーである。高齢になっても、終末ボタンが動き、樹状突起がのびて、両者のあいだにシナプスをつくることができるのである。
頭をまんべんなく使えば、シナプスの縮小を食いとめることもできるはずである。
 このように考えるとすれば、例の老化プログラム説は、脳に関するかぎり、追放されざるをえないだろう。
しかもなお、認知症の必然性も認められなくなるが、それでよいのだろうか。
加齢とともに記憶力は落ちなくも、頭の回転がのろくなるともいわれるが、それの説明はつくのだろうか。

【三石巌 全業績 17「老化への挑戦」より抜粋】


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