ロサンゼルス生活14日目

本日もサニーデイ。

日曜日。日曜日はお寺に行く日。サンデーサービスというウィークリーの行事が催される。朝早くからお寺の関係者の方が迎えに来てくださった。(本当にいつもありがとうございます)

本日はただの日曜日ではなく、私が昨日書いた通り、お釈迦様の誕生を祝う日でもあった。更には他にも何やら重要な意味を持つ日でもあったらしく、会の最中にその説明があったのだが、専門知識も英語力も持ち合わせない私には残念ながら理解することはできなかった。まあいいんだ。とりあえず今日はスペシャルな日ってことだ。

スペシャルな日には「お斉(おとき)」と呼ばれる食事会をやるのが通例らしい。本日も参加者の方々が持ち寄った料理が集会場のような部屋に並んでいた。アメリカに住む日系人の方々が多いだけに、料理もバラエティに富んでいる。日本風の料理もあれば、アメリカ風の料理もある。和洋折衷のような料理もある。甘いものもたくさんある。喜び勇んで私は大いに食べた。こういう時に遠慮はしない(できない)質である。更には余った料理を大量に頂いた。(本当にありがとうございます。)

今日はギターも頂いた。楽器はすべて日本に置いてきてしまっていたから、アコギの一本ぐらいは絶対に手に入れようと思っていたのだ。(本当にありがとうございます。)

更にはお寺の倉庫に眠っていたチェストを頂き、自宅まで運んで頂いた。いや運んで頂くだけではなく、家の中まで運び込み、更には組み立てまでやってくださった。そしてさも当然のように「喉が渇いたでしょ」と、妻と私に水を置いていき、颯爽と帰っていった。

一体これはどういうことなのだろう。私たちはアメリアに到着したその日からお寺の方々にお世話になりっぱなしである。それはまあ遠い日本からわざわざお寺で働くためにやってきた人とその夫に色々としてやろう、という気持ちも分からなくはない。分からなくはないのだが、都会に住んでいた日本人的な感覚からすると、これはもうちょっと凄すぎて、感謝してもしきれないというか、なんというかとにかくもう申し訳ありません、という感じである。

これはアメリカという国の土壌なのだろうか。隣人を愛せ的なキリスト教的な土壌なのだろうか。ボランティア精神に溢れる国民性なのだろうか。

いや、そもそもお寺での活動を見ていると、これは東京ではなかなか成立しないだろうなと思いながら見ているところがある。なんというか、全体的にとても主体的なのである。義務感で動いているような人、あるいはそのように見える人というのはあまりおらず、自分の居場所や自分のコミュニティのために自分が動くのは当然でしょ、といったスタンスに見える人が多いのだ。

これもまた日曜に教会に通うことが慣例化している国民性のためなのだろうか。つまり自分にとって大切なもののためだから動けるのだろうか。それとも何に対してもポジティブに動く人々なのだろうか。今のところは分からない。分からないが彼らのスタンスについては、存分に見習うべきところがあるように感じる。

日本にいた時に私がとても嫌だなと思った言葉。この類の言葉よく聞く。「それをやって私にどんなメリットがあるんですか?」「それ自分がやらなきゃならない理由ってあります?」。理屈としては分かる。分かるし、メリットもなければ理由もないよ。だけどだいたいお前らそんなしょうもないメリットとか理由とかでしか動けんのかい。お前らそんなことを口にしている自分を恥ずかしいとは思わんのかい。ちっぽけな自分がさらにちっぽけになるだけだとは思わんのかい。

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