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「勉強したくてもできない子供たち」なんていない

「勉強したくてもできない子供たち」ってなんなのか
年度が変わる。

3つの法人を経営している身としはなかなか時間が現場の活動以外に食われるしょうもない次期だと思う。
箱なんて世界で1つでいいと心底思う。
絶対に実現することはないが、倫理と罪と罰が完全に機能していれば。

そんな私のくだらない時間の浪費とは関係がなく今日もまた外部環境が原因で努力できない人間が生きており、教育活動と女性の自立支援活動をしている。

勉強したくてもできない子供たちなんているのか?

勉強したくてもできない子供たちなどという言葉はただの大人が作ったキャンペーン文句に過ぎない
勉強させたいけどさせることができない人間が考えた言葉である。
主体を置き換えてまるで子供たちが勉強したいと自発的に考えているかのように、自然と感情として抱いているかのように訴えかけ、寄付や助成金などの支援を受ける。

決まった時間に決まった場所に行って分からないということに対するストレスを抱えながら勉強するよりもダラダラと遊んでいたり興味の向くままに遊んでいたいと”思っているのではないだろうか”
まぁ全員が全員ではないだろうがね。

私が実施している教育活動は勉強したくてもできない子供たちに勉強する機会を提供するものでは決してない。

勉強しておかないとこの資本主義と民主主義の世界において現存する絶望からの脱却やこれからの希望に向けての努力する土台すらない状態、すなわち「外部環境が原因で努力することができない状態」にいることは火を見るより明らかであり、だから勉強する機会を村の大人の理解を得ながら子供たちに与えている。

子供が勉強なんかせずに1日中遊んでいたくても集めて勉強をさせている。
当然子供目線でもそうネガティブなものでもない。

子供だけで集まって新しいことを知ることは友達や先生と会って安心したり、好奇心を満たしたりと楽しさもあるだろう。
ただ私にとって正直そのようなことは大きな問題ではない。
子供が楽しいかどうか、自発的かどうかは教育活動を拡大継続するための1
要素に過ぎずそれは決して目的ではない。

詐欺
人身売買
レイプ
汚職
簡単に防げる病気

これらから自ら、コミュニティとして努力して身を守り、自身の目標や夢や志に対して前を向ける状態にしていける土台が教育であり勉強であろう。
勉強をしていない状態ではこれからの災害にも似た絶望が”当たり前の日常”であり、あらゆる統計にすら現れない誰にも知られない事実を抱えた私と同じ人間として産まれて死んでいく。
知識と知恵、それを活用する知性は努力をする源泉であり、それを身につけるために勉強する機会を提供する活動を継続し、拡大するのである。

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