「多様性」という言葉は必要か

Yahooに掲載されているウルフ・アロン氏の記事を読みました。

子どものころから障がいのある人、LGBTであることをカミングアウトしている人(この表現が正しくなかったら申し訳ないです)、宗教2世が身近にいて、今振り返れば多様な世界に生きていたなと思います。
そうでなかったにしても、例えば学校は多様性のるつぼです。二項対立的に挙げると「勉強ができる子、できない子」「運動が得意な子、苦手な子」「リーダーシップを発揮する子、縁の下の力持ち」、他には「盛り上げ役」特定分野にめっぽう強い「おたく」、「普段はおとなしいけど楽しく話してくれる子」、本当にいろんな子がいて仲良く過ごせていたと思います。いろんな人がいるなとは思っていたけど、「多様性」なんて気にしたことがありませんでした。そんなことを気にするまでもなく楽しいものは楽しいなと心の底から思っていました。

ウルフ・アロン氏が述べている通り、多様性を気にしている以上多様ではないのです。多様ではないから、多様性という言葉が存在しているのです。「みんな違ってみんないい」とよく言いますが、みんな違うからいいのではなく、違おうが違うまいがいいものはいいのです。そして人間はだれしもがいいのです。

教員をしていると「いろいろな生徒」、「いろいろな保護者」がいます。生徒や保護者に対してあまり感情的になることはありませんでしたが、管理職になると「いろいろな先生」に出会います。同じ仕事をしている同僚ともなるとこうしてほしい、ああしてほしいという教員としての理想のようなものが「感情」となって表れてしまうことがあります。「感情」が入るとどんなに仲が良くてもうまくいかなくなることが生じるわけです。

「感情抜きで」互いを認め尊重する。これを一人でも多くの人ができるようになると多様性という言葉はなくなっていくのではないでしょうか。

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