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ヒダリメの鴉

 目を覚ますと、日が昇っていた。どれだけ経ったのかも分からないような曖昧な朝の日差し。水槽の底に溜まっていたぬるい水の中にいるような気がした。私はベッドから起き上がって、工房へ向かった。しきりに扉を叩く音が部屋まで響いてきていた。
「なんだ、やっぱりいるじゃねえか。」
無頼のような声をかけてきたのは金髪の好青年だった。背が高く、出口を塞がれてしまう。肩から飛び出した剣の柄が、朝日に煌めいていた。
「ベル、それじゃまるで悪党だ。」
幼馴染に、私は注意じみて言った。
「それで、朝から何の用だ。」
そう言うと、ベルは少し私を疑うように見た。私はそのことに気づいてなお、気づかないふりをして、あっけらかんとして、すがすがしい朝を装っていた。
「森蝕が起こった・・・。」
「そうだな。」
私はそう応える。それを呑み込むように。
「そうだなって、つい二週間前に起こったばかりなんだ。分かるだろ?・・・森が活発になってる。」
彼は私に何かを言いたいのだと、私はそれを大概察していて、しかし何も言わなかった。ベルはひとりでに諦めたように、ふいに言った。
「なぁ、どうして、森は広がるんだろうな。」
「そりゃ、森蝕の森の木はカタいからな。ただの鉄じゃ切れない。」
私は明るく言った。
「その上、彼らは、伐られているのを理解してる。私たちが思っている以上に世界を見ている。人が木を伐れば、伐られるよりも速く新しい木を生やすから、どれだけ伐っても伐ってもいたちごっこさ。森の成長の方が早い。」
「そうじゃない。もっと、根本的な原因の話だ。」
私は少し、鼻から息を吸った。
「神がいるって?」
「・・・いや、分からねえ。でも・・・」
「そう思えば、納得できる?神さまが人間を創って、その神さまが人間を滅ぼそうって決めたから、それなら、運命だって、そう思って、受け入れて死ねる?」
ベルは考えるように、部屋のどこかへ目を向けた。
「どうだろうな。やっぱり無理なんじゃないかな。」
私は言った。
「そう思えた方が幸せだとは思うよ?」
窓辺からふいに差し込んだ光のように軽やかな音だった。ベルは尋ねた。
「お前は受け入れてるのか?」
風が通りを駆けていく。
「この状況を受け入れて、自ら死を選んでいくやつらもいる。人類に終焉の時が来たって・・・。どうせ死ぬしかないのなら、安らかに死のうって。そりゃ大人はまだいいさ。でも、道連れにされていく子どもはどうだ。」
「世界が変わったんだよ。」
「世界・・・?」
「人間は世界に造られたんだ。二本足で歩くのも、言葉を話すのも、悲しんでいる人を見て、自分も悲しくなるのも、全部世界に造られて、そう在るだけなんだ。私たちは世界から生まれて、世界に生かされてきたから、その世界が変わったら、適応できないやつが死ぬ。それだけだよ。」
私には期待も絶望もありはしなかった。
「それで、ベルはわざわざそんなことを聞きにきたの?」
ベルは暫く私を見ていた。机の端を勢いよく羽虫が走っていた。
「グラニカの町に行ってくる。」
それは先日、森蝕が起こった町だった。ここからそう遠くはない。彼の言葉には死の決意すらあった。
「俺たちは、ハンターだからさ。」
私はちゃかすようにどっと笑った。
「ハハッ。ガラクタ漁りの間違いだろう?ハンターっていうのはさ、もっと深い森の奥に入って、巣食った異形を倒して、人類のために資源を持ち帰ってくる人たちのことだよ。ベルみたいに、壊れた人の家から鉄くずを集めてくるのは、ハンターなんて言わないの。」
「ひでえ言い草。」
彼も笑った。
「ベル・ベリックっていえば、それなりに名の知れたハンターなんだぜ?」
「私は聞いたことない。」
ベルは困ったように微笑んだ。
「まあ、窯は暖めて待っとくよ。ハンター様のためにね。」
私はそう言って工房の奥へと向かいながら
「たまにはその剣に傷の一つでもつけて帰ってきてよ。そしたらもっと強く鍛え直すから。鍛冶屋冥利に尽きるってやつだね。」
ベルが帰った後、工房を訪ねるような人は一人もいなかった。町で唯一の鍛冶場ももう私ひとりである。私は煤で黒くなった窯を丁寧に掃除した。もう随分と火をいれていなかったので、大して汚れていなかった。日が陰って、工房はすっと暗くなった。私はもうそんな時刻かと思って窓を開けて空を仰ぐ。
「ああ、太陽が隠れちゃってる。」
日が沈むにはまだ早い、午後三時。太陽は木の根に遮られたのだった。森蝕の森の木の根である。根は時の止まった津波だった。今にも街を襲わんとするその寸前で、動きを止めた津波だった。根の津波は、恐怖の象徴となって街にそびえ立った。いつ動き出してもおかしくないソレを恐れて人々は逃げていった。
「アレは、誰かが止めたんだろうか。」
私はそんなことを呟いた。
 
 通信室で小鳥の鳴き声のような機械音がとめどなく響いている。決して広くない小部屋に積み上がった機械の針は、止まることなく揺れ続けている。人がいるスペースよりも機械が占領しているスペースの方が大きい。この部屋では、人は肩身を狭くして、ただ届いてくる音に聞き耳を立てなければならない。聴き慣れたはずの小気味いいモールス信号の長音と短音のリズムも、代り映えがなく、気がおかしくなりそうなのに、一たび静寂が訪れれば、今度は恐ろしいほど静かなのである。休まる瞬間がない。オックス少将は静かに部屋の扉を押す。
「第103小隊、通信、途絶えました。」
後ろから聞こえてきた。
「第27小隊、接敵。戦闘を開始します。敵は・・・・」
通信室から出た。空気が澄んでいる気がする。オックスは足が重くなったような気がして、廊下の長椅子に腰を下ろした。この五日間、陸軍通信部は激務を強いられていた。電話が誕生したことで、モールス信号など一昔前の技術となった今、そもそも通信部は縮小傾向にあり、真っ当な仕事などほとんど行っていなかった。それが突然どうして再びカビ臭い部屋を開けることになったのか。オックスはその理由すら聞かされていなかった。
「お疲れのようだね。」
項垂れていたオックスに声をかけてきたのはガイネルだった。
「統帥・・・」
ガイネルは初めからそこにいたかのようにオックスの横に座った。これが彼は上手かった。オックスもまた疲れているにも関わらず、そうされたことを、めんどうに思うよりもうれしく思った。
「ルイス様がお見えになられていたよ。君にも会いたがっておられた。つい先ほど帰られたが。」
ガイネルが言った。
「そうでしたか。」
頭がぼーっとして心がうまく言葉にならなかった。
「ひとつ食べるかね。」
「クッキー、ですか・・・。」
「疲れた時には、甘いものだよ。」
クッキーは四角い缶に入っていて、蓋にはGATE REGIの文字が見えた。硬いクッキーは嚙み砕くと、やわらかなバターの甘い香りが口から鼻に抜けていった。
「統帥、教えていただけませんか。」
オックスは改まって言った。夜はもう深く、廊下といえど、人はいない。通信室から、わずかにモールスの音が漏れ聞こえてきていた。
「・・・白い少女とは、何なのですか?」
オックスはこの五日間、ずっと頭の隅にあった謎を問いただしていた。彼はそれを秘匿するかもしれないが、それでも聞けただけで満足するところがあった。ガイネルは遠い目をした後、ほほ笑みかけるように口を開くと、何かの光に反射して、瞳がぎらりと光った。
「最後の希望だよ。・・・・この世界を、森から守るためのね。」

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